マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

堅く立っていてくれるなら

2008-09-06 17:10:15 | 神学校・講座
昨日は、新約各書の講義でした。
ショートメッセージの続きををUPしておきます。
できれば、聖書を開きながらの方が分かりやすいですね

テサロニケⅠ 3:1-13
「主にあって堅く立っていてくれるなら」

この聖書箇所においても、牧会者としてのパウロの心情が、鮮明に表現されている。
まず、テモテの派遣の動機に関しては、「もはやがまんできなくなり」(3:1,5)と表現している。
当然のことながら、自らの宣教の実を台無しにされることは、彼にとって非常に耐え難いことであった。
テモテには、テサロニケの教会の人々の信仰を励まして(2)、状況を視察する(5)という使命が託された。

テモテの報告は、パウロにとって「良い知らせ」であった(6)。
「会いたい」というのが共通の願いであることも分かった。
テサロニケの人々の願いと信仰は、「慰め」(7)をもたらし、「生きがいがある」(8)とまで彼に言わせ、彼の「喜び」となった(9)。
その「慰め」と「生きがい」と「喜び」は、神への感謝と祈りとなってささげられる(9-13)。
これらのことを見ていくと、牧会者パウロの関心は、まさに「彼らが主にあって堅く立つ」ことにあったと言える。

テサロニケの教会だけでなく、いつの時代も教会の目指すところは、「主にあって堅く立つ」ということである。
確かにこの世に置かれた教会には、「苦難」(3)もあり、「誘惑者」(5)の存在もある。
しかし、今回の箇所からも分かるように、そのような状況下でも、「動揺する者がひとりもいないようにするため」(3)に最善を尽くしたい。
そのために、神は教会に交わりと祈りを与えておられる。

テモテがわざわざアテネから派遣され、パウロが再三訪問を計画したのは、互いに交わりを持つためであった。
交わりから生まれる励ましが、教会に「主にあって堅く立つ」ための力を与えてくれる。
また、たとえ互いが離れているときでさえも、私たちは祈ることができる。
互いのために、神に願い求めることが許されているのである。
神が与えてくださったもののすべてを用いて、私たちは互いに「主にあって堅く立つ」ことができるように励んでいきたい。


最後まで読んでくださり、ありがとうございます
みなさんの教会での交わりや祈りの生活が豊かなものでありますように。
祝福をお祈りします
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