霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

萱野三平、その行く手を阻むものとは・・?

2012年05月26日 | 心霊現象
古い話を持ち出して、まことに恐縮です。
「萱野三平」(かやのさんぺい)・・・、どこかで聞いたことは、ないでしょうか?
フルネームは、萱野三平重実。かやのさんぺいしげざねと読むのでしょうか。
さあ、わたしは誰でしょう?
クイズをやろうというわけではありませんが・・・、赤穂浪士のなりそこない?と言ったら、あまりにも
酷な言い方です。が、「正解」です。
「演題、お軽勘平(おかるかんぺい)」のモデルになったのが、「その人」という。
享年28歳とあるから、若くして死んだわけである。

  「晴れゆくや 日頃心の花曇り」

彼の御製の句らしい。
なぜ、今ここで「萱野三平」か・・・?
どなたも、不審に思われるだろう、が実は、これからお話をする上で、この人物の事情と状況、そして
その結果が、人事(ひとごと)ではない、自分に降りかかる人生の大問題である、ということを胆に銘じて
頂きたいからであります。
避けて通れない「人の道」と申しましょうか、これから行くべき「皆様」の道に、確実に待ち構える
「もの」であれば、老婆心ながら、転ばぬ先の杖を今ここでお渡しいたそうかと、思った次第でございます。
彼の死にざまは、「自害」、切腹でありました。


世が徳川綱吉のころ。
赤穂城主の切腹により「お家断絶」、城開け渡しなど、数々の難題にさらされ、結果浪人となった旧浅野家の
家臣による「敵討ち」。つまり「松の廊下」であり、「忠臣蔵」の事だ。
簡単に言えば、こうなる。
歴史の中の一コマは、こんな短い説明で終わってしまうのだ。
そして、この度の主人公「萱野三平」は、はじめ浪士とともに「大望」を果たすべく、その日を願って
着々と準備し、期を狙っていた。
準備期間は長かった。その間に彼は両親に呼ばれた。
浪人となった若者の行く道は、険しい。
そんな彼のために父が「ある士官の道」を探してきた。これは今の萱野家にとっては、願ってもない事
だった。
年老いてゆく両親の喜び様は、むしろ彼の胸をえぐる。
浅野家の家臣として「敵討ち」の大望を果たすか、それとも親の喜ぶ道をゆくか・・・。
二者択一を迫られた彼は、選びきれずに「自害」の道を選んだ。
いずれの方々にも、死んでお詫びをしょうとしたのか・・・。

彼の心情は、二つの板挟みになったと言ってよい。
主君への「忠義」か、はたまた親への「孝行」か・・・。

  忠ならんと欲(ほっ)すれば 孝ならず
  孝ならんと欲すれば 忠ならず

その当時の事にしてみれば、胸をかきむしりながらの、選ぶに選びきれない悶々たる心の状況だったでしょう。
今の時代には、それほどの「忠」もなければ「孝」もない。
むしろそれが、命を引き換えにするほどの事でない時代に身を置いている私達の幸である反面、不幸な事
かもしれない。
時代は移りゆくが、人の心はそう変わるものではないと、以前申し上げた通りです。
「板挟み」・・・、その時「あなた」は、どうされますか?・・・という問いかけが、本日のメインテーマ
なのですよ、実はね。


大望を果たさんとする「あなた」に、その行く手を阻むものが、必ず出てきますよ・・・、という事を
申し上げるのが、今日のテーマなのです。(人生をポジティブに考えるのは、大賛成ですがね)
そんなに「すんなり」と、やらせてもらえるとお考えでしたか?
もしそうでしたら、あなたはあまりにも「霊界」をお知りにならない。
守護霊だけを考えて、守ってもらえることのみに安心されては、困ります。
先祖の因縁を切り開く、あるいは清算するという意味は、闘うことであり、勝つ事が必要条件になります。
当然二者択一を迫られることは、あたりまえのように、これからたくさん出てくる事でしょう。
それが、どのような形で来るか、ということについて、今回は絞って考えてみます。

