霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「マリア」の苦難(わたしは、どうすればいいの?)  2

2012年05月02日 | 心霊現象
無事に、「イエス」は生まれた。
ここまでこぎつけるのにも、難儀なことは多々あった。
時の王が、一歳以下の男の子を、皆殺しにせよという「御触れ」をだした。
王に付いた預言者の言葉からだった。「メシア」が生まれたと「卦」(け)が出たという。
逃れる旅先のことだ、「イエス」が馬小屋で生まれ、飼い葉おけに入れられたのは。
そこで「イエスの誕生」を知ったのは、羊飼いと、東方の三博士だった。
彼らは飼い葉おけに眠る、赤子のイエスに謁見し、三博士は貢物を置くと、国へ帰っていった。

はい!ここで問題で~す。
東方の三博士は、なんで来たのでしょうか?
一、貢物を届けるため・・・・ならば、配達の人間がくれば、事はすむ。
二、星に導かれたから・・・・ならば、その目的を星にきいたか?
三、王の命令だったから・・・王はなぜ貢物を持たせたの、博士に。その意図は?

そうです、どれをとっても、博士は「運び屋」ではない。
ある目的をもって、神から使わされた人物。
三人の博士?・・・思い出しませんか?「三人」という数の意味を。
そうです。一人の人間が安定するべき物理的な数字「3」。
エデンの園にも「アダム」と「イブ」の二人には、三人(?)の天使長が与えられた。
その三人の天使に代わる「三博士」なんですね。だから、国へは帰らずに、イエスが大きくなって
その「使命」を果たすまで、養育係(学問係)をする、という役目を担っていた。
もしこの三博士が「イエス」の周りに常にいたら、学識豊かな補佐役の助けをかりて、事はどんなにすすんで
いったか・・・。なのに、この博士どもは、荷物を置くと、さっさと帰ってしまった!
これが、また一つの不信仰。イエスを支える役を放棄した、という事になった。
ねっ、人の事になると、よーくわかるでしょう?
自分の事になると、かいもく分からない・・・というのが、神の摂理における自分の役を悟る難儀な事。
それぞれの役割を担って、それこそ命がけで指名分野を、全うした。というのが、歴代の信仰者です。

その中でも、一番過激な使命を担い、難問極まりない道を歩かされたのが、「マリア」。
こうしてみると、命を賭けながら、ギリギリその道「神の道」を歩いたのも、マリアだといえる。
過酷だからこそ、マリアに神は「白羽の矢」を立てた、ともいえなくはない。

が、「イエス」の誕生のあとは、「ヨセフ」に気兼ねをしながら、イエスに大工の手伝いをせよとか、
兄弟(あとで生まれた)の面倒をみろとか、マリアは言うようになった。
ある人は言う。
イエスの使命(メシア)を本当に知っていたのであれば、母マリアこそ彼の弟子となり、イエスの道を備えて
あげなければならなかった、と。
さらに、その後も妊娠してはならず、一生イエス一人の母として、息子イエスを愛し、育むべきであった
、と。
きっと、夫ヨハネへの気兼ねからだったのだろう、ヨハネとの間に子供を産んでいる。
当然子育てで、忙しくなる。「あんたも手伝いなさいよ!」くらいは言っただろう、天下のメシアに
である。彼女の目には、「イエス」は単に「自分の息子」としか写っていなかったのかもしれない。

そこで、イエスの極め付けの言葉がこれだ。

『そこの女!』

誰に向かって言った言葉かって?
イエスが、自分の産みの母に向かって吐いた言葉だ。
こともあろうに、母に向かって「そこの女!」と言い放つか?
「この親不孝もんが!」と、びんたをもらったっていいくらいだ。
彼がメシアでさえなかったら、という話だ。

これは、悲しいイエスの叫びでもある。
『この裏切り女!』
『メシア・イエスを捨てた女!』
つまり、「マリア」をこう呼ぶ背景には、神がこう叫ばざるをえなかったという決定的結論が「ここ」にあったということだった。

