ラグの「素直に生きれば人生は楽しい」

主に人生の歩き方について「人生お弁当箱診断」など
以前のブログ名:和色ムーブメント

動物園で想い出すこと

2008年05月08日 | 昭和懐古


「姫路菓子博2008」 の会場は、
姫路城天守閣の東側と北側になっており、姫路市立美術館・県立歴史博物館の
敷地も使われています。菓子博の入場券には 「姫路城・好古園の入園料50%
OFF」 の半券が付いていました。動物園(姫路市立動物園)は会場の通路?として
使われていて入園無料。ということで、久しぶりに懐かしい動物を見て歩きました。





“姫子” は 「ゾウ」 の名前です。今の姫子は2代目のようです。
初代は15年位前に亡くなったそうです。初代の姫子には少し想い出があります。

私は高校生の頃、「姫路中央卸売市場」 内の仲買卸し(青果)の店で、
登校前に(朝6時前から8時過ぎまで)アルバイトをしていました。市場内の
アルバイトの多くはパンチパーマのヤンキー高校生です。それぞれ学校は違い
ましたが、“一癖二癖ワケ有り” なヤツばかりです。私も “一癖” あったかも
しれませんが、“ワケ有り” ではありませんでした。ただ、原付を買うお金を ・・・

それぞれの仲買の店に品物を買いに来た小売さん(八百屋さんや魚屋さん)の車
までその商品(荷物)を運ぶことが高校生アルバイトの仕事でした。市場内の狭い
通路を通称 “ねこ” と呼ばれる手押し(手引き)車で荷物を運びます。慣れるまで
あちこちぶつけ荷物を落としたりします。ベテランの域になれば荷を山ほど積んでも
まるで 「岸和田だんじり」 の “やりまわし” さながらのコーナーリングで進みます。

市場内には仕事場としての活気があり、高校生でもある意味、大人として振舞える
部分もありました。学校では求められない(得られない)自主性や責任感、あるいは
優越感といった感覚がありました。私はそんな “朝の大人な空気” が好きでした。
たぶん、アルバイトをしていた多くのヤンキー学生はそれに飢えていたのでしょう。
私の高2から高3にかけては、学校より市場中心の生活だったかもしれません。
【朝】市場バイト → 【昼】 学校・部活 → 【夜】 教習所 という過密なスケジュール
で生活していました。

高3の秋、受験に備えて市場でのバイトを辞めました。しかし、大学受験は見事に
全滅。とりあえず浪人生活 ・・・ 神戸の予備校へ通いました。が、授業に出たのは
最初の数日だけ。勉強をする意味が見えなくなっていた私は、毎日、神戸の繁華街
を徘徊する日々。( まあ、この時期の経験が後々プラスになりましたが ・・・ )

大学進学を諦めて、専門学校へ進むことにしました。もちろん、これは口実です。
“大阪へ出て何かやってみたい ・・・” が本当の目的です。それまでの期間、
市場でアルバイト(レギュラー勤務)をさせてもらうことにしました。商品やお客様の
顔など意外と物覚えが良かった私は、違う店からも誘いを受けるほどでした。
この市場での商品の目利き、お客様の名前や性格も含めた好みを憶える、
周囲の人とのコミニュケーション等々、今の仕事に大いに役立っていることは
間違いありません。

朝は、5時前に入ります。「せり」 が終わると、競り落とした品物が店頭に届く前に
小売さんから注文が入ったりします。親方は頭でソロバンを弾いて、商品に売値を
付けます。品物を見ずに注文する小売さんは、親方との信頼関係で買値も任せて
います。店頭で商品を見て買うかどうか見極める小売さんは、他の店も見てきて
いますので、当然、駆け引きがあります。「目利力・分析力・折衝力」 が必要です。

私と高校生アルバイトとの違いは、いかに状況を把握して自分がスケジュールを
組み立て、高校生に指示して無駄なく動かすかです。当然、廻る順番を考えて荷を
積むことやどの道を通るかといった細かい指示で時間に差が出ます。同じジャンル
の商品を扱っている仲買卸しの店は数店あります。スタッフの連携で必ず他店との
差が出ます。頭を使って組み立てて指示を出し、無駄なく体を動かして少しでも早く
間違いなく配達を終えるといった連携です。そして、最も重要なのは、お客様が
求めている商品やサービスをいかに提案・提供できるかです。飲食業界の基本と
全く同じです。

