無事に、「イエス」は生まれた。
ここまでこぎつけるのにも、難儀なことは多々あった。
時の王が、一歳以下の男の子を、皆殺しにせよという「御触れ」をだした。
王に付いた預言者の言葉からだった。「メシア」が生まれたと「卦」(け)が出たという。
逃れる旅先のことだ、「イエス」が馬小屋で生まれ、飼い葉おけに入れられたのは。
そこで「イエスの誕生」を知ったのは、羊飼いと、東方の三博士だった。
彼らは飼い葉おけに眠る、赤子のイエスに謁見し、三博士は貢物を置くと、国へ帰っていった。
はい!ここで問題で~す。
東方の三博士は、なんで来たのでしょうか?
一、貢物を届けるため・・・・ならば、配達の人間がくれば、事はすむ。
二、星に導かれたから・・・・ならば、その目的を星にきいたか?
三、王の命令だったから・・・王はなぜ貢物を持たせたの、博士に。その意図は?
そうです、どれをとっても、博士は「運び屋」ではない。
ある目的をもって、神から使わされた人物。
三人の博士?・・・思い出しませんか?「三人」という数の意味を。
そうです。一人の人間が安定するべき物理的な数字「3」。
エデンの園にも「アダム」と「イブ」の二人には、三人(?)の天使長が与えられた。
その三人の天使に代わる「三博士」なんですね。だから、国へは帰らずに、イエスが大きくなって
その「使命」を果たすまで、養育係(学問係)をする、という役目を担っていた。
もしこの三博士が「イエス」の周りに常にいたら、学識豊かな補佐役の助けをかりて、事はどんなにすすんで
いったか・・・。なのに、この博士どもは、荷物を置くと、さっさと帰ってしまった!
これが、また一つの不信仰。イエスを支える役を放棄した、という事になった。
ねっ、人の事になると、よーくわかるでしょう?
自分の事になると、かいもく分からない・・・というのが、神の摂理における自分の役を悟る難儀な事。
それぞれの役割を担って、それこそ命がけで指名分野を、全うした。というのが、歴代の信仰者です。
その中でも、一番過激な使命を担い、難問極まりない道を歩かされたのが、「マリア」。
こうしてみると、命を賭けながら、ギリギリその道「神の道」を歩いたのも、マリアだといえる。
過酷だからこそ、マリアに神は「白羽の矢」を立てた、ともいえなくはない。
が、「イエス」の誕生のあとは、「ヨセフ」に気兼ねをしながら、イエスに大工の手伝いをせよとか、
兄弟(あとで生まれた)の面倒をみろとか、マリアは言うようになった。
ある人は言う。
イエスの使命(メシア)を本当に知っていたのであれば、母マリアこそ彼の弟子となり、イエスの道を備えて
あげなければならなかった、と。
さらに、その後も妊娠してはならず、一生イエス一人の母として、息子イエスを愛し、育むべきであった
、と。
きっと、夫ヨハネへの気兼ねからだったのだろう、ヨハネとの間に子供を産んでいる。
当然子育てで、忙しくなる。「あんたも手伝いなさいよ!」くらいは言っただろう、天下のメシアに
である。彼女の目には、「イエス」は単に「自分の息子」としか写っていなかったのかもしれない。
そこで、イエスの極め付けの言葉がこれだ。
『そこの女!』
誰に向かって言った言葉かって?
イエスが、自分の産みの母に向かって吐いた言葉だ。
こともあろうに、母に向かって「そこの女!」と言い放つか?
「この親不孝もんが!」と、びんたをもらったっていいくらいだ。
彼がメシアでさえなかったら、という話だ。
これは、悲しいイエスの叫びでもある。
『この裏切り女!』
『メシア・イエスを捨てた女!』
つまり、「マリア」をこう呼ぶ背景には、神がこう叫ばざるをえなかったという決定的結論が「ここ」にあったということだった。
歴史の真実って何?
どこに目を向けたら、それが見えるのか・・・?と。
神のものは神に聞け!・・・としか言いようがないのです。
しかし、「マリア」の立場、役目は一人。
人間として、また女性としてギリギリの死線を越える戦いであり、信仰と試しの連続だった。
「私なら、できません!」これが、凡人たる我々の現状である。
こんな道を通った、いや通された「マリア」の苦悩を慮(おもんばか)りながら、お読みください、と
いったところでしょうか・・・。
ここでまた、私達も自分に与えられた「使命」なるものが何であるのかを、日々気にしなければならない
と、いう事に立ち返るのです。
おっと、どうにかこうにか消えずに、ここまできましたね。
「歴史」を暴くという事に関連して、もの事の「真実」や「事実」を白日のもとにする、という事は
時と場合によっては、「今」がそうなのかを、しっかりと見極める必要がある。
「機が熟していない」という言葉があるように、何でも急げばいいというものでもなく、何でも明らかに
すればいいというものでもない。
「秘すれば花」という言葉もあるように、秘してこそ、その重みを増すものごとがあるようだ。
ひょっとしたら、今日のこのブログは「それ」に入りはしないかと・・・、今ここで思案をしても
始まらないので、消えなかったことをいいことにして、皆さまへお送りしま~す。
あとは、よしなに・・・・。(おー、くわばら、くわばら)
ここまでこぎつけるのにも、難儀なことは多々あった。
時の王が、一歳以下の男の子を、皆殺しにせよという「御触れ」をだした。
王に付いた預言者の言葉からだった。「メシア」が生まれたと「卦」(け)が出たという。
逃れる旅先のことだ、「イエス」が馬小屋で生まれ、飼い葉おけに入れられたのは。
そこで「イエスの誕生」を知ったのは、羊飼いと、東方の三博士だった。
彼らは飼い葉おけに眠る、赤子のイエスに謁見し、三博士は貢物を置くと、国へ帰っていった。
はい!ここで問題で~す。
東方の三博士は、なんで来たのでしょうか?
