マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

状況を考慮しながら

2020-05-02 00:38:00 | 教会の風景

5月に入りました。緊急事態宣言も延長のようです。

親交のある牧師間で情報交換をしていますと… それぞれの教会や地域の状況を考慮しながら、教会の活動、牧会をしている様子を耳にします。

たとえば、Zoomを使った会議や聖書の学びの時間も増えているようです。このところ、私も何度か経験しています。もうしばらく、この状況は続くでしょうから…Webの会議やコミュニケーションにも多少は慣れていくのかなぁ、なんて思っています。

 

東村山聖書教会は、引き続き各家庭での礼拝を呼びかけています。そのために週報や説教の代わりとなる奨励の文書を配布しています。今日も自宅で準備をしていました。

 

さて、4月分の説教のあらすじを掲載しておきます。旧約聖書の講解の2回分です。

2020年4月 Ⅰサムエル記14章

題:『兵たちはたいへん疲れていた』(サムエル記第一14章31-35節)

 (箴言11:14)は「指導がないことによって民は倒れる」と教える。指導者が賢い判断をしないと民に損害が及ぶ。王子ヨナタンの活躍で勝利したものの、イスラエルには問題が残っていた。その問題とは、サウル王が命じていた断食だ。兵士らは空腹のまま、敗走するペリシテの軍隊を30㎞余り追撃した。(Ⅰサムエル14:31)『兵たちはたいへん疲れていた』のも当然だ。断食の終わる日没になると、彼らは戦利品の家畜を勝手に食べ始めた。軍隊の規律は失われた。しかも、律法に違反し、(33)「血のままで食べて、主に罪を犯しています」という有様だ。王は、(33)「おまえたちは裏切った」、つまり、主の民にふさわしくない行為に及んだ、と指摘した。サウルの発言は正論だが、自分の誓願に一因があるとは考えなかったようだ。兵士らの冒涜行為を止めるため、サウルは祭壇を築いた。聖書は、それを(35)「彼が主のために築いた最初の祭壇」と記す。サウルの信仰や言動への皮肉を含むようにも思われる。これら一連の記事から、指導者のために祈る意義を考えさせられる。私たちは、指導者が正しい判断で指導力を発揮できるよう祈り、神の御前にとりなす(Ⅰテモテ2:1-3参照)。      2020.4.19

 

題:『愚かな誓いが招いた結果』(サムエル記第一14章36-46節)

 (伝道者の書5:2,4,5)は、「神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな。…」と軽率な発言や一貫性のない言動を戒める。ことばには責任が伴う。サウルが神の御前に立てた誓願から、さらに深刻な問題が起きる。サウルはペリシテ人追撃の是非を神に尋ねたが、(Ⅰサムエル14:37)「しかしその日、神は彼にお答えにならなかった」。サウルは、神の沈黙の原因を「どうしてこの罪が起こったのか」と言い、悪を行った人物を突きとめようとした。結局、ヨナタンがその人だと分かる。彼は断食の誓願を知らずに、道中で見つけた蜂蜜を食べていたからだ。サウルは息子ヨナタンに(44)「神が幾重にも罰してくださるように。…」と厳しく迫った。ヨナタンの違反は事実であり、この発言にはサウルなりの信仰や正義があるのだろう。ただしこの時も、自身の『愚かな誓いが招いた結果』だと自覚しなかったようだ。この緊迫した場面で、民はヨナタンを勝利の功労者として(45)「今日、あの方は神とともにこれをなさったのです」と主張した。そうして、サウルを思いとどまらせ、ヨナタンを救った。これらの記録から、サウル王は形式的に律法を守ろうとはしても、神への信頼や恐れ、神との人格的な交わりには乏しかったのではなかろうか。私たちの発言と行動はどうだろうか。       2020.4.26

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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新緑の季節

2020-04-24 00:07:00 | 教会の風景

新緑の季節を迎えています。ウォーキングの途中に撮影。



ステイホームを心がけつつ、心身の健康管理も大切にしています。

 

さて、教会の話題です。3月末から、教会はすべての行事を中止して、その代わりに教会員に文書を送っています。

今回は、その文書に掲載したメッセージをご紹介します。新約聖書 ヤコブの手紙5章7-11節からです。

7 ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。8 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。9 兄弟たち。さばかれることがないように、互いに文句を言い合うのはやめなさい。見なさい。さばきを行う方が戸口のところに立っておられます。10 兄弟たち。苦難と忍耐については、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。11 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。

 

題:『耐え忍びなさい』

①「耐え忍びなさい」(5:7,8)

 ヤコブは、試練に苦しむキリスト者たちに「耐え忍びなさい」と言います。これは「我慢が足りない!」と厳しく責めているわけではありません。この手紙でくり返し「(私の愛する)兄弟たち」と呼びかけていることからも、むしろ対等な立場、同じ目線に立って、力づけるためのことばをかけています。励ましのことばです。

 この「耐え忍ぶ」には、「待っている間、落ち着いている」という含みがあります。ヤコブはすべての苦しみの終わりを示して、「主が来られる時まで耐え忍びなさい」と言い、その時をじっと待つように諭しています。永遠に待ち続けるのではなく、主の再臨という期限があって、必ずその時が来ます。