話が昭和(プライベート)から平成(仕事)に進んでしまいました。元へ戻しましょう。
朝5時前から夕方まで勤務していました。市場店舗内での商品の出し入れは
10時頃には落ち着きます。その後は、片付けや明日の用意は当然なのですが、
それ以外に配達や袋詰めなどがあります。小売さんが車に積みきれなかった
商品を配達します。特に、個人経営だが大きな店舗を持っている社長さんは、
朝一で持って帰る商品が積める程度の軽トラなどで来場します。後は、店側が
配達します。

大きな八百屋さんや小さなスーパーへの配達は、ほぼ毎日ありました。そして、
漬物屋さんには毎日、白菜を 2t トラック満載で2往復することもありました。
スポットでは月に一回程度、加古川交通刑務所への配達もありました。それから、
動物園への搬入です。これも月に一度か二ヶ月に一度程度でしたが、サツマイモと
リンゴをトラックに載せて動物園内の象舎まで運びます。写真にある 「姫子の家」
の右側にある扉から入るのですが、先代の姫子は気性が激しく、鼻ですくった砂を
私に向かって “早くエサをくれ!” とばかりに投げつけてきます。初回は知らずに
行った為、ほっぺたにクリーンヒットしました。

まあ、今では懐かしい昭和の想い出ですが ・・・ 。





子供の頃、何よりも 「カバ」 が嫌いでした。
忘れもしません。幼稚園に入る前年の春、親戚・仕事関係の家族一同で姫路城へ
花見に行った時、横手にある姫路動物園に連れて行かれました。幼い頃、人一倍
怖がりだった私は、トラやライオンなど猛獣を避け、ゾウやキリンの前に行こうと
しました。動きがゆっくりしている動物には怖さを感じなかったのかもしれません。
( ただ、なぜか小動物よりも大きな動物に興味 !? があったようですが ・・・ )

この時、カバを初めてLIVEで見ました。水の中から顔を半分出していました。
少し好奇心が湧いて柵の間から覗き込んでいました。すると、何を考えているのか、
親戚のおじさんが私の体が落ちそうなほど柵の上まで抱え上げました。次の瞬間、
カバは大きな口を開いてジャンプ?して私の顔に急接近してきました。私は恐怖の
あまり声が出ませんでした。オヤジやおじさんたちは大笑いです。その笑い声を
聞いて私は “大泣き” でした。

これが原因でしょうか、未だに、“高い所” と “カバ” が苦手です。


このお店から始まった [続編Ⅰ]

2008年05月03日 | 昭和懐古


当時の写真を探していると ・・・ グランドメニューが出てきました。
( 何となく、ハードロックカフェ?っぽいかも ・・・ )
26年前、実際にやっていたメニューですが、
よぉ~く見ると ・・・ どれもこれもそこそこのプライスだったのですね。
( ちょいビックリ!昭和バブル時代 ??? やったっけ~ ? )





なぜ、この流行っていたお店が ・・・

飲食業界では、さまざまな経歴や過去を背負った人たちも働いています。
(語弊があるかもしれませんが、苦労をしている人が多いということです。)
私は過去、多くのそんな業界人の悲喜交々な人生に触れてきました。
特に、この頃(昭和)は、行く店(働く店)、行く店に “訳有り人在り” でした。
そんな人間くさい業界だからこそ、“人に対して ・・・ ” の思いが強いのだと
感じます。もちろん、それを素直に表現できない不器用な人間が多いことも
また事実です。このお店でも個性的なスタッフとの出会いと別れがありました。
この 「昭和懐古」 に、その個性的なスタッフとのエピソードを少し残しておきたい
と思います。


■ チーフ ■ ( 頼りになるチーフコックの 「M元さん」  )

ロイヤルホテル(現リーガロイヤル)系出身で、作れない料理はないのではないか
というほど幅広く料理の作れる職人さんでした。また、数多く街場のレストランも
渡り歩いてきたようで、和洋中全ての料理に精通していました。ランチタイムには
ストーブ前でフライパン3つを一人でさばき、ディナータイムのパーティー料理では、
メインにフレンチの肉料理は当たり前ですが、魚介の活造りや江戸前の寿司を
握ってオードブル仕立てで出してみたり、中華料理を懐石風に盛り付けて提供
したりと、バリエーション豊かにパーティー料理を創作していました。今の時代なら
あるかもしれませんが、当時、手造り創作の店など存在しない時代にこうした表現
は画期的な店舗表現だったような気がします。ただ、チーフ以外の厨房スタッフは
経験が浅かったので、チーフは昼の営業をこなしながら、夜の仕込をほとんど一人
で行なうという過酷な状況でした。しかし、チーフは文句ひとつ言わず、若いスタッフ
に仕事を教えながら、お客様とスタッフの “ファン” を増やしていきました。