大望を果たさんとする道を、「魔」が邪魔をするという事です。
何が魔か?  はい、「道」をそらせようとする「もの」や「力」が魔になる、ということです。
萱野三平の大望が、城主の敵討ちであったとすれば、その「大望」を邪魔する両親が「魔」です。
つまり「行く手を阻むもの」を、悪鬼羅刹の化身という。そう言わざるをえない、という事です。
悲しいかな、そうなる。違いますか?
時としてそれは、「親」」であり、「恋人」であり、「恩師」であり、「上司」である可能性を濃く秘めて
いる。

 『親に会うては、親を切り、神に会うては神を切る。
  これらはみな、悪鬼羅刹の化身なりとも、あに遅れをとるべけんや・・・』と、
どこかで、聞いたセリフでしょ? (TVドラマ「影の軍団」、昔の話です)




「あなた」は、親にとって、「いい子」なのでしょうか?
「あなた」は、奥さんにとって「いい夫」なのでしょうか?(また、反対に言えば・・)
「あなた」は職場で上司にとって「いい部下」なのでしょうか?
そして、「あなた」は先祖にとって「いい人物」なのでしょうか?
さらに、「あなた」は、神にとって「正しい人」なのでしょうか?

「萱野三平」の身に降りかかった事が、これから「あなた」の身に降りかかる前に申し上げたき「儀」これあり、次回からは恥を忍んで、私の身に降りかかった『二者択一』の試練をご紹介したく存じます。
皆様からは決して「転んではいただきたくない」一心にて、いにしえの思い出話をいたしましょう・・・。

では、次回にて。
  
  


「神」体験   3

2012年05月25日 | 心霊現象
では、私の神体験をば、お話させていただきましょうか・・・。

◎ 一つ目のお話。

ある部屋に通された。
あんまり明るくない、誰もいない部屋だ。しばらく経っても、誰も来ない。
なんだろう・・・?
扉のついた棚が並んでいる。
誰も見ていないようだから、・・・開けますよ~・・・。
一つ目の扉の取っ手に手をかけた。力いっぱいに引いた。
「わーっ。なんじゃこりゃー」
すごい量の水が私を押し流して、どんどん流れていく。その水は・・・水じゃない。
ぬめぬめとした、しょっぱい、生臭い液体だ・・?ん、血? わーっ、血だぁあ。
ぬめぬめと滑りながらも抵抗して、一応体を保った。
「血の海地獄かぁ?」泳げない私を分かっての事か・・・。

気がつくと、全身がもう乾いていた。何事もなかったかのように、部屋の真ん中にいた。
相変わらず、取っ手のついた棚が並んでいる。
「もう、その手はくわないぞー」と思いながらも、ついまた見たくなった。
誰も来ないことをいいことにして、次の棚をそーっと開けた。
「わーっ、なんじゃこりゃー」
また、すごい量の水が噴き出して、私を押し流した。
今度の水は、しょっぱくても、さらりとしていた。まあ、血よりはいいかー。
この水に流されながら、泣けてきたことが不思議だった。この水はひょっとしたら「涙」なのかも
しれない・・・。

二つ目で終わるのもなんだしな、もう一つ、三度目の正直だ。「えいーっ」と棚を開けた。
「わーっ」。やっぱり大水に流された。なんでこんなにどれもしょっぱいんだろう。
これは汗臭い。「汗」なのだろう。

血の池地獄と、涙池地獄と、汗池地獄の三つだったのだ。
はたして、地獄か?
私に何を悟れと思召すか、天よ?

わからないまま、夢から覚めた。
それは、人類の歴史を物語っていた。
血と汗と涙の人類歴史だ。神を失った人類。そして、人類を失った神。
言葉の無い世界で、いままで流された血を、汗を、涙を知れと言われるか・・・。


◎ 次のお話です。

宇宙に飛び出して、宙に浮いている私だ。
とうとう、あの世かぁ?
いや、遠くに見える地球を抱いている人がいる。
近くまで行ってみる。
一人の「老人」が、地球を両手に抱いて泣いている。「神」?
その人は冠も玉座もない。白くて長い衣を着て、大声で泣いていた。
その圏内(ゾーン)に入った途端、身が凍った。寒くてではない、悲しみでである。
わけもなく涙が出て、身をよじるような泣き方で、私もしばらく泣いた。
その時全宇宙は、一瞬動きを止めた。運行を止め、固まった。
私には凍ったかに見えた。
この方は「神」か?
何ということだ。神の慟哭、この悲惨は宇宙の全てを凍らせ、その泣き声だけが宇宙に響き渡っている。
これが、「神の姿」?

