マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

夏の終わり

2010-08-23 16:51:39 | 教会の風景
八月も残すところ一週間余りです。
九月に入るとすぐに神学校の聴講が再開します。

しかも、9月の最初の講義で発表の担当になっているクラスが一つあります。
牧会学の「カウンセリングの諸問題」で、ACについての発表をします。
おおよその形にはしたのですが、まだ仕上がっていません。
今週は、通常の仕事+神学校の課題も進めていきたいと思います。

さて、話は変わりますが、月報9月号に掲載した8月の礼拝説教のあらすじです。

 主は、モーセの祈りに応え、主の名による宣言(34:6,7)をもって栄光をお示しになった。そして、再びイスラエルとの契約を結ぶと言われた(10)。その契約は、イスラエルに対しての主の特別な取り扱い、「奇しいこと」「主のわざ」「恐るべきもの」(10)を約束するものであり、イスラエルには命令に対してのふさわしい応答が求められた(11)。イスラエルに命じられたことの概要は、カナンの先住民たちとの契約の禁止、主の定められた年に三度の祭りと安息日を守り行うということだった。先住民との契約禁止は、異教社会の偶像崇拝からの保護を目的とし、三度の祭りと安息日は、主の救いと養いの恵みを覚えるためであったと考えられる。こうして、主とイスラエルとの間に再度取り決められた、『契約における主の御業と命令』を見ていくときに、神と神の民の関係という視点で、今の私たちにも適用されるであろう。主は力強い御手をもって私たちを導いてくださる。と同時に、私たちの側では、この多元主義的異教社会の中で、主にのみ仕える信仰を全うするということ、また、キリストによる贖いをもって救われ、主の良き備えの中に生かされていることへの感謝と記念を絶やさない、という主への応答である。

  シナイ山から下りてきたモーセの顔から光が放たれていた(29)。(ちなみに、中世の絵画や彫刻に角の生えたモーセ像が存在するのは、この節のラテン語訳聖書の誤訳のゆえである。)聖書は、この現象の原因を「主と話したので」(29)と簡潔に記している。その意味をもう少し絞ってみたい。モーセが主と話したのはこの時が初めてではない。四十日四十夜という長い期間の対話も二回目である。ならば、この時の対話において特徴的な点が、「主と話したので」という表現の理解を補うことになるだろう。それは、二回目のシナイ山登頂前のモーセの祈り(33:18)と、主の名による宣言(34:6,7)にあるだろう。主を知ることを求めたモーセに対して、自らの「うしろ」(33:23)を啓示なさった主なる神。これらのことから、彼の顔の輝きは、まさに『主の栄光を仰ぐ』ことからきているのである。新約聖書において使徒パウロはこの箇所を引用している(コリント3章)。私たちが主ご自身に向くとき、主の御霊は私たちに主の栄光を反映させ、主と同じかたちに姿を変えてくださるのである(16-18)。 

最後まで読んでくださってありがとうございました。


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