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SMILEY SMILE

たましいを、
下げないように…

太宰さんの横顔

2005-07-30 06:27:43 | 太宰
うそ臭い写真だこと♪
三鷹の自宅で撮られた写真。
縁側で、原稿を読む姿。
いかにも、な一枚。
見てるこっちが恥かしくなっちゃうよ。
でもね、こんなポオズをすら、いとおしく思えるんだ。


短篇の名手

2005-07-24 07:43:01 | 太宰
太宰さんは、短篇小説について、

「戦争が終って、こんどは好きなものを書いてもいいという事であったので、私は、この短篇小説のすたれた技法を復活させてやれと考えて」

などと、近世の西鶴から、鴎外、志賀直哉、芥川、そして師匠の井伏鱒二

に至る系譜の中で、語っているところに太宰さんの並々ならぬ自負を感じる。

戦後の太宰さんの名短篇群の中では、「メリイクリスマス」「朝」「美男子

と煙草」などが好きだけれども、

今の気分はなんと言っても、

フォスフォレッセンス




太宰さんの憧れと現実

2005-07-20 03:49:56 | 太宰
私は、純粋というものにあこがれた。無報酬の行為。まったく利己の心の無い生活。けれども、それは、至難の業であった。私はただ、やけ酒を飲むばかりであった。

~「苦悩の年鑑」

でもね、太宰さんは求め続けて、ボロボロになったけれども、だからこそ

あのような澄みきった言葉たちを生みつづけたんだ。




太宰さんと落語

2005-07-03 04:23:48 | 太宰
太宰さんが落語を好きだったのは、有名。

数少ない蔵書の中の一冊だったそうだ。

江戸文化への憧れと、自分の中の口承文芸・文化の血統を感じたゆえ夢中になったのであろう。

太宰さんの作品を高等落語などと評した人もいるくらいだ。

高等も下等もない、落語だったら落語でいいじゃないか。

「文学」だからって「高等」なぞと気取る姿勢は好きではない。

口承、口伝え、これは日本文学の根幹ではなかったか。

漱石も太宰も落語が、大好きだった。

その漱石と太宰は日本で最も読まれている作家だということに、日本らしさを感じる。

この二人が読み続けられるなら、日本は大丈夫、そんなことすら思う。


ココロを軽くするモノ

2005-07-02 10:59:16 | 太宰
けれども芸術は、薬であるか、どうか、ということになると、少し疑問も生じます。効能書のついたソーダ水を考えてみましょう。胃の為にいいという、交響楽を考えてみましょう。サクラの花を見に行くのは、蓄膿症をなおしに行くのでは、無いでしょう。私は、こんなことをさえ考えます。芸術に、意義や利益の効能書を、ほしがる人は、かえって、自分の生きていることに自信を持てない病弱者なのだ。
 
~太宰治 「正直ノオト」


小説然り、映画然り、絵画然り・・・。

太宰さんは、他のエッセイで表現者側にも、
「芸術的雰囲気は厳に慎むべきである」
「描いている本人が楽しんでいない、よろこびがない」
というようなことをいっている。

目的がないとダメ?
何か「利」となるものがないとダメなの?
ただ、単純におもしろければ、たのしければいいのではないの?

僕らは「何かのため」を求めすぎるのかもしれない。





パンドラの華

2005-05-23 03:46:27 | 太宰
あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当るようです。」
 さようなら。
                   ~太宰治『パンドラの匣』


『パンドラの匣』は太宰さんの作品の中では異彩を放っている。際立ってキラキラして美しい、可憐な作品。戦後間もない頃の太宰さんの澄んだ気持ちがよく表れている。
そして、この少し前には「献身」について、こう書かれている。極めて素朴なこの思いは、戦争直後の読者の胸をどのように打ったのだろう。天皇への献身を叫ばれていた時代が終わり、「民主主義」を掲げ始めた時代の中で。


献身とは、ただ、やたらに絶望的な感傷でわが身を殺す事では決してない。大違いである。献身とは、わが身を、最も華やかに永遠に生かす事である。人間は、この純粋の献身に依ってのみ不滅である。しかし献身には、何の身支度も要らない。今日ただいま、このままの姿で、いっさいを捧げたてまつるべきである。鍬とる者は、鍬とった野良姿のままで、献身すべきだ。自分の姿を、いつわってはいけない。献身には猶予がゆるされない。人間の時々刻々が、献身でなければならぬ。


