世界に別れを告げる日に
人は一生をふりかえって
自分が本当に生きた日が
あまりに少なかったことに驚くだろう
指折り数えるほどしかない
その日々の中の一つには
恋人との最初の一瞥の
するどい閃光なども混じっているだろう
<本当に生きた日>は人によって
たしかに違う
ぎらりと光るダイヤのような日は
銃殺の朝であったり
アトリエの夜であったり
果樹園のまひるであったり
未明のスクラムであったりするのだ
~茨木のり子 「ぎらりと光るダイヤのような日」
日付の変わった6月9日
サッカーのせいでガラガラの、終電近くの田園都市線で開いたページには
茨木さんのこんな詩が。
「もっとしっかりなさい」
と言われているようでもあった。
一万九百五十日間に幾日「ぎらりと光るダイヤのような日」があったろう、
と自問。
そしてこれから・・・。
確かにそれはあった。指を折ってみる。
っでも、私はそれを愛撫するだけだった。
生もうとしただろうか?
こんな詩もあった。
樹木はある日ひとの脳天をつきやぶる
それはとうとうつきやぶってしまったのだ
ああ その歓喜を思え!
この事件はもう
いかなる批評も受け付けぬ
この事件はもう
いかなる判決も受け付けぬ
懺悔とは遠いところ
だらけた手記とも遠いところに成立する
かかる美しい行動をわたしたちは見るか
わたしたちの周囲に
~「行動について」
「気まぐれな種子」が伸びて僕を突き破る
そのことを想像して戦慄
私は、ますます私らしくなる、なっている
その恍惚と不安の海に浮かんでいる
ぷかり、と