チーフは、仕事が終わると毎晩のように私を飲み(食事)に誘ってくれました。
四国訛り(愛媛出身)のチーフは笑顔で私に “くまさん今日は何食べる” と
聞いてくれます。“何でもいいですよ!お供します。” と私は返して付いて行きます。
チーフは一杯飲み屋へ行っても高い鮨屋へ行ってもいつもビールです。斜に構えて
肩肘ついてビールを飲んでいる姿が今も目に焼きついています。飲みに行っても
仕事の話はほとんどしません。そんな一回り以上歳の離れた業界人に、あこがれた
訳でもないのですが、何となくハマッてしまったのです。一緒にいると楽しく、業界人
としてのチーフの匂い(生き方)に酔ってしまったのかもしれません ・・・ 。
( ※ ちなみに “くまさん” は山から下りてきた私の愛称でした。スミマセン! )

飲み屋から出ると夜中(明け方?)、それから二人でよくサウナへ行きました。
当然、私は週に二日ほどしかマンションに帰りませんでした(帰れませんでした)。
サウナを出ると、そのまま出勤(モーニング担当)です。時々、チーフも付き合って
くれて、珈琲担当?をしてくれました。卵料理(目玉焼・スクランブル・オムレツ)が
通ると、チーフがストーブ前に立って焼き始めます。酔いが残っているのか、
スペシャル(豪華)なモーニングセットを作ってしまいます。当然、ホール担当から
“チーフ、ダメです!次回どうするんですか?!” とクレームが ・・・
チーフは笑って “今日はたまたまスペシャルデーです。次回はどうなることやら ・・・
ありがとうございました!とお客様に言ってきて。” とお客様にも聞こえるような
大きい声で返します。本当にユーモアがあってお茶目なチーフでした。

チーフは、プライベートでは20歳ほど年下の彼女と同棲していました。
お世辞にも男前とかカッコいいとは言えないオッチャンでしたので、たぶん、彼女も
チーフの内面の優しさや包容力に惚れたのではないでしょうか。
チーフは休日にホテルや街場のレストランに勉強(仕事)に行ってました。
“今、一流のお店や人気のお店で流行っている料理は何なのか” を自身が直接
肌で感じるために ・・・ 。 

チーフは、当時37~38歳でしたので、今はもう60歳は越えているはず ・・・
実は、音信不通なのです。この店をあがって3軒ほど一緒に動いたのですが、
突然、連絡が途絶え、あちこち探したのですが見つかりませんでした。

もう一度、M元チーフに会いたい ・・・


今後のエピソード予定です。

■ てっちゃん ■ ( 同期でバーテンのK田くん )
■ まっちゃん ■ ( 高校生アルバイトのM村くん )
■ Fちゃん ■ ( 大学生アルバイトのFちゃん )
■ K西 ■ ( 私の高校の同級生でコックのK西 )
■ M平さん ■ ( カナダかぶれのセカンドコックM平さん )
■ マスターと姉弟たち ■ ( 店の二代目経営者とその親族たち )


このお店から始まった [後編]

2008年05月01日 | 昭和懐古


[前編] で、“カフェ&バー(Cafe & Bar)” と紹介しましたが、
実際は、“カフェ&レストラン(Cafe & Restaurant)” でした。
今風に云えば、“ダイナー(Diner)” がより近いかもしれません。





朝一から夕方(4時~5時頃迄)が、私の基本就業時間だったと記憶しています。
「モーニング」 「ランチ」 「アイドル」 「ディナー」 と営業タイムは流れて ・・・
とにかく毎日、ありえないほど忙しいお店でした。昔ながらの喫茶店(1フロア)を
改装(2フロア)して、客席を増やして業態拡大を行なった結果、お客様はもちろん、
スタッフも3倍以上に増えていったのではないでしょうか。3毛作の業態は、現場
スタッフに予想以上の負担を掛けていました。皆、ギブアップ寸前でした。
特に、M元チーフはほとんど休憩をする暇もありませんでした。