戦後、太宰さんは「美しく、慎ましく日本は変わるのだ」と信じていたのだろうと思う。この作品は終戦前に書かれているけれども、テンションは解放感に溢れている。
信じていた分、裏切られたときの落胆は激しい。
このあと、太宰さんは一気に下降してゆく。最後にもうひとつ、美しいやりとりを・・・。


何事も無かったように寝巻に着換えて、僕は食事に取りかかり、竹さんは傍で僕の絣の着物を畳んでいる。お互いに一ことも、ものを言わなかった。しばらくして竹さんが、極めて小さい声で、
「かんにんね。」と囁いた。
 その一言に、竹さんの、いっさいの思いがこめられてあるような気がした。
「ひどいやつや。」と僕は、食事をしながら竹さんの言葉の訛りを真似てそっと呟いた。
 そうしてこの一言にも、僕のいっさいの思いがこもっているような気がした。
 竹さんはくすくす笑い出して、
「おおきに。」と言った。
 和解が出来たのである。僕は竹さんの幸福を、しんから祈りたい気持になった。


『パンドラ』は、太宰さんが最後に咲かせた、真っ白な花だったのだろうか。

生きることにも心急き 感ずることにも急がるる

2005-05-16 11:51:50 | 太宰
このくらいの気持ちで生きたいものだな

僕は、日々、拡散して、空気に溶けてしまいそうだ

まあ、焦るなよ



なに呑気にやってんだよ

の混在




この言葉は、太宰さんがプーシキンから引用していて知った言葉だった

と思う。

太宰さんは、プーシキンが殊にお気に入りだったようだ。

今、改めて『オネーギン』を読んでみると、なんとなくわかるような気

がする。

随所に出てくる、語り手≒作者の独白めいたところが似ている。

読者はどこまで作者の言葉として取ればいいのか迷う。

ま、すっかり信じてしまっても、てんで信じなくったっていいんだけど。

やっぱりプーシキンの影響は強いなぁ。

一番強いのかも知れない。聖書以外では。





トカトントン

2005-04-29 11:23:25 | 太宰
拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」この場合の「懼る」は、「畏敬」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。不尽。

「トカトントン」~太宰治

何をしても何に夢中になってもイイトコロで「トカトントン」という「音」が聞こえてきて、すべてが虚しくなって投げ出してしまうんです、どうしましょう。という手紙に対する某作家(語り手≒太宰さん)の返信が上の言葉。
「十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。」
耳が痛い。
ダメな自分をまだまだ誤魔化そうとしている。わかったようなこと言ったり、自分可愛さに(?)人のココロ傷付けたり。
自分がどんなにダメな人間か、まだおわかりでないようだ。
こんな独り言も、まだ醜態を避けようとしている姿なのか・・・。

散り乱れ

2005-04-10 02:55:16 | 太宰
太宰さんの「春昼」という随想に、

「あたし、桜を見ていると、蛙の卵の、あのかたまりを思い出して、―」

「僕は、食塩の山を思い出すのだが。」

「あたしは、真白い半紙を思い出す。だって、桜には、においがちっと

 も無いのだもの」

というようなやりとりがある。「風流とはいえない」と太宰さんは言っ

ているが、私も、桜があまりいいとは思わない。風流がわからないのだ

ろうか。

満開の桜は、なんだか、嘘っぽい。虚しくなる。

そうだ。「富嶽百景」ではないけれど、「風呂屋のペンキ画」のように

「おあつらえむき」すぎるんだ。

至るところで、桜は満開。でも私は、浮かない気持ちで、下を向いて歩

いている。ひねくれ者め。

あと数日後には、散る。散った花びらや枝に残された萼も「わろし」と

思わずにいられない。こんな風に書くと桜が嫌いなのかと思われてしま

うけれど、そんなことはないのだ。

一番好きな桜の姿は、花が散り、萼も落ち、若葉が萌えてくる頃だ。

なんだか、ほっとする。

そうだ、君を待っていたんだよ。




遺産

2005-03-24 19:41:14 | 太宰
ボードレールは麻薬に酔い痴れていたから『人工楽園』が書けたのではない。資質上の、あるいは生活上の弱点や破綻か麻薬中毒におちいりながら、なお醒めた部分がその詩の宇宙を形づくったのである。太宰治についても同様であって、表現というものがもつ自己の自由の宿命化によって、資質的な運命性に自己呪縛の加速度をあたえることによって、その生命は燃焼し尽くしたが、私たちにとって価値のあるのは、あくまで表現の側であって、資質そのものではない。