誰も信じないでしょうね。
人間は神をあたかも「便利屋」か「何でも屋」のように、その欲望の数々を拝み、押し付けてきた。
あれをくれ、これを直せ、野望を成させよと、勝手を言ってきた。
誰も「神」の心を推し量ろうなんて、思ってもこなかった。
神が地球を抱いて、慟哭している。全宇宙に響き渡る悲しい叫び声。
こんな「みじめな神」、だれが想像しょうか・・・。


このショッキングな「神の姿」は、私の神観を変えたといってもいい。
王冠のない神。玉座もない。白いみすぼらしい衣。年老いて、よぼよぼの姿で泣き続ける父親。
これも、まぎれもない「神の姿」だった、ということです。


◎ また、もう一つのお話・・・。

『オマエはね、・・・』
私は、いつもこう呼ばれる。

『それで、いいのか?』
『本当に、いいのか?』
『いいんだね・・・』

三日に渡って問われた、私への言葉が「これ」だった。
答えは、私の胸にある。覚悟も、決意もそうだ。
なぜこれほどまでも、念を押して私の決心を促そうとされているのかは、私だけが知っている。
当てはまるとすれば、「神への反逆」になるかもしれない。
しかし、私の心は変わらない。たとえ地獄へ行っても変わらな。
『いいんだね』という「ダメ押し」にもとれる言葉を最後に、この声は私を訪ねてくることは、なかった。

その後、守護霊降霊の場に立ち会う度に、その方々の守護霊から何度にも渡って、こう返事が返ってきた。
「神は決して、お見捨てにはなりません」
この言葉は、周り廻って、私にあたえられた言葉であると、今でこそ分かるものである。


出来そこないの私であり、「鬼っ子」と呼ばれても仕方のない私であるが、ここまで生きて、「神」や「霊界」のことを書いているのです。
だから、とは言いませんが、皆さまは充分良くできた子として、親孝行してくださいませ。
この道は、「先の者が後になり、後の者が先になり」の、文字通りシーソーゲームであれば、
今後ともどうぞ、学び合って、助け合って、まいりましょう・・・。

「神」体験   2

2012年05月25日 | 心霊現象
前置きが長くって、すみません。
簡単に、「神体験」したなどと、言ってほしくないからであります。
ニセ神の体験を何度重ねても、何にもなりませんから・・・。
そんなもの、いっそ経験しなかった方が、かえってよかった、と言われるほどのものでしかないからです。
それが、まさしく「神体験」だという【定義】は何でしょうか?
それは「神」が何であるかを知ることしかありません。
その内容をもつものに、篩(ふる)い分ける必要があります。
たとえば、「天使」といえども「堕天使」もいる、という話をいたしました。
「天使」を語るその「もの」が、何を語り、何を示すかによって、善、悪が決定され、それを見分ける事が出来るというわけです。
そのダンで言えば、神もまた「真の神」と「偽の神」を見分けなければなりません。
あなたは、その見分ける力・知恵を得ていなければならない。
その力、つまり能力、霊力は、『審神者(さにわ)』として立つ位置を、求めて頂きたいと言う事でもある。
そこからしか「本当の神」に巡り合える道はない。
人から与えられた理論、理屈、そして信仰、はたまた「神」でさえ、自分のものとはならない限り、所詮
借り物である。時としてまがい物かもしれない。

神の定義はいろいろある。
私達は「神官」や「牧師」になる為に学ぶのではないから、一番根本的で、大切なものを押さえておけばいい。
その一つは、大自然の中に宿る、諸々の神らしさ(神性)である。
だから自然をみつめないと分からない。
例えれば、山頂からの「ご来光」。経験した者しか分からない何かがある。
そして先だっての「金環食」。
人間が逆立ちしたって造れないものの世界に、「神」をみる。
そうだ、鳥肌が立つ「あの世界」が、神だ。日本においては、「神道」がそれを伝えてきた。
いま人の目は、宇宙空間に浮かぶ地球を見ることが出来る。
音のない世界に、確実にある青い星。その地球の姿を、人類はその目で見る日を迎えた。
もうすぐに、その向こうにある「神」の世界を垣間見る日も、そう遠くはないだろう。

