マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

落ち穂拾い

2018-10-25 23:14:44 | 教会の風景
前回、講演会の記事を投稿してから、久しぶりの更新です。
その間も、東村山聖書教会では通常どおりの行事が行われていました。

とは言いましても、集まっている方々の状況は、その時その時で変化していきます。
体調、仕事や学業、家庭のこともそうです。
信仰心を試されるような局面も経験することがあります。

さて、月末になりますので、今月の説教のあらすじを掲載しておきます。

2018年10月の礼拝説教のあらすじ(旧約聖書からの講解分) ルツ記1-2章
 キリスト者にも試練は訪れ、不安や落胆も経験する。信仰者の苦難について考えたい。夫と二人の息子との死別が、ナオミに深い喪失感をもたらしていた。モアブからベツレヘムに帰り、懐かしい人々と再会するも、彼女の心は沈んでいた。「快い」を含意する自身の名を皮肉って、「『ナオミと呼ばないで』、マラ(苦しみ)と呼んでください」と発言した(1:20)。おそらく、ベツレヘムの親類や知人たちは彼女から経緯を聞いたのだろう(2:11)。ルツ記に人々の反応までは記されていないものの、ヨブ記でヨブの友人たちが苦難の原因探しや悔い改めを強く勧めたのとは話が違う。ナオミ自身は、苦難の中で、神をどのように意識していたのだろうか。主なる神を「全能者」と呼び、その全能者が自分を苦しめていると言う(1:20,21)。苦難を通る信仰者が「全能者」を意識するのは、ヨブ記にも通じる。自分の願いとはかけ離れた現実に、己の無力さと全能者を強く意識するようだ。ただし、その全能者が自分に敵対し、不利な証言をしているように錯覚するなら、苦しみは一層募る。神の慈しみと最善を忘れないでいたい。

 ルツとボアズの出会いの場面から神の摂理について考える。聖書は、今後の展開のキーパーソンであるボアズを紹介し、ナオミの夫エリメレクと同じ一族、「有力な」親類だという(2:1)。さて、ベツレヘムで新生活を始めたルツは、ナオミに「畑へ行かせてください」と申し出て、『落ち穂拾い』を提案した(2:2)。「モアブの女」ルツは、「親切にしてくれる人のうしろで」と表現し、自分が置かれている立場の弱さを言い表している。二人の寡婦が生きていくため、必要に迫られての行動に過ぎない。ちなみに、イスラエルの律法には、農作物の収穫の一部を貧しい者たちのために残すよう命じられている(レビ記19:9,10; 申命記24:19等)。ルツは、ある畑で落ち穂拾いを始めた。「それは、はからずも…ボアズの畑であった」(2:3)。しかも、「ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て」とも続く(2:4)。「主が」とか「神が」とは述べられず、控えめな表現かもしれない。しかし、二人の出会いに神の摂理を示唆する。ルツにとって安心して落ち穂拾いのできる畑に導かれたことはもちろん、さらに歴史的な意味を持つ。私たちの何気ない日常にも、主のみこころにより御業は現されていく。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

聖書の場面がルツ記の「落ち穂拾い」ということでしたので、ミレーの絵も添えてみました。


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