歴史の真実って何?
どこに目を向けたら、それが見えるのか・・・?と。
神のものは神に聞け!・・・としか言いようがないのです。


しかし、「マリア」の立場、役目は一人。
人間として、また女性としてギリギリの死線を越える戦いであり、信仰と試しの連続だった。
「私なら、できません!」これが、凡人たる我々の現状である。
こんな道を通った、いや通された「マリア」の苦悩を慮(おもんばか)りながら、お読みください、と
いったところでしょうか・・・。
ここでまた、私達も自分に与えられた「使命」なるものが何であるのかを、日々気にしなければならない
と、いう事に立ち返るのです。

おっと、どうにかこうにか消えずに、ここまできましたね。


「歴史」を暴くという事に関連して、もの事の「真実」や「事実」を白日のもとにする、という事は
時と場合によっては、「今」がそうなのかを、しっかりと見極める必要がある。
「機が熟していない」という言葉があるように、何でも急げばいいというものでもなく、何でも明らかに
すればいいというものでもない。
「秘すれば花」という言葉もあるように、秘してこそ、その重みを増すものごとがあるようだ。
ひょっとしたら、今日のこのブログは「それ」に入りはしないかと・・・、今ここで思案をしても
始まらないので、消えなかったことをいいことにして、皆さまへお送りしま~す。


あとは、よしなに・・・・。(おー、くわばら、くわばら)

「マリア」の苦難(わたしは、どうすればいいの?)   1

2012年05月02日 | 心霊現象
なぜか、全文が消えました。
語ってはいけない事を、私は書こうとしているのでしょうか・・・。
あの文は二度とは書けない。なぜ? 原稿がないまま、手の動くままに書いたものですから・・・。
どうしましょうか?、やめましょうか?。
秘中の秘は、やっぱり明かしてはいけないんですかね~。
しばし考えたすえ、また書き始めはしますが、もし、もしですよ、また消えたら私は止めますね。
二度も消えたら、「その禁」を犯すことになりますから・・・。
おっかな、びっくり書き始めます~。(でもあの文は、幻となったなぁ・・・)


世間の常識として言えば、「イエス」が十字架についた原因は、いろいろある。
三人の弟子の体たらく、イスカリオテのユダの反逆と、まあまあ原因らしいものは出てくるが、
この人だけは裏切らないでほしかった、という人物がいる。
一人は前にお話しをした「洗礼ヨハネ」、いま一人は「母マリア」である。
この二人の「不信者」によって、結局イエスは十字架についたと言えば、各キリスト教会はきっと
目をむくに違いない。
「冗談言うな!」と、・・・。
「聖母マリアが、裏切り者?」・・・、そうです。残念ながら、そうなんです!
だからマリアは、生母ではあるが「聖母」ではない。
のっけから、何事だ!と、お叱りをうけるだろうが、これからのお話は、パソコンさえも不具合を
起こしたくらいの内容だから、「たたり」はあるかも知れない。
怖い方は、読むのを止めてくださって、結構です。
これからのお話は「秘中の秘」、神をも巻き込む内容ですから、私も怖い。
でもね、知らなければならないのもまた「真実」ですよ。
隠したままでは、次へ進まないのも「歴史」の謎のもつ「運命」というもの。

聖書ってね、読めば読むだけわからなくなる。と、言った人がいる。
その通り。聖書に書かれていないその行間を埋めるのが、これからの内容。
前もって申し上げておきますが、「聖書」は謎だらけの本だと、昔から定評がある。
また言う、聖書の全文は「暗号」を解いてこそ、はじめて分かるものだとも。
だから、読み方や解釈の仕方が山ほどある事になる。
そんな「説」の一つ一つに気を取られることなく、自分は自分の信仰を貫こう・・・ということになる。
ゆえに、キリスト教が400に分派し、相争うことになるのも、現状が証明している。