次に大切な要素がある。
それは「神」と人間が、「親子」であるという定義だ。
聖書で教えているからではない。イエスが教えたからではない。
森羅万象すべての中に、神が親であるという霊的背景が充ち満ちている、という事実を捜し、掴み取る
作業を、今から始めなければならない。
求道者は、大自然から「それ」を掴み取った。
私達はこの真理を、心の中にしっかりと取り込むことによって、次へと進むことが出来る。

次には「神」を信じることから、「知る」ことへと感性がアップすることをいう。
いままで、どれだけ多くの人間が「神」を信じたか・・・。
しかし、「知る」こととは、ほど遠かった。
「私は神を信じている」と言うなかれ。どうせなら、こう言ってほしい。
「私は神を知っている」・・・と。
そこから私達は、神を知った者だけが分かり合える、本当の意味の「神体験」を、することになる。
そして初めて「神の声」を聴く。
神の事情と心情が分かった者だけに伝わってくる、神(親)の心。
これを全霊界から、取りこぼすことなくキャッチする。
キャッチできるその修行が、日々の我々の鍛錬だと申し上げる。

神はあなたを「何」と呼ばれたか?
どんな姿で、出会ったのか・・・。
声、姿、形、状況等々。
あなたの個性、天性、天稟(てんぴん)を掘り起し、この世で鍛錬し、向上させ、あなたにしか出会えない
「神」の姿をもって、唯一の絆とせよということです。
天上天我唯我独尊とは、そういうことですよね。



さて、また出た!と言われるであろうが、次に関係してくるのが、先祖の功労である。
少ない血統よりも、その功労が多い血統の者が、より「天のもの」に近くなるのは当然の理(ことわり)だ。
また守護霊が求道の人であれば、その地上人はほとんどといっていいほど同じ道を辿る運命にある。
神とか、天法とか、真理とか、人の道あるいは哲学という方面に必ず歩ませる。
地上人が横道へそれそうになれば、すかさず霊界は軌道修正を行うだろう。
そして、霊界と地上界との二人三脚は、「成就」に向かって走り続ける。
条件が充ちた時、必要とあらば、「神体験」によって、より拍車をつけて霊界の進むべき道を早めてくれるだろう。
さらに地上人の努力や、祈りの積み上げをもって、大きくステップアップさせることもあろう。
その「神体験」を、霊界人と共有しながら、さらなる道のりを、開拓することになる。
「神」を見ることや、知ることが必要になる時、「それ」の恩恵を身に受けることこそ「何にも勝る」
『百聞は一見にしかず』となる。
その現象が、どのようなものであるかは、人それぞれ、血統それぞれである。
比べなくていい。「神」体験をしたか、しないかだけの違いであれば、感謝して体験することを願えばいい。

では、次に私の神体験を一つ、二つご披露して、終わりとします。



<次へつづく>

「神」体験   1

2012年05月25日 | 心霊現象
この間、「蘭奢待」のことで『百聞は一見にしかず』と申し上げました。
まさしく今日も、この内容においても、しかりであります。

物事を知るには、100辺聞くよりも(読むよりも)、一目見れば(一度見れば・体験すれば)分かる。
こと「神」に限り言えば、その実在はまさしく、そうだ。
神を見た者には、かなわない。
それは例え、命を失うハメになっても、「無い」と否定することは出来ないであろう。
だから「踏み絵」を踏むことは出来ないし、「地獄谷」へ蹴落とされてもかまわない。

同じように反対のことも成り立つ。
見たことのない者にとっては、どんなに理詰めで「ある」べく説明されても、強引であればあるほど
「無い」ものは「無い」。
ここに「神」あるいは「信仰」というものへの難しさが、浮彫にされる。
では、これらの事は、有ってもいいし、無くてもいいのか・・・?
その人の「人生」において、両方が成り立つのか、自由でよいのか・・・と言われると。
そう、生きている間は、神無しですごす事は、可能である。(その人生が幸であれ、不幸であれ)