私がお店に入ってから1ヶ月の間に、何人もの新しいスタッフが入店してきました。
しかし、忙しさとしんどさに勝てず辞めていくスタッフが後を絶たず、スタッフ不足の
解消はなかなかできませんでした。そのせいもあって、私はモーニングからディナー
まで仕事をすることが増えていきました。さすがに、20時間労働が続くとキツイ
ものはありましたが、若かったことと新しいことへの好奇心があったこと、そして、
何よりもM元チーフと数人のスタッフへの興味が大きく、嫌になることはありません
でした。まあそれより、その状況を少しでも自分が手伝えれば ・・・ という思いで
日々前向きに過ごしていたことが昨日のようです。

私は飲食店の基本をこの店で学んだのですが、
今、振り返れば、当時は閉鎖的な業界で、料理にしろ、サービスにしろ、ましてや
管理などの経営的な手法においても、これといったバイブルもなく、情報不足で
現場の職人やスタッフは、何年も掛けて先輩の技や考え方、お店のやり方を
盗んで自分のものにするしかない時代でした。そのいう時代に、M元チーフは、
自身が数年掛かって会得した技や味付けをいとも簡単に後輩の私たちに教えて
くれました。今考えれば、たぶん “何でこんなヤツらに ・・・” と感じることもあったと
思うのですが、そういう素振りを一切見せず、私たちとフレンドリーに付き合って
くれた本当に優しいチーフでした。

仕事の基本やスキルも日々得ることができましたが、それ以上に、社会人として
業界人として必要な資質のようなものもチーフからは貰っていた気がします。
チーフ本人にタメ口っぽく喋ったり冗談を言っても、笑って流してくれるのですが、
チーフ以外の年長者や立場が上の人に対してそれをやると、大きな声を出して
真剣に怒られました。それから、後輩の面倒はとことん見るという姿勢があり、
目配せや気配せ、アフターケアは徹底していました。

チーフは毎日、仕事を知らない(できない)私たちの動きや組み立てを見ています。
次の日、私が厨房に入ると、物の位置や調理器具の様子が前日とは明らかに
変わっています。包丁、まな板、フライパンが光っています。ボールや鍋、保存容器
が一糸乱れず棚に並んでいます。その日使うであろうラップ・アルミホイル・ゴミ袋が
すぐに使えるように配置されています。よく見れば、シンクもゴミ箱もピカピカです。
そう言えば、更衣室も整理整頓されていてゴミ一つ落ちていませんでした。
完璧でした。全てチーフが前日やって帰ったのです。後輩(部下)の私からすれば、
“チーフがここまでやるか ・・・” と感じました。当然、その日から後輩の私たちの
動きや考えはガラッと変わりました。チーフは何も言わず人を動かしたのです。

M元チーフとのエピソードは尽きません。( また 「続編」 で ・・・ )
このお店には約1年強在籍していたと思います。その後、チーフに付いて3軒ほど
店舗を回りました。飲食業界で云う、「親(オヤジ)」 と 「子(子飼い)」 の関係で、
私にとっては最初のオヤジで最高のおやっさんでした。


「昭和懐古」

急ぎまくり ・・・ 焦りまくり ・・・
簡単な良し悪しの判断さえも
間違えてしまうような青春真っ只中を
“昭和” という時代の中で過ごしていた。

第五大成丸


このお店から始まった [前編]

2008年04月29日 | 昭和懐古


26年前、
山(鳥取大山)から降りた私。
何の当ても無かったが ・・・ とりあえず大阪へ。





大阪淀屋橋にあった “Cafe & Bar” ( 「カフェバー」 ・・・ 懐かしい響きです )
この写真のお店が飲食業界で働くキッカケとなったお店で私のベースです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

山を降りて実家に1週間ほど居ただろうか。
“そろそろ動こう ・・・” と思ったその日にのうちに新幹線で大阪へ向かった。
今思えば、なぜ新幹線で大阪へ行ったのか疑問である。( 近いのに ・・・ )
新大阪駅に着き、たぶん一番先に目に付いた不動産屋に入って部屋を求めた。