さて、「マリア」の婚約者は大工の「ヨハネ」。
無口ながらも、誠実な人物だったようだ。
彼は、血統的には「アダム」の直系であり、「ダビデ」の系統となっている。
いわば、「神」の直系となる。たとえ「大工」でも由緒ある血統、つまり「神の血統」だ。
が、マリアのお腹には「婚約中」にもかかわらず、子供を身ごもっていた。「イエス」だ。
大工のヨハネは、当然それをいぶかった。
もしその事を世間に公表すれば、マリアは間違いなく殺される。
なぜ?  当時の慣習(法)としては、「姦淫」を犯した女は、石で撃ち殺すという刑があったからだ。
『いったい誰の子だ?・・・』ヨハネの心は常に揺れ動く。
マリアへの不信が日増しに増幅する中で、きっとヨハネは声、それも神の声を聞いたはずだ。
「その子」を大切に育てよ、と。
一方、マリアはマリアで悩む。お腹の子の父が誰かは、自分しか知らない。
婚約者ヨハネの子でないことだけは、確かだ。

これからの「マリア」に関する事象は、特に女性の方は、もし自分だったらどうするか・・・を置き換えて
考えながら読み続けて頂きたい。(もちろん、男性はヨハネと自分を置き換えて読んでみてほしい)

当然「疑心暗鬼」、「疑い」、「被害妄想」と、不信のオンパレードだ。
ヨセフとマリアの間がぎくしゃくするのは、当然といえば当然の事だ。
しかし、ヨセフは一つの事は、守った。マリアの妊娠の真実を、誰にも口外しなかった。
二人には、それぞれ神からの助力が当然あったと思われる。
全部が全部、人間任せではないはずだ。人間の果たすべき領域と、神が守るべき領域。
この絶妙な分担を言い得たのが、この言葉。
『人事をつくして、天命を知る(待つ)』と。
マリアも天使の声を聞いている。あの「受胎宣告」だ。
天使・ミカエルによってもたらされた「言葉」は、お腹の子が、神からの授かりものである事をマリアに
知らせているのだ。信仰者にとっては、それがどんな意味を表しているのかは、当然わかっている。

さらに、そのダメ押しがある。
ある日マリアは、ザカリアの妻である姉の「エリザベツ」を訪ねる。
その時姉エリザベツは、こう言った。

『あなたのお腹の子は、神に祝福されています。
 神の祝福の子を身ごもるとは、何という光栄でしょう・・・」と。そして、こうも言う。

『あなたのお腹の子を見て、私のお腹の子も喜びいさんでいる」と。

これによって分かる事は、つまり「イエス」と「洗礼ヨハネ」は同じ姉妹の子、つまり「いとこ同士」
だという事だ。
身分は一人は「大工の子」、そして一人は「名門ザカリアの息子」となる。
では、母親同士が姉妹というだけの血のつながりだけか?
だが、最も重要な部分が伏せてある。これが聖書だ。
どうみても、神の血統を継ぐのが「神の子」であり、「メシア」となるはずだ。
ここでまた、日本の皇室の皇位継承の話が「例」として上がってくる。
そうだ、血統にこだわる神が母親の関係のみで「よし」とするはずがない。
皇室でさえ、「男系」を貫いて今日まできた。
ならば、神の血統はどうだ。とうぜん「男系」をもって血統とし、神の子(メシア)の継承とするはずだ。

ここで、イエスの父の存在、それも血を受け継いだであろう、その男の存在が大問題となる。
しかし、聖書のどこにも「それ」は、書かれていない。
「下世話な勘繰り」はまかりならん!という神の心も分からないではないが、「これ」ゆえに、不信の
渦を巻き起こし、人間模様のまっただ中で、父ヨハネに捨てられ、母マリアからも捨てられ行くあわれな
「イエス」の姿が浮き彫りにされる。
聖書では、神によって身ごもった女、「処女懐胎」として「神がかり」のほうに人の気をそらして、
事の真実を煙に巻いた。
何が真実かを知りたい人は、聖書を何度も読まれたらいい。
答えは、「あぶり出し」のように、そこに浮き出てくる。(私は、知っている)
(こうでも、書かないと、また消えるから・・・)



(次へつづく)