しかし、死後つまり霊界の存在とその在り様から言えば、答えは、皆さまご存じの通り、「否」である。
人間の選択の範囲にあらず、と申し上げる。
死後の世界は、人間が肉体を持って、一面勝手に生きてきた世界とは、わけが違う。
有りてあるように、是は是、非は非の世界で成り立っていると申し上げてきた。
守護霊の語る内容は、ことごとくそれを物語っていた。
そのごとくに生きなかった分、地上の「あなた」からそのごとくに生きて、霊界の自分をも救ってほしい
というのが、霊界人たちの一貫した願い(叫び)であった。

では、霊界の中心は何か・・・。
神であり、天法であるから、しまつに悪い。
いまさら無いものを、有ると学ぶことも、人生を方向転換することも難儀なことだし、まず無理だ。
さらに、やりたくもない。
これが正直、我々の今の姿だ。
その心を「死」の瞬間まで引きずって、いずれくる「死」と直面して慌てふためく、というわけだ。
なんと悲しい、なんと情けない人生か・・・。
ゆえに、何かの「きっかけ」をもって、「神」あるいは「死」あるいは「人生」というものに、真っ向から
向かい合う時を得ない限り、同じことを、つまり人類の歴史の悪の積み重ねをして、果てるというわけ
になる。
目先の「俗界」に、身も心も奪われて、「一生」という限りある時間を費やして、何も持たずに霊界へ
行く。これぞまさに、「今」の私達の人生だ。

  「神? 笑わすんじゃない!
   神体験だって?  ほざくな!
   無いものは無い! 有ると嘯(うそぶ)く輩(やから)のたわごとだ!」

と、吐きだすように言うだろう。
その様(ざま)こそ、今死んだら「あなた」が行くところ、つまり霊界の場所であり、その門に立つんです
よ・・と言うことです。


では体験した人がいう、その「神体験」とは、いつ、どのようにして出来るのか?・・・。
私には「分かりません」。
無責任なことを言うな、とお叱りをうけそうだが・・・。
一生のうちに「神」を気にすることが無い限り、「神」との縁は無いまま、一生を終わる。
街角で一人の人に出会い、一枚の「紙」をもらうことから始まることもある。
また、夢の中で「一括(いっかつ)」されて、びっくりして示された場所へ行く事もある。
ある人は夢の中で、その場所の地図まで示されて一括された人もいる。
何事もない人は、死ぬまで何事もないのか?・・・。
いや、今となっては、そうとは言えない。
先祖がある以上、守護霊がある以上、さらに霊界がある以上、何事も起こらないというほうが、おかしい。
その「つつき」が、地上人の鈍さで気がつかないというだけかもしれない。
それが「凶事」にみえることの中に、示しが隠されているかもしれない、と前にも申し上げている。
自分の霊感で読み取れない人は、人に頼んでも、すがっても読み取って、前に進むべきである。

さて、次には「それ」が、はたして「神」かどうかをどうやって見分けるか?
何でもかんでも、神にあらず。「ニセ神様」もいらっしゃる事を胆に銘じて、次に検証いたしましょう。
またまた、替え歌を。
  
  ♪ これも神、あれも神 多分神、きっと神・・・?

と、これだけはいただけません!充分ご注意あそばしませ。



<次へつづく> 

「真白き狂人」とルビー、そして蘭奢待   2

2012年05月23日 | 心霊現象
彼がタイ国に渡り、たくさんの「ルビー」を抱えて帰ってきたのは、それから間もなくしてからだった。
布袋に無造作に入れた「ルビー」は、宝石というよりは「赤い石ころ」でしかなかった。
「ほら、あげるよ」といって数個渡されても、ありがたくもなんともない。
まずは、「本物」かどうかが分からないと・・・ねぇ。
そこで、彼が私に聞く。鑑定出来る「人」か「店」を知らないか・・・と。
同じ石でも、これだけの数。そして大きいのは「栗の実」くらいはあった。
それを袋いっぱいに、じゃらじゃらと振ってみせた。
東京、池袋にあった宝石店「美宝堂」の店長がちょっとした私の知り合いだったことで、そこを紹介した。
店長は呼び出された喫茶店で、数の多さに目をむいた。
しかし、「タイ」ということを聞くと、諦め顔になって、こう言った。
「全部とはいいませんが、ニセ物だと覚悟されたほうがいいでしょう」だって。
話によれば、タイ程、まがい物、つまりニセ物をつかまされる所はないそうだ。
騙しやすい民族は「日本人」と、彼らはもう知っているらしい。
威勢のよかった彼は、急に黙り込んでしまった、が、とにかく全部の品を預かってもらい、鑑定に出した。