~高橋和巳「滅びの使徒」


実生活では、社会や世間というものに全くといっていいほど適応でき

なかった太宰さん。彼は、なにより作品の上で、より深い、コミュニ

ケーションを夢みた。人間であるより、小説家としての生を全うした

太宰さん。

負の十字架という言葉は決して大袈裟な芸術家の自己陶酔と言い切

れないと思う。不朽の作品は、尊い犠牲なしには創り得ない。

私たちは、その遺産をしっかり受け止めなくてはいけない。感傷に浸

ってばかりいられないのだ。


私たちは、決して同じ道を歩む必要はない。彼の血と悔恨が生んだ作品によって開かれた世界を、想像と追体験によって一足飛びに我がものとし、そして<解った>と呟けるときがくれば、その世界を背後におき去りにしてもよいのである。

~同上

距離感の快不快

2005-03-24 18:40:24 | 太宰
太宰さんは好き嫌いがはっきり分かれる。その理由は距離感にあると

思う。

彼は、近い。

彼の作品の語りは、初対面なのに隣に座って、耳元で囁いてくる感じ

だ。イヤらしくなく、図々しくなく、そっと自然に、…自然を装って?

その語りの妙にコロッといってしまう人と、

ギョッとして引いてしまう人。

このふたつに分かれるんじゃなかろうか?


恍惚と不安

2005-03-24 03:29:56 | 太宰
―ああ、主よ、われ如何にしてけん?あわれ、見そなわせ、わが主、
われいま不思議なるよろこびの涙に濡れてあり、
御身が声は同時にわれをよろこばせ、われを苦します、
その喜びも苦しみも同じくわれに嬉しきかな。

われ笑ひ、われ泣く、盾に立ちて
運ばれ行く青白の天使の姿ある戦場へ
征けと鳴る喇叭を聞くと似たるかな、
その音ほがらかにわれを導く男男しかる心へと。

撰ばれて在ることの恍惚と不安と双つわれにあり、
われにその値なし、されどわれまた御身が寛容を知れり、
ああ!こは何たる努力ぞ!されどまた何たる熱意ぞ!

見そなわせ、われここにあり、御身が声われに現せし望に眼くらみつつ
なお然も心つつましき祈にみちて
おののきて、呼吸(いき)したり……

堀口大学訳『ヴエルレエヌ詩抄』「智慧」の「巻の二」の「その八」


もとはと言えばヴェルレーヌの信仰者として神に選ばれた者としての

<恍惚と不安>なのですが、太宰さんは芸術家、作家としての恍惚と

不安として処女作『晩年』の巻頭「葉」のエピグラフにこの言葉を挙

げました。

なんてナルシスティックなんだろう、と思うけれども、誰にだってある

思いではありませんか?

人間として生きていることの恍惚、そして不安。

恍惚だけでは、きっと葬られてしまう。

不安だけでは、早々に世から辞することになりそうです。

危ういバランスの上で、私たちは綱渡りをしているのでしょうか。



だめだこりゃ

2005-03-24 02:02:07 | 太宰
路を歩けば、曰く、「惚れざるはなし。」みんなのやさしさ、

みんなの苦しさ、みんなのわびしさ、ことごとく感取できて、

私の辞書には、「他人」の文字がない有様。誰でも、よい。あなたと

ならば、いつでも死にます。ああ、この、だらしない恋情の氾濫。

いつたい、私は、何者だ。「センチメンタリスト。」をかしくもない。


~太宰治「思案の敗北」昭和十二年


確か、だいぶ前にもこの言葉、取り上げて記事にしたと思う。

相変わらずだらしない恋情に溺れている私は、「他人」の文字がない

様子。

どんな関係を夢みているのだろう。

濃密な、母子の一体感を憧れているのだろう。それ以外の関係という

のがまだ呑みこめないようだ。愛だ恋だもわからない。淋しさと不安

だけがある。

桃源郷の夢をみる。
(なんて思っているから、救われないんだ。)

なんて、これじゃァ、いつまで経ってもダメだ。
(自虐は醜いネ)