マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

「これまで」と「これから」

2016-05-30 21:02:03 | 教会の風景
旧約聖書の講解説教のあらすじを掲載します。
しばらく更新していなかったので、半年前のものにさかのぼります。
昨年の渦中にある時のものですが、自分自身もこれらのみことばに励まされつつ、講壇に立っていたことを思い出します。

2015年11月 礼拝説教 旧約講解 ヨシュア記3章
偵察の報告を受け、ヨシュアは「翌朝早く」行動を開始した(3:1)。その行動に彼の信仰を垣間見る。「出発して」(3:1)という語は、特に民数記で多用され、もともと幕屋を張るための杭を抜く動作を指している。しかし、それは『川を渡る前に』限られる。今やヨルダン川を渡る、歴史的転換期だ。それには、主の契約の箱に象徴される主の臨在が先立つ。民は行くべき道を知るために契約の箱との距離を保つ必要があった(3:3,4)。未経験の道も主が先立ってくださる。神の御業が実現していく時、冒険、緊張、困惑が伴うこともあるが、「出発」し、主の臨在、主のみことばに心を向けていこう。
 神の民を導くリーダーシップを考えたい。ヨルダン川を渡るにあたり、ヨシュアは民に「主が、あなたがたのうちで不思議を行われる」と言った(3:5)。主はモーセにも「奇しいことを行おう」と言い、それにより民に恐れが生じると告げた(出エジプト34:10)。この時の「不思議」、つまり奇蹟にも神のメッセージが込められていた。主がヨシュアを「大いなる者」とし、『わたしがあなたとともにいる』ことを民に明示するものだった。聖書本来のリーダーシップは、神ご自身によるものだ。民の新たな世代は、主がお立てになったヨシュアによって約束の地に導き入れられる。同様に、神は、お立てになった御子イエスにより、私たちを御国へと確かに導き入れてくださる。



そして、年が改まり、再出発して...

2016年1月 礼拝説教 旧約講解 ヨシュア記4-5章
 イスラエルの民を率いてヨルダン川を渡ったヨシュアに主は命じた。ヨルダン川の川底から12個の石を持ち運び、宿営地(ギルガル)に据えよ、ということだった(4:2,3)。それらの石が主の導きの御業を思い出す『しるしとなるため』だった(4:6,7)。しかも、それらの石があることによって、末長くイスラエルの子孫の間で語り継がれ、信仰の継承がなされることにもなる。私たちに与えられた神の救いを記念し、私たちに思い出させるものとして、洗礼と聖餐とがある。イエス・キリストの贖いによってもたらされる確かな救い。私たちは洗礼を受け、聖餐に与るたびごとに、主の恵みを受け、信仰を励まされる。また、私たちの希望の拠り所がイエス・キリストにあることを互いに証ししていくことになる。
 そもそも割礼は、主がアブラハムとその子孫との契約のしるしとして与えられたものだった(創世記17:8-10)。その契約には、子孫がカナンの地を所有するようになるとされていた。それが、ヨシュアとその世代の民において実現しようとしていた。この時、主は「もう一度イスラエル人に割礼をせよ」(5:2)と命じた。どうやら、ヨシュアの率いていた世代は割礼を受けていない「無割礼の者」だったようだ(5:5,7)。それで、「もう一度」と言われ、その通り割礼が実施されると、主は「エジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた」(5:9)と宣言した。『もう一度と語る主』は、前の世代の不信仰の刈り取りを終えて、新たな世代のやり直し、再出発を励ましている。


この続きは、また改めて掲載することにします。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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