ラグの「素直に生きれば人生は楽しい」

主に人生の歩き方について「人生お弁当箱診断」など
以前のブログ名:和色ムーブメント

存在感を放つ

2009年05月19日 | 街的興趣




「クルマ離れが ・・・」

“クルマ離れが ・・・ ” という記事やニュースに触れるたび思うことがあります。
私たち世代は昔(30年前?)、18歳になるやいなや、挙って教習所に通い免許が
取れれば、即座にローンを組んでクルマを買ったものです。もちろん、目的は人
それぞれです。メカとしてのクルマそのものが好きだったヤツ、贅沢(ブランド)品を
ステータスとして所有(購入)したかったヤツ、ひたすら走りたいと考えていたヤツ、
そして、見知らぬ町をドライブしてその空気を吸ってみたいと考えていたヤツ ・・・ 。
( 私は、最後の “空気” パターンかもしれません )

確かに、クルマは必要性を感じなければ非常に高価な贅沢品でしかありません。
特に、今の若者世代にとっては、時代背景も含め価値観の多様化という観点から
必需品のランク付けや物欲の分散が起こっていることは事実であり、クルマもその
渦中で例外ではなくなったということです。ただ、PCやAVと同じ土俵で取り扱われて
いることに関しては、私たちオヤジ世代にとっては寂しい限りなのですが ・・・ 。
( クルマに足や箱の機能しか求めない方には、PC・AVの優先をおすすめします! )


「昔の記憶の底」

昔、
“○○で××時に!” と前日、友人と約束をして○○という喫茶店で待ち合わせる。
町のメインストリート、そしてメインの交差点の一角に、その喫茶店はあった。今風
なカフェではなく、昭和な佇まいの喫茶店だった。しかし、何とも言えない 「存在感」
があった。一時、自分たちの聖地でもあった。2人で待ち合わせるとクルマが2台、
3人だと3台、5人だと5台のクルマが駐車場に並ぶ。(注:暴走族ではありません)

その友人たちとそれぞれのクルマ、そしてその喫茶店、というシチュエーションが
脳裏に焼き付いている。すべてが個性的で、すべてがオリジナル。当たり前だが、
友人それぞれは顔も性格も立場(仕事や家庭環境)も違う。乗っているクルマも
それぞれ個性的、そして、その一緒に遊んでいる友人たちのクルマは、全部違う
車種である。誰一人、他の誰かと同じクルマに乗りたいとは思わなかった。今の
私の個性重視、オリジナルのすすめは、この時代に培われたものかもしれない。

この喫茶店の店名はもちろん、外観・内装・メニューなど、未だに記憶に残っている
のは何故なのか ・・・ 自身の記憶にインプットされた1コマ1コマを紐解くと、やはり
オンリーワンの存在だったからではないかと思う。これがもし、ナショナルチェーンや
ブランドショップの一つの支店(○○カフェ××店)であったら、ここまで深く記憶に
残っただろうか ・・・ 。お店のマスターの性格やバイトの女の子の表情、常連客の
仕草なども含め、それぞれのすべての存在が強い想い出となっている。


「不幸な時代」

今、
ナショナルチェーンやブランドのカフェで待ち合わせ友人と時間を過ごせば、将来、
過去を振り返った時には、“昔、あのカフェで ・・・” と想い出話はできるでしょう。
ただし、場所なり支店名を付けなければなりません。もちろん、良いこともあります。
知らない人とも “俺は××店へ行って、よく□□コーヒー飲んでた。” “私は△△
店の雰囲気が好きだったわ” と、店の雰囲気や好きなメニューなど、共通の話題に
変化させることはできるでしょうね。

しかし、その時、その場所に居た者にしかわからない共通項で想い出を語る ・・・
この感覚をどれだけ持てるか(持っているか)が大きい気もします。実際、私の
頭に深く残っている記憶や印象の90%は、幼少から20代までで覆われています。
幼少期から思春期や青年期の多感な好奇心が、それぞれの印象を強くしていた
ことは否定しません。しかし、それを差し引いても、ここ最近の印象の薄い人生は
何を意味するのか ・・・ と悩むこともあります。

“人生” までは大袈裟だとしても、生活の中に快適さや無難さを取り込んだことで、
苦労や刺激が少なくなり、印象に残るものが減ったような錯覚が起こっているの
かもしれません。また、情報の氾濫で、行く前、行う前に、ほぼ見えてしまうことで、
感激や感動に至らず、妙なストレスさえ感じてしまう時代になっている気がします。
「存在感」 すら作られてしまう(演出されてしまう)こともあり、“不幸な時代” だと
私は感じています。
( 今の若い世代は、何に存在感を感じ、何を想い出にするのだろうか ・・・ )


「存在感を放つ」

先日、ルミオンでふと立ち寄った田舎町は夕間暮れ。
交差点の一角、「存在感」 を放っていたのはこの有名コーヒーチェーンでした。


「ふと、思うこと。」

ふと思うことがあります。
私がクルマを持っていなければ ・・・
そして、この交差点に立ち寄らななければ ・・・
一生、この情景には出会わなかったのだろう ・・・ と。


「もっと、思うこと。」

すべてが目的化、目標化される時代。
逆に言えば、目的や目標がなければ動けない(動いてはいけない)時代になって
いるような気がします。それゆえ、“無駄が利益を押し潰している” という観点も
生まれてきたのではないでしょうか。間違いではありません。しかし、「無駄」 とは、
“益のないこと” であって、すべてを悪いと定義づけるのはどうなのでしょうか?
自分にとっては、無駄で益のないことであっても。自分がそれを行なうことで、他人
の益になる(役に立つ)こともあり得るはずです。すべてに利益や自身の得だけ
を考えての選択や行動をいつまで続け、それを正しいとするのでしょうか ・・・

インパクトのある人や物との出会い、また、印象的な場所やシチュエーションでの
人や物との関わりが、その時間や空間も含め、ある種 「特別」 に感じることがある
ものです。そして、その記憶の一端が年月を経ることで、自身の中で掛け替えの
ない存在(想い出)として、心に強く刻まれていることは紛れもない事実です。

個性的で オリジナルな 存在感のある人間 でありたい ・・・ 。



■ 街的興趣 ■

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