条件と希望の場所・間取りなどを聞かれて、 
 “間取りは1Kか1ルームでいいです。”
 “場所はどこでもいいけど、駅に近いところがええかな~。”
 “家賃どれ位します?・・・ 払える範囲で ・・・!?”
と、世間知らずでええかげんな会話をした記憶が ・・・ 。
まだ仕事も決まってないのに部屋だけ先にキープした私でした。
( 小さい頃から、決めると後先をを考えず行動するタイプ!? )

住む場所はどこでも良かった。が、あったとすれば、“山で知り合った彼女が来阪
しやすい場所” が頭にあったかも ・・・ 。新大阪駅前(東口徒歩数メートル)にある
雑居マンションだった。普通に生活している人はいないのではないかという怪しい
マンションだった。5階の北側で8帖ほどの1ルーム。一人暮らしには何ら問題は
なかった。窓からは東京方面から新大阪駅に入ってくる新幹線が目の前に見えた。
というより、時々新幹線に乗っている人とハッキリと目が合う距離だった。
( ほんま近い!10㍍位やったかも ・・・ )

数日、
求人情報誌( 「アルバイト情報」 と 「アルバイトニュース」 )を頼りに職を探した。
別段、仕事にこだわりはなかったが、「人と接する仕事」 がしたかった。それが
山を降りる時に決めた大阪に出てきた唯一の目的やったから ・・・ 。

この頃の求人誌に掲載されている求職の8割以上が飲食店スタッフの募集だった。
「人と接する仕事」 ということで、結局、飲食店を中心に数ヶ所のお店で面接を
してもらった。そして、レギュラー(社員扱い)希望を伝えると、どこのお店でも
必ず同じ質問をされた。

 店 : “経験は?”
 私 : “学生時代ですが、食堂や喫茶店でバイトしてました。”
 店 : “なんでうち(そのお店)を(選んだのか)?”
 私 : “え~っと、別に ・・・ ”

当たり前ですが、これでは雇ってはもらえない(雇ってもらえませんでした)。
こうした面接を何度か受けるうちに、飲食店(サービス・接客業)をやっている方
たちの考え方や仕事に対する思いが少し理解できるようになっていった。それが
今の自分にとって大きなプラス(財産)になっていることは間違いありません。
そう余裕はなかったのですが、“こう言えばどう反応するのか?” というところまで
試すようになっていました。ただ、さすがに1ヶ月も経つと遊んでいる場合ではなく、
真剣に仕事を決めないと生活費が底をつきます。( ちょっと焦りました )

“リニューアルオープンしたばかり” というお店の広告が目に付きました。
あとで聞いたのですが、業態も店名も新たに立ち上げ、以前から働く数名の
スタッフの存在を除いては 「新規オープン」 でした。今はもう、このお店は無い
のですが、今あっても違和感のないほど洗練された外観、プロジェクターを備えた
パーティールームやサンルームがあり、内装は白壁と木目の家具を基調とした
オシャレな雰囲気。四半世紀前、ある意味、淀屋橋で一世を風靡したお店でした。

それまでの失敗した面接経験を踏まえ、“絶対に滑らない(落ちない)” ように、
受身でなく攻めの姿勢で面接を受けることで、思惑通り採用となりました。
受け答えの内容は言えませんが、今でも私の中に、こう言えば(語れば)採用
されるというものがノウハウとして蓄積されています。

 



私自身、料理を作ることに興味やあこがれはほとんど無かったのですが、
“折角なので、まずは厨房に ・・・” ということで、「モーニングタイム」 の厨房が
メイン担当のバーテン・調理見習といった職種でレギュラーとなりました。朝は
早いです。営業は7時からですが、昔からの常連さんが6時半には店の中へ
入って来られます。私は6時までに行かなければなりません。しかし、苦痛では
ありませんでした。実家の仕事、山での仕事、共に朝早い仕事でしたので ・・・ 。

お店のマスターのお父さん(「旦那さん」 と呼ばれていた創業者)が朝一番で
お店を開けて3時間ほどモーニングタイムを手伝ってくれていました。70歳を
越えている旦那さんと私、そしてもう一人16歳でヤンキーの若い子という
バランスの悪い3人で厨房をやっていました。ハイセンスなお店なのですが、
朝は旦那さんの存在が大きく、昔ながらの喫茶店の雰囲気で覆われていました。

昼前になると、
昼(ランチタイム)・夜(ディナータイム)担当のスタッフが順番に出勤してきます。
色んなヤツが働いていました。全員は紹介できませんが、印象に残っているのは、
優しいM元チーフと融通の利かない二番手のM平さん、高校生でメインアルバイト
のM村君でしょうか。( やっぱ長くなりますので、個々のネタは次回 ・・・ )