その中で一番大きな石。親指と人差し指で輪をつくったくらいの大きさの「ルビー」を、彼は
ある人からの紹介で、元宮家の○○家へ持ち込んだ。
相手に鑑定させ、本物ならば、「500万円」と、決めたそうだ。
まさしく「元宮家」にふさわしい、品のいい往年の女性が出てこられたそうな。(私はお会いしていない)
そこでお茶をご馳走になり、話の中で「お香」の品定めが出てきたそうだ。(これを香道というのか?)
そのご婦人は「蘭奢待」を・・・お持ちだった!
あろうことか、その「破戒僧」は、少し分けてもらって、持ち帰ってきた。
それっ!とばかりに、興味ある者が群がったのは、しごく自然のことだ。
めったにないチャンスとは、この事だ。
炊いて香り立つのは、分かっていたが、みなその「香木」に鼻を擦(こす)り付けて、胸いっぱいに
吸い込み、その香りを嗅いだ。
元宮家かぁ・・・、そんな香り、そうだ「高貴」というか「雅(みやび)」というか、とにかく「蘭奢待」
を嗅いだという満足感が、皆に広がった。私もその一人だ。
金襴の布に包まれて、夢にみた「蘭奢待」が仕舞われた。やっと「絵」に描いた「もち」でなくなった。
一度、その鼻で嗅いでみなければ、分かるもんじゃない。
これぞまさしく、「百聞は一見にしかず」だ。その香りは線香とは程遠い、匂い袋でもない、世界の香水
でもない「高貴な夢のような香り」そのものであった。
いにしえの宮中の方々が、その香りの中で、歌をよみ、琵琶や琴を奏で、文字通り「殿上人」として
庶民と分け隔てられた世界で暮らしたのかと偲んでみた。が、香りだけでは分からない。


さて、その結果は、私のところへは届いていない。
彼がタイにて、慰霊祭をやったとか、慰霊塔を建てたとかいう話は、聞こえてこない。
ま、ご本人が使命を感じて、「真白き狂人」になってやっておられるのだろうから、私はいなやをいう資格はない。

最後にご本人が、守護霊に「自分」に何をして欲しいか聞いておられるので、これを書いて終わりにします。
でもね、本当はね、ものの順序からいっても、一番最初に聞く事じゃないんですかねぇ・・・。
「守護霊さん、こんにちは。お会いできて、うれしいです。今日までありがとう。
さて、あなた様から自分に言いたい事をまず、おっしゃってください」・・・とね。
まあ、いいか。(彼はなんたって、破壊坊主だから・失礼)


本人「最後にこの世にあって、守護霊様がわたしに、してもらいたい事、何かありますか?」

守護『してもらいたい事・・・・うーん。
   そこもとが肉体を脱ぐまでの間に、共に余を俗界での名誉、地位ではなく、霊界での名誉、地位を
   与えてくれるような行いの積み重ねを、お願い申したい』

本人「会いたい時は、何かの形で自分に知らせて頂けると、ありがたいと思いますが・・・」

守護『何かのつつきをしるそう。よろしく』


だって・・・。


皆様におかれましても、五感の味わいは、時と場合によってはその身に体験された方がいい時もあり、
ものの話のタネになりますから、長く生きて、たくさんの味わいをその身と、心にお残しになって
くださいませ。
天下人の香りと言われ、天下第一の名香りと謳われた『蘭奢待』。
この世には、このように言葉はあるが、その実態がつかめない物って結構あるんじゃないでしょうかねぇ。