 農夫の仕事は、天候に左右されます。先の雨は種まきに、後の雨は作物の実りに欠かせません。農夫はやがて得られる収穫を期待して、じっとその雨を待ちます。必ずその時が来るからです。信仰には「待ち望む」(ヘブ10:11)という特徴があります。

 「耐え忍びなさい。心を強くしなさい。」とは、将来への期待や希望を抱いて、じっと待ち続ける姿を教えています。絶望は、私たちの心と人生を破壊します。心が騒ぐときにこそ、神に望みを置いて、主イエスの再臨という結末を思い巡らしましょう。

 

②「互いに文句を言い合うのはやめなさい」(5:9)

 ここに「互いに文句を言い合うのはやめなさい」とあるのは、とても現実的です。苦しい時、辛い時、私たちの心はゆとりを失います。すると、周囲には、冷ややかな見方や厳しいことばで接してしまいます。それは仕方がないことでしょう。ただし、だからと言って、お互いにそのままの態度でいて良いわけではありません。

 ヤコブは、「さばかれることがないように」と言います。文句を言い合うのは、キリスト者にはふさわしくないからです。(ピリ2:14-16)「すべてのことを、不平を言わずに…」、神の救いに信頼して、心の平静を保つよう励ますのが信者の交わりです。

 

③「預言者たちを模範にしなさい」(5:10,11)

 「苦難と忍耐」というのは大変な課題です。ですが、「主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい」という手がかりがあります。私たちには預言者というモデルがあるのです。聖書は彼らを「耐え忍んだ人たち」と言いますが、実際には途中で弱音を吐いて、浮き沈みもありました。しかし、それでも失望せずにいたので、「耐え忍んだ人たち」とされました。

 ヨブの幸いな結末(ヨブ42:10)にも、「主は慈愛に富み、あわれみに満ちて」いるのは明らかです。預言者たちをモデルに「耐え忍びなさい」と教える神は、私たちにも幸い(マタ5:3-10)を約束しています。困難な時こそ、主を待ち望む心を新たにしましょう。

2020.3.29.

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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もうすぐ一ヶ月に

2020-04-19 17:13:00 | 教会の風景

いきなり余談で恐縮ですが…。

私の最近のお気に入りです。
iPadの時計アプリは、スキューバダイビングが背景になっているものを見つけました。
ドリンクは、ルイボス・ソイミルクティー。
 


 
ところで、東村山聖書教会の主日礼拝を中止にしてから、もうすぐ一ヶ月。
直接会うことを控えつつ、いろいろな手段でコミュニケーションを取りながら、互いのことを心にかけて祈り、励まし合っているところです。
 
教会の活動に制限が及んでいるものの、こういう状況だからこそ生まれてくる新しい視点や展望、時間の使い方や手段、価値観や関係性の変化もあるのでは…と思っています。
それで、各家庭で礼拝の時間を持つ助けとなるように、週報と聖書からのメッセージを要約した文書を毎週お送りしています。
 
 
今、心に留めている新約聖書の一節です。
使徒パウロが弟子テモテに送った手紙のことばから。
 
「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。」
(テモテへの手紙 第一 2章1-3節)

この危機的な状況の中で尽力している方々のために祈りをささげています。
各分野で権限を持つ方々が賢明な判断を下せますように。
現場に身を置く方々が的確に対応できますように。
必要とされている物資や人材が補われていきますように。
 
私には何ができるというものもありませんが…
節度ある行動を心がけていたいと思います。
 

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15年目の春

2020-04-06 23:16:00 | 教会の風景
 


 
牧師になって15年目の春。
新型コロナ対策のため、教会での主日礼拝を中止するという状況の中で迎えました。
 
先週に続いて、教会の皆さんには週報と聖書のメッセージ文書をお送りしました。
それぞれのご家庭での礼拝をお勧めしています。
 
節度ある行動を心がけて、皆さんと共にこの大変な時期を乗り越えていければと思います。
 
さて、礼拝説教のあらすじ(旧約聖書講解の2回分)を掲載しておきます。
掲載が追いついて、3月分です。
 

2020年3月 Ⅰサムエル記14章

説教題:『妨げるものは何もない』

 「匹夫の勇」とは「思慮分別がなく、血気にはやるだけのつまらない勇気」のことだ。聖書はキリスト者に勇気を教えるが(ヨハネ16:33他)、その勇気とはどのようなものか。主への信頼が勇気をもたらし、正しい行動につながり、神の栄光を現す。ペリシテの軍隊と対峙する中、ヨナタンは自軍の道具持ちに「無割礼の者どもの先陣のところに渡って行こう」と声をかけた(14:6)。割礼は主なる神との契約を示す(創世記17:10,11)。「主がわれわれに味方してくださるだろう」とは、神とイスラエルの関係に基づいて、神の救いを信頼しての発言だ。「主がお救いになるのを『妨げるものは何もない』」と続く。ただし、ヨナタンの勇気には思慮深さや慎重さも備わっていた。ペリシテ人の反応次第では、それ以上突き進むのが神のみこころではないと考える余地も残していた(14:8-10)。結局、ヨナタンはみこころを確信し、敵の先陣に自ら突入。それがきっかけで敵の全軍に動揺をもたらし、敗走させた(14:12-15)。ここに神の御業を見る。私たちも神の真実な救いに信頼し、みこころを尋ね求めつつ、実際に行動したい。(2020.3.8)