こうして、私の大阪における飲食店(飲食業界)での仕事が始まりました。
それは、人生を大きく変える出来事の始まりであったかもしれません。また、
大きく人生に影響を与える人との出会いや別れの始まりでもあった気がします。
いずれにせよ、この業界で仕事をする限り、昭和に出会った忘れること消すこと
のできないお店とスタッフです。



昨夜、家に帰ってテレビをつけた瞬間、この店舗情報の映像が ・・・

当時、高校生3年生で制服を着たまま学校帰りにアルバイトに来ていた
M村君( 「リストランテ・マツムラ」 オーナー 松村 和彦 )のお店が紹介され、
本人が料理を語っていました( ちょっと、太ったんちゃう ・・・ )。今でも連絡を
取り合っている当時のスタッフの一人ですが、やはり、この業界で元気に活躍して
くれている姿を見ると嬉しいものです。まあ、M村君(まっちゃん)のお店は、
「二升五合」 枠で今度ちゃんと紹介しようと思います。


「昭和懐古」

関わった店やスタッフは皆、当時のままの姿と動きなのです。
私のベースはここにあります。M元チーフにもう一度会いたい ・・・

第五大成丸


 
 


変わらぬ空気感

2008年04月14日 | 昭和懐古


28年前の 「昭和懐古」。




大阪梅田にあった専門学校で出会ったヤツら。
出身地(大阪・京都・滋賀・奈良・和歌山・兵庫・岡山・香川・広島・山口)も
経歴・年齢もバラバラ ・・・ なのに、初対面から話ができるヤツばかり。不思議と
居心地の良い空気を感じたのを今でも想い出します。私は1年しか在籍せず、
しかも、ほとんど授業には出ていませんでした(バイトと遊びに忙しかった)ので、
学校で一緒に過ごした時間は短かかったのですが、私が学校を辞めたあとも
事ある毎に誰かが連絡をくれましたので、月に1回程度あった飲み会には必ず
参加していました。

もう、この仲間と知り合って29年になるのでしょうか ・・・ 。
早い話、この気の置けない仲間とは嫁さんより長い付き合いなのです。
元々、大阪以外の地方から出てきていて、卒業後は地元に帰っている者が多く、
今では全員で集まることは難しいのですが、それでも年に数度、その飲み会が
続いているということです。先週末の土曜日は、前回と同じく5名で飲みました。

29年前と何ら変わらない関係で、皆、話し方もトーンも昔のままです。
それぞれ家庭を持っていて、今の生活環境や置かれている位置は間違いなく
違うのですが、会えば、それぞれが昔と何ら変わらぬ空気を出せるし吸える ・・・
この感覚があるから続いているのだと感じます。

男性陣は2代目が多い。( スポーツ用品店、自転車屋、化粧品販売卸など )
女性陣はお嬢さん?が多い。( 呉服屋の娘、旅館の娘、地主の娘など )
そして、今回はそれぞれ子供が二人以上いる( 子供3人の4家族+子供2人 )
少子化時代に貢献しているのではないかという家庭の集まりとなりました。
男同士で会えば仕事の話になるし、女性陣が来れば子供や家庭の近況報告会。
そして、「昭和懐古」。飲み始めて4時間を越えました。日付が変わる前に
次回また会う約束をして解散です。





港が遊び場だった

2008年01月21日 | 昭和懐古


「 大 寒 」

冬の冷たい風にあたると
幼年期を過ごしたあの港町の
お台場から見えた風景が脳裏に浮かぶ





いくつの頃だったか ・・・
いつものように海が見渡せる 「お台場」 で近所の友達と遊んでいた。
そこは海に向かって大砲が据えつけられていた跡が残っている砲台である。
( 東京の “お台場” ではありませんが、「要害の地に設けて大砲を据え
 つけて海防に備えた砲台」 という意味では同じ用途の土地名称です )

お台場は、小さな運動場ほどの凸凹の原っぱで、建物の基礎部分の址と思われる
大きな穴や溝があちこちにあった。その穴や溝が 「かくれんぼ」 に最適で格好の
遊び場になっていた。そして、どんなに冬の寒い日でも外で遊んでいた当時の子供
にとっては、冷たい風を防げる避難地(基地)でもあった。

