霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「悪鬼羅刹」の化身?

2012年05月29日 | 心霊現象
さて、人は何事もない時は、その影の部分を表すことはない。
「光」なるあるものがあてられるその時、その影なる部分として現れる「心の現象」を「悪鬼羅刹」の化身
と申し上げる。
光を投げかけた者に対しての現象が、「悪鬼羅刹」の化身と見えてしまうと言えばいいのかもしれない。
「それ」を投げかけた者の勝手から言えば、そうなるとも申し上げようか・・・。
反対する相手をみな「悪鬼羅刹」の化身と呼ぶは、なんと手前勝手な「妄想」かと、言われそうだからだ。
ある部分から見れば、「反対」する者の方が、常識的であり、愛情豊かであり、物のわきまえを知っている
と、まあこうなるかもしれない。

ただ、私が申し上げたいのは、それを「手前勝手」、「わがまま」、「非常識」、「親不孝」の次元で一蹴されてしまうことへの大いなる「危険性」である。
ただ「それ」が、「闘ってでも勝ち取る内容か・・・」というそれぞれの持つ「価値観」の違いでもあります。
それぞれが持つ「価値観」という「ものさし」で計るのですから、一致する事などは、夢のまた夢、
ほとんどありえないないでしょうね。
では、私を挟んで、どれだけの人達の「価値観」が、はたまた「ものさし」が行き違いをしたか、ご自分の身
に置き換えてお読みください。



道を歩いていたら、若い人から「一枚のビラ」をもらった。
「あなたの人生が、解けます。理解して正しい道を歩きましょう」
といったような「勧誘」のビラだった。
すぐに私は「そこ」へ行ってみた。(今思えば、「オーム」でなかった事が幸いだった)
勤労者は、夜の部に勉強会が設けられていた。
そこへ通った。講話というよりは、聖書の勉強のようだ。
まあ何でもいい。結果、自分の命や人生の事が分かればいいのだから・・・。
次は「合宿」と称して、もっと密に学ぶ機会があると案内された。(いいですよ、分かればいいんですから)
さらに次は、「半月」にわたる合宿の案内がきた。この間は2、3日だったのに。
こればかりは、難題である。簡単にいうが、そう周りの全部が整うわけがない。
一人者で、何の縁も「しがらみ」をも持たない者ならいざしらず、これでも人の中で生きている私である。

私の心は、まず無理だろうと思った。この世のしがらみを思えば、出来るわけがない。
しかし、待てよ・・・。
私はあれ以来、何の為に生きているのだ?
そうだ、雪崩の雪山で感じたあの「死神」との約束を果たすために、命乞いまでして、今ここに生きて
いるのではなかったか・・・。
それでその「人の道」とやらは、探し当てたのか?
決して忘れてはいけない「私の原点」は、意識が少しは薄れた中であるが、いつでも心の奥に機会を狙って
生きてきた。
もしも、それが「今」、「ここ」だったらどうする?
死神が見ていても、気にすらならなくなったとでも言うのか?
徐々に「あの時」の思いが、恐怖とともに蘇ってきた。
人間はいつかは死ぬのだ。それが明日かもしれない。
見つけないままの時間を、いつまで続けているというのか?

『後悔は、結果にではない。やらなかった事の後悔が、取り返しがつかないのだ』・・・と、誰の言葉だったのか・・・、胸にせまってくる。

もう、行くしかない。
ここからが、私の持ち前の(?)親不孝と、非常識の勝手放題が荒れ狂います。
「あの時の恐怖心」を、根底から取り払ってくれるものは、「真理」以外にはなかった。
それは「親」でもなければ、「彼」でもない。上司でもなかったし、恩師でもなかった。そして、
親しい友人でもない。
そろいもそろって、みんなが「無意味」だと言った。気が変になったかと、疑う者もいた。
(あなたがたに、何が分かる!?)言葉に出したら「ケンカ」になる。
「立つ鳥、跡を濁さず」だ。職場にはもう二度と帰れないだろう。
私は、死んだと思ってください・・・、と全員に置手紙をして私は消えた。
もう、帰るところがどこにもない。この世で、失うものは、何もない、命以外は。
信頼や、愛情の全てをかなぐり捨てて、「真理」とやらに真っ向から立ち向かった時でした。
「裏切り者」。私に押された烙印を、甘んじて受けて出発した。
いずれ行かねばならない道、それが「今」というだけの話だ。
「死」もそうだ。いずれ行かねばならない道、その時こそ今度は少しは分かって、あわてる事なく行こう。



結局、この「第二ラウンド」は、戦い取ることは出来なかった。
相手を説得して了解を得るまでには、時間がなかった。だから私は「もぎ取る」ことにしたのだ。
否やを言わせず、自他ともに自分を殺すしかなかった、という事です。
誰も警察沙汰、つまり行方不明者や、家出人としての届け出は控えてくれた。
これを見ても、いかに周りに迷惑をかける「やっかい者」であったかが分かるでしょう。私が、です。
でもね、これくらいやらないと「手」に入りません。あの世の世界に関することはね。
では、それで全部分かったか?
分かりません。ほんの「さわり」みたいなものですから。
でもね、深い何かを感じて帰ってきたことは確かです。
皆様には決して、すすめるものではありません。
やれとも、やるなとも言いません。
今の世では、確実に多大な「リスク」を伴うでしょうから。
ただね、「虎穴に入らずんば、孤児を得ず」って言葉がありますね。
また、「龍の絵」という題で書いた内容、つまり龍が持っているあの「玉」を取り返してくるには、簡単
ではないという事だけは分かっていただきたく思います。

「あんぱんのごま」あるいは「けしつぶのごとき」と霊界の彼らが言う言葉の通り、ほんの一部の事かもしれませんが、それでも何かに至る道だと信じて進むことが、大切ではないでしょうか
・・・。

こうして、ブログを書き続けながら、皆様と画面を通して、お付き合いをさせていただく幸いを得たのです
から、人生長く生きてみるものですねぇと、今だから言えるのでしょう。


その後、どうしたか?
最後に残ったのは、身内だけでした。(私を受け入れてくれたのは、という意味)
あとは、みごとに?全部、私の周りから無くなりました。
人を試してはいけませんが、時としてその人の「影の部分」(闇?)を見るのも必要です。
案外自分がその「影」をあらわにしていたりして・・・ね。



最後に申し上げたき事があります。
どんな人生であれ、責任転嫁はあり得ません。してはいけません。
たとえ、人に勧められたことであれ、そう思って行動したのは、自分です。
あの人に・・・、とかマインドコントロールされて・・・などといったら、「自分」はどこにもいない、
まるで自分が「ロボット」のような言い方になるでしょう?
りっぱな人格をもって、自己性を発揮した結果がいかなるものであっても、自分から選んだ自覚を捨てない
でいただきたい、という事です。責任と覚悟は、二十歳をすぎた者が身に付けるべきものではないでしょうか・・・。
ゆえに、その人を「成人」と言いたい。


わたし?・・・、ある面から見れば、なんて幸せな人間でしょうか。
そして、ある面から見れば、とんでもない身勝手な、箸にも棒にもかからない人間となるでしょう。
両方がわたしです。

皆様、先祖にとってあなたは「いい人」ですか?と問われたとき、せめて胸をはって頷(うなず)きたい
ものです。