霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

親の情に負ける時

2012年05月27日 | 心霊現象
人間にとって一番難しい情の問題は、「親子」の情かと思っていましたが、現代はあまりそうでは
ないようです。一面喜ばしい反面、悲しい部分もあるという事でしょうか・・・。
もし、現代に「萱野三平」が生きていたら、またもし彼が武士の家柄ではなかったら、「死ぬ」までには
至らなかったかもしれません。
あなたも、そう思いませんか?

親が泣いて頼む時、あなたはその親の情を無視し、足蹴りこそしないが、とっとと家を出て、自分の希望、あるいは志を成し遂げようとしますか?
私は「その時」、親の情に負けました。
さめざめと泣く親、特に母の涙の前に、もろくも崩れ去る「自分の決心」を、人ごとのように見つめて
いました。
理論、理屈にはかなわない「何か」があったことは、確かです。


私が25歳くらいだった時と、覚えています。
雪崩の事故から、何年かたっていましたから、少しはそのショックが和らいでの心の状況だったのでしょう。
ある日私は「一枚のポスター」を見ていた。
大きな二つの目が、私をじーっと見つめていた。
何?。 言いたいことを、その瞳の奥に隠して、じっと見ているだけだ。
アフリカ?いや何処かはわからないが、黒い肌の子供の顔が、ポスター一面に映し出されて、「私」を
見ていた。
その上に字が書いてある。「あなたも海外協力隊へ」と。
その団体名が「何」で、どこにあるかさえも知らずに、私は決心をした。協力隊にいって、「この子」がいる
国の為に仕事をしょう・・・と。
全くむてっっぽうといえば、その通りだ。
親には、受かったら話をすればいい。
ちょっと試験を受けてくるから、と言って隣町へ行ってくるような軽さで上京した。
東京、広尾にある「日本青年海外協力隊」である。
いまでこそ名の通った団体ではあるが、昭和45、6年はまだまだ、事業も始まりだったと覚えている。

結果、試験には「合格」。すぐに入隊せよとの事だった。
親への報告と、説明、説得の日々を費やしたが、OKは出なかった。
父は黙ったまま、無視を続けた。母だけが、この時ばかりと反対の意を長々としゃべった。
時間だけが経っていく。母はみるみるうちに顔をしかめたかと思うと、大粒の涙を両目から流し、こう
訴えた。
『アフリカの奥地に行くかもしれない。どじん「土人」の相手をするかもしれない。あなたに出来るわけが
ないでしょ!・・・頼むから、止めてちょうだい!母さん、生きた心地がしない・・・。』
と言うやいなや、とうとう私に手を合わせて拝んだ。

皆様、昔はね、肌の黒い人は「アフリカ」に住んでいて、「土人(どじん)」といわれ、奥地に入れば、
人を殺して食う人種もいると思われていた。といったら、皆さまは笑っちゃいますか?それとも信じませんか?
母は、それほど古い人でもなく、無教養な人でもなかったが、こと「我が子」の事になれば「ある事、ない事
」が、気になるのだろう。
その母の涙と、さめざめ泣く姿と、極め付け拝まれちゃった事で、私は「協力隊」の願望を自ら取りやめた。

これが「大望」かどうかは分からないが、私にとってみれば「大志」だ。
親の目でいえば「わがまま、勝手」な事であり、「親不孝」のなにものでもない。
親と縁を切ってまでも・・・という、大それた事は考えにない。
それよりもなによりも、「情」に負けた。
「親の反対で・・・」と、二十歳すぎた女が、実に情けない台詞を吐いて、世界への大望を捨てた。
ある意味で、私が死んだ瞬間でもあった。(腹こそ切らないが、志を売ったのだ)
その自責の念は、しばらく続いた。
私が私でなくなって、しばらくしたある日。
私は再びの蘇(よみがえ)りを計った。死んだ私を生かさなければ・・・!
何かに取りつかれたわけではない・・・が、「あの二つの目」が私を呼んでいる・・・。

まさしく「リベンジ」だ。
今度は負けない。誰が何を言っても、私は負けないで、初心を貫徹せねば!
どんな邪魔が、誰からはいっても、切り捨てればいい。
その為には、先ず試験に合格しなければならなかった。
再びの上京。再びの広尾であり「協力隊」だった。
「へーぇ、二度目ですかぁ」(はい、親に負けまして・・・)
「なるほど・・・。はい、わかりました。ご苦労様でした。次のかた~」
私はもっと話したかった。心の内を、熱く語りたかった。が、ものの4、5分で面接は終わった。

結果、「合格」。
親が泣こうと、はたまた死のうと?私は行くぞ~!
あきれ果てた親は、今度は娘に負けた、というよりも見捨てたのかもしれない。
あこがれの入隊日。日本全国から「燃えた」若者たちが、集まった。
まだまだ日本も、いや日本の若者も捨てたもんじゃない、と思えた。
その後、私の派遣国は「インド・パンジャブ州」と決定した。
朝早くから、起床、国旗掲揚、4キロのマラソン、そして朝食。
授業ほとんどが英語に費やされた。寝言も英語で言うくらいになる、と先輩諸侯がおどすくらいだ。

その後どうしたか?
無事に研修が終われば、私はめでたく「インド」へ渡り、インドの女性たちの「栄養状況を改善」するべく
大いなる役目について、世界狭しと、飛び回っていたかもしれない。
しかし、人生は「何」が起こるかわからない。
今、私がこうして霊界だ神だ人生だと、口やかましく、かまびすしい立場にいるという事は、その「何か」
が起こったからです。それは・・・。
研修中、あまりの激しい、厳しい日課に、体が悲鳴をあげてしまった。
脈が乱れてきた。時々止まったり、動いたり、早くなったり、普通になったり・・・。
医学的にいえば、病名は「不整脈」。医師の診断では、私は「不適正」。
つまり、インドでの「海外協力隊」の仕事は無理、という事だ。
即刻、強制送還された。どこへ?田舎の自宅にである。
人生にこんな事って、あるんですねぇ・・・。
私は声も出ない。泣くにも泣けない。人生の無情を嘆くだけだ。誰を怨めというのか・・・。
親は飛び上がるほど喜びたかっただろうが、私の顔色を見ながら、気を使ってくれた。




結果を見なければ、言う事を聞かない「私」に、何を言いたかったのか・・・。
今となれば、多分・・・、という気もしてくるんですが・・・。

このようにして、親と私の闘いの第一ラウンドは、終わりました。
まさかこれが、次にくる「第二ラウンド」へのテストパターンだったなど、この時に、どうして分かりましょうか。

その後、国際情勢も不穏になり、パキスタンの国境が封鎖されたり、インドにも飛び火したりで、一時は
「あわや」の時もあり、日本人も一時帰国した人もありましたが、その後治まって、今に至っているようです。
「テロ」や、「タリバン」などというものが無かった頃のことですから、今思えばそれでも穏やかな
国際情勢だったのでしょうね。

二度ある事は三度とは、さすがの私も決意が鈍り、協力隊の話は私の人生から消えました。
「二度目の親との闘い」は、神であり、霊界であり、真理であり、真っ向から「これ」を引っさげての
闘いとなりました。
今にして思えば、「こればっかりは、譲れない」という霊界からの押し出しがあったことと知るもの
ですが、実にみごとに邪魔がはいりました。

次回はその事をば、お話申し上げようかと。
「ブルータス、おまえもか!」(シェイクスピア)
それはまさしく、そんな思いになった事を、思い出します・・・。
ではまた次回に。