当時、爆竹やカンシャク球など大きな音を出して爆発する玩具が流行っていた。
特に、「2B弾」 という爆竹は、花火などの枠を超えて、差し詰め “小さな爆弾”
だった。2B弾は約10cmほどのダイナマイト型で、頭にマッチの頭と同じ発火性の
混合物を付けた形状で、マッチなどの火は必要なく、石や金属、硬い木などに
擦り付ければ、その摩擦で着火する仕組みだった。そこいらの悪ガキはみな、
ポケットに入れて持ち歩いていた。子供には非常に “危ない遊び” だった。
( 昭和40年前後の話ですが、2B弾は駄菓子屋で簡単に買えていました。
 ただ、事故や怪我が絶えず危険で、数年で製造中止になったようです )

この2B弾を溝の横穴に突っ込んで “発破をかけて” 遊んだり、二手に分かれて
手榴弾のように投げ合う “戦争ごっこ” 宛らの遊びをしていた。もちろん、大人に
見つかれば大目玉を食らう。特に、そのお台場の横にあった派出所のおまわり
さんには何度となく怒鳴られたもの。お台場のほぼ中央に一つだけ残っている
小屋(たぶん、何かの資材置き場)の扉に掛かっていた鍵に、2B弾を10本ほど
突っ込んで爆破させようとした時、途轍もなく大きな爆音となり、おまわりさんが
飛んできて、これまた、こっぴどく叱られた。今の時代なら逮捕されるのではないか
という事件だった。

それでも、今の時代のように 「危険」 「危ない」 と子供が何かをする前に親や
大人が止めてしまうようなことはなかった。だから、失敗や痛みを自分の経験で
体感できたのだと思う。初めての “危ない遊び” が取り返しのつかない犯罪に
なってしまう可能性は今の時代の方が圧倒的に高いのではないか ・・・ 。当時が
良い時代だったとは思わないが、今の時代ほど人の心は荒んではいなかった。
皆、貧しかったけど温かかった。私の昭和はそんな時代だった気がする。

ある日、
そのお台場の塀から首を出して港(海)を見渡していると、外国船籍の貨物船が
入港してきた。もちろん、重要港湾に指定されている大きな港なので、珍しい風景
ではなかった。しかし、いつもと違う雰囲気を子供心に感じていた。なのに、子供の
子供らしいところというのか、怖いのに怖いもの見たさというのか、着岸したその
貨物船に友達と二人で近づいて行った。船のデッキから船員の数名がこちらを
見ている。私の記憶では、たぶんヨーロッパに近い西方のアジア人だった。

一人の大きな男が何か声を掛けてきた。と思うのと同時にタラップから下りてきて
友達の手を引いて船へ連れて行ってしまった。私の目にはどう見ても、無理やり
引っ張り込まれたように見えた。私はどうすればよいのかわからず、その場で
ただオロオロしていたことを憶えている。友達を呼ぶ声も出せず、その場を離れて
誰かを呼びに行くことも出来ず ・・・ それから、何分くらい経過しただろうか、友達が
タラップを下りてきた。あとで、その友達に話を聞くと、船内を案内してもらったのだ
と言う。なぜ、お前は来なかったのかと逆に聞かれた。しかし、私の脳みそと心臓は
それどころではなかった ・・・ 。( 頭パンパン!胸バクバク! )

また別の日の出来事だが、
岸壁にダンボールの廃品を1m角に押し固めた荷が100個ほど積み上げてあった。
子供にとっては絶好の遊び場である。友達数人でそのダンボールの山に登って
遊んでいた。もちろん、その荷は船でどこかへ運ぶ荷物(商品)だったのだろう。
あまり人相の良くない若い兄ちゃんが私たちの傍へつかつかと歩み寄ってきた。
“お前らー!何してるんや~?” と声を掛けてきた。私たちは一瞬、怒られると
思い下りようとしたが、友達の一人が “おっちゃんが遊んでもええって言うた!”
と嘘をついてしまった。すると、兄ちゃんは “ほんまか?!” と少し凄んで見せた。
私たちが黙っていると、いきなりナイフのようなものを出して登ってきた。私たちは
必死の思いで荷から下りて逃げた。皆、一目散でそれぞれの家へ逃げ帰った。

もちろん、脅しだったのだろうが、こんな強烈なお仕置きは初めてだった。“もう
悪い事(勝手に人のものに触ることや嘘をつくこと)はしない!” と子供心に
震えながら誓ったものだ。私は子供の頃、数えられないほどこんな経験をした。
今、自分の周りにいる子供を見て ・・・ “まあ、無いよなぁ~” と、安堵と不安が
交錯する複雑な心境になっている自分に気づく。 これでええんか ・・・ !?