 

説教題:『父はこの国を悩ませている』

 宗教的な偽善は神に喜ばれないばかりか、人々を巻き込んで多くの害をもたらす。すでに王サウルは、いけにえの一件で主のみこころを損なっていた(13:13)。しかし、それだけでは済まなかった。主がイスラエルを勝利に導いた日、「イスラエル人はひどく苦しんでいた」と伝えられる(14:24)。本来なら勝利を喜ぶ声、神を讃える声が響き渡っても良さそうなものだ。イスラエル人は、当初ペリシテの大軍に追い詰められていた(13:6)。しかし勝利してなお、苦境に置かれていた。それはなぜか。サウルは勝利のために誓願を立て、兵士たちに断食を命じていたのだ。苦しみの原因は、その誓願だったのだ。皮肉にも、その戦場となっていた地域では蜂蜜がたやすく入手できたという(14:25,26)。サウルの誓願を知らなかったヨナタンは、わずかな蜜を口にしただけでも疲労を回復した(14:27)。その後、事情を知らされたヨナタンは、『父はこの国を悩ませている』と言った。新約聖書では、主イエスが山上の説教で軽率な誓いを戒めている(マタイ5:33-37)。私たちの礼拝や祈り、奉仕やささげ物に込められた動機や目的は、主のみこころにかなうものだろうか。(2020.3.15)

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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中止の判断

2020-03-28 23:35:00 | 教会の風景

外出自粛の要請を受け、現状も考慮し、東村山聖書教会は明日、3月29日の主日礼拝を中止することになっています。

今日は夕方のうちに、教会のみなさんに週報と説教の代替となる文書をお送りしました。各家庭で聖書と祈りの時間を過ごすのに役立てて頂ければと思っています。

 

さて、今回も礼拝説教(旧約聖書の講解2回分)のあらすじを掲載しておきます。

2020年2月 Ⅰサムエル記13章

説教題:『危機迫るとき』

 危機の中でこそ私たちの信仰の真価が問われるのではないだろうか。『危機迫るとき』と題して、信仰者の経験する危機について考え、心構えにも触れたい。イスラエル王国は、サウルと息子ヨナタンの下で徐々に整備されていた(13:2)。そのような中、ヨナタンがペリシテ人の守備隊長を殺害したのを契機に、イスラエルとペリシテの間に緊張が高まった(13:3,4)。その時点の両国の戦力からすれば、ペリシテが圧倒的に有利だ(13:2,5)。それは、兵士だけでなく、民にも自明であった。それで、逃亡する者たちもおり、サウルの指揮下に置かれた兵士でさえ「震えながら彼に従っていた」という(13:6,7)。すでに見たように、主はサウルを王に立てて、アンモン人との戦いで華々しい勝利へと導かれた(11章)。ところが、この時は事情が違うようで、聖書に説明はない。ただし確かなのは、信仰者、主の民も危機を経験する。信仰者にも、危機、試練や苦しみが訪れるのを自覚しておきたい。使徒ペテロが、試練の中にあるキリスト者たちに書き送ったことばを思い起こす。(Ⅰペテロ4:1,2,12,13)「キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。…不審に思ってはいけません。…キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」  (2020.2.9)

 

説教題:『愚かなことをしたものだ』

 今回は、孤独という視点で人生の危機について再考したい。(13:8)「サムエルがいることになっている例祭」にサムエルが現れなかった。(7:15-17)によれば、彼は定期的にギルガルを巡回した。本来ならば、いても良いはずだが、未だ到着しない。折り悪く、ペリシテ人との戦いが差し迫る。もともと劣勢のイスラエルは士気が低く、兵士たちの逃亡に拍車がかかりそうだ。(13:8)「兵士たちはサウルから離れて散って行こうとした」とある。このような事態に、サウル王は孤独や無力感に苛まれたのではないか。新約聖書によれば、使徒パウロ(Ⅱテモテ4:16)や主イエス(ヨハネ6:66; 16:32)も、仲間に見捨てられ、独りになる時があった。孤独がもたらす精神的負担は大きい。このサウルの場合、突き動かされるように、主に全焼のいけにえをささげてしまった(13:8-10)。サムエルは、到着を待てなかったサウルに『愚かなことをしたものだ』と言い放った(13:13)。本来、いけにえをささげる行為は、神への信仰から行われる。ところが、この時のサウルの動機は人々が離れていく恐れや焦りからではなかっただろうか。先のパウロ(Ⅱテモテ4:16,17)と主イエス(ヨハネ16:32,33)は、孤独な身になりながらも、「主は私とともに立ち…」、「父がわたしとともにおられるので」と理解し、信じていた。孤独という危機にこそ、主が私とともにおられると思い起こし、託された自分の使命を果たしたい。(2020.2.16)

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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