一、貢物を届けるため・・・・ならば、配達の人間がくれば、事はすむ。
二、星に導かれたから・・・・ならば、その目的を星にきいたか?
三、王の命令だったから・・・王はなぜ貢物を持たせたの、博士に。その意図は?
そうです、どれをとっても、博士は「運び屋」ではない。
ある目的をもって、神から使わされた人物。
三人の博士?・・・思い出しませんか?「三人」という数の意味を。
そうです。一人の人間が安定するべき物理的な数字「3」。
エデンの園にも「アダム」と「イブ」の二人には、三人(?)の天使長が与えられた。
その三人の天使に代わる「三博士」なんですね。だから、国へは帰らずに、イエスが大きくなって
その「使命」を果たすまで、養育係(学問係)をする、という役目を担っていた。
もしこの三博士が「イエス」の周りに常にいたら、学識豊かな補佐役の助けをかりて、事はどんなにすすんで
いったか・・・。なのに、この博士どもは、荷物を置くと、さっさと帰ってしまった!
これが、また一つの不信仰。イエスを支える役を放棄した、という事になった。
ねっ、人の事になると、よーくわかるでしょう?
自分の事になると、かいもく分からない・・・というのが、神の摂理における自分の役を悟る難儀な事。
それぞれの役割を担って、それこそ命がけで指名分野を、全うした。というのが、歴代の信仰者です。
その中でも、一番過激な使命を担い、難問極まりない道を歩かされたのが、「マリア」。
こうしてみると、命を賭けながら、ギリギリその道「神の道」を歩いたのも、マリアだといえる。
過酷だからこそ、マリアに神は「白羽の矢」を立てた、ともいえなくはない。
が、「イエス」の誕生のあとは、「ヨセフ」に気兼ねをしながら、イエスに大工の手伝いをせよとか、
兄弟(あとで生まれた)の面倒をみろとか、マリアは言うようになった。
ある人は言う。
イエスの使命(メシア)を本当に知っていたのであれば、母マリアこそ彼の弟子となり、イエスの道を備えて
あげなければならなかった、と。
さらに、その後も妊娠してはならず、一生イエス一人の母として、息子イエスを愛し、育むべきであった
、と。
きっと、夫ヨハネへの気兼ねからだったのだろう、ヨハネとの間に子供を産んでいる。
当然子育てで、忙しくなる。「あんたも手伝いなさいよ!」くらいは言っただろう、天下のメシアに
である。彼女の目には、「イエス」は単に「自分の息子」としか写っていなかったのかもしれない。
そこで、イエスの極め付けの言葉がこれだ。
『そこの女!』
誰に向かって言った言葉かって?
イエスが、自分の産みの母に向かって吐いた言葉だ。
こともあろうに、母に向かって「そこの女!」と言い放つか?
「この親不孝もんが!」と、びんたをもらったっていいくらいだ。
彼がメシアでさえなかったら、という話だ。
これは、悲しいイエスの叫びでもある。
『この裏切り女!』
『メシア・イエスを捨てた女!』
つまり、「マリア」をこう呼ぶ背景には、神がこう叫ばざるをえなかったという決定的結論が「ここ」にあったということだった。
歴史の真実って何?
どこに目を向けたら、それが見えるのか・・・?と。
神のものは神に聞け!・・・としか言いようがないのです。
しかし、「マリア」の立場、役目は一人。
人間として、また女性としてギリギリの死線を越える戦いであり、信仰と試しの連続だった。
「私なら、できません!」これが、凡人たる我々の現状である。
こんな道を通った、いや通された「マリア」の苦悩を慮(おもんばか)りながら、お読みください、と
いったところでしょうか・・・。
ここでまた、私達も自分に与えられた「使命」なるものが何であるのかを、日々気にしなければならない
と、いう事に立ち返るのです。
おっと、どうにかこうにか消えずに、ここまできましたね。
「歴史」を暴くという事に関連して、もの事の「真実」や「事実」を白日のもとにする、という事は
時と場合によっては、「今」がそうなのかを、しっかりと見極める必要がある。
「機が熟していない」という言葉があるように、何でも急げばいいというものでもなく、何でも明らかに
すればいいというものでもない。
「秘すれば花」という言葉もあるように、秘してこそ、その重みを増すものごとがあるようだ。
ひょっとしたら、今日のこのブログは「それ」に入りはしないかと・・・、今ここで思案をしても
始まらないので、消えなかったことをいいことにして、皆さまへお送りしま~す。
あとは、よしなに・・・・。(おー、くわばら、くわばら)