ラグの「素直に生きれば人生は楽しい」

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夢など無かった?

2008年06月04日 | 昭和懐古




周りの友達が 「プロ野球選手」 になりたいとか 「新幹線の運転手」 になりたい
といった “夢” を口にしていた頃、私はなぜか人生に冷めていた記憶がある。

もし、先生に聞かれたら ・・・ どう答えようかと少し悩むことはあっても、
真剣に “自分は将来○○になりたい!” という視点で考えたことはなかった。

“夢” が無かったというより、“夢” を語ることにまず煩わしさを感じてしまい、
“先のことなど誰にもわかるものか ・・・ ” という屈折した自分なりの論理を繰り
広げ周りの友達を冷やかに視ていた気がする。

大人に近づくと、冷静というより常に冷めたものの見方で青年期を過ごしていた
かもしれない。ただ、好奇心と感受性は人一倍強かったことは事実。そして反面、
人一倍飽き性であったこともこれまた事実である。

周りに真面目なヤツが増えれば、自身は限りなく不真面目なヤツを目指して動く。
逆に、不真面目やヤツが増えれば、真面目にやるべきと他人にも平然と訴える。

やはり、天の邪鬼だったのだろう。
ただ、天の邪鬼という言葉だけでは済まされないこともある。たとえば、進路 ・・・

ある日突然、同級生たちが将来を考えて志望校を真剣に決めている姿があった。
私は、“どこの学校行っても同じやろ” と悪態を吐いて、自身の進路さえ真剣に
考えるのをやめてしまったことがあった。

昨日まで右を向いて遊んでいたヤツらが、今日から左とばかりに襟を正す。
それこそ、まるで昨日までの自身の生き方を否定するように変貌していく姿が
どうしても納得できなかった。

大人になって、人の世ではそうしたことは日常茶飯事なのだと解ってからは
そう気にならなくなった。たしか、最近もあったような ・・・

自分にはできない技である。
不器用な生き方しかできない人間だということをこの歳になって初めて気づいた。
ただ、人に影響されて方向転換するような人生だけは送りたくない。

「夢」 というものは、“目指したり” “持ったり” “掴んだり” するものではなく、
“ただ、見るだけのもの” で済ませてやるべきだと私は考えている。

なぜなら、世間で “夢はきっと叶う!” と叫んでいるヤツらの “夢” のほとんどは
“現実” である。本当に叶ったかどうかを世間の中で確認するために叫んでいる
に過ぎない。同じ暗示が必要ならそれを信仰すべきだろう。

私は今、若かりし頃の卑屈な考えを発している訳ではない。冷静に、あくまでも
客観的に若い頃に考えていたことを再分析している。そして、その考えが今も
継続して使えると判断した。その上で、この生き方で良いという結論にも至った。


■ 昭和懐古 ■

“良い人生だった”
と思える人生に向かって!

第五大成丸


 
 



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