大きな港の奥に、「湛保(たんぽ)」 と呼ばれる小さな港がある。幕末に造られた
人造港で、昔は網元の屋敷が港の端にあり、周りを遊郭が取り囲み、溢れるほどの
舟が停泊して栄えた港だったらしい。今はその面影もなく海上保安庁の船と小型船
が係留される港になっている。私が子供の頃にはその面影が多少残っていた。
小さな神社と古い灯台(今はない)があった。賽銭箱に手を突っ込んだり、石塔?の
灯台によじ登って遊んだ。知人が元遊郭だった家に住んでいたので、よく泊まりに
行った。玄関の三和土から空気が違い、帳場だったであろうスペースを抜けると
中庭が見える。回遊式の廊下の一番奥に厠があった。子供なりに風情を感じた。

街場は、きれいに区画整理され、
家にも、学校にも、公園にも、“危なさ” が無い。いや、“おもしろさ” が無くなった。
“生活感が無い” とよく云うが、“カン” 違いである。今の時代は “生活環” が無く
“生活観”  が芽生えない時代なのだと思う。もう、昔に引き帰すことはできないが、
少し見直すことはできるような気がする。

子供たちにも少しだけ “危なさ” を与えたい ・・・



アルバイトアンクル 【 鳥取大山⑤ 】

2008年01月06日 | 昭和懐古

山の春もそこまで来ています。

とうとうアルバイトは私一人になってしまいました。日々の仕事をこれまでより丁寧に行なっている気がします。




S嬢は学校があり、冬休み終了後に一度下山したのですが、どうしても大山(この旅館)と完全に縁は切れず、実家の奈良と学校のある京都、そして、この旅館のある大山を掛け持ち移動する生活を始めました ・・・ 。
( この山とこの旅館とこの人々に完全にハマっています!)

多い時には男8名(女子を入れると12~13名)が一緒に寝起きをしたアルバイト部屋。今は私一人だけで、無駄に広くて淋しく感じます。反面、ゆっくりと時間が流れていることがわかります。

この山に来た目的でもあった “自分を見詰め直す” ことができる環境になってきたのかもしれません。昼の休憩になると大女将がお抹茶を入れて誘ってくれます。

若女将から “これからどうするん?” と聞かれます。“今、考えてます。” と答える私。“決まるまでここにおればいいよ” と若女将から声を掛けて戴きました。ありがたい言葉でした。( この言葉は一生忘れません。 )

この山に来て、自分でも知らなかった(気付かなかった)自分の側面を見たような気がします。意外と自分の正面というのは他人から見えている部分であって、その他人がこう見てるのではないか ・・・ という客観的な自分像なのかもしれません。

だから、自分で捉えることができた側面の方が素直な自分なのかもしれません。自分に素直になれたこの時間は貴重でした。

おばちゃんたちからもたくさん声を掛けてもらいました。たぶん、おばちゃんたちからすれば、私が自分たちの孫と同世代で心配だったのでしょう。
下山しても時々顔を出すことを約束しました。

私も S嬢 と同様に、この大山(旅館や人々)とは縁が切れそうにありません。庭から参道に出て麓を眺めると、いつの間にやら春の景色に変わっていました。暦の上でしか季節を区切ることができない都会では絶対に味わえない季節の移ろいです。一週間後、下山することにしました。

週末がやってきました。まずは、ゴジラさんたちに報告です。“山を下ります。色々ありがとうございました!” と私から声をかけました。すると、O氏 が、“K氏、ご苦労さん!” と言って写真の 「スイスアーミーナイフ」を私にプレゼントしてくれました。

ゴジラさんたちは、毎年やってくるアルバイトの精勤に対して記念品を贈っているようで、今年は 「THANKS!」 とプリントされた 「オリジナルトレーナー(メンバー全員の名前入り)」 が贈られました。

そして、そのアルバイトのうち、「ベストアルバイト賞」 というのがあり、もう一品記念品を贈っている(毎年あるとは限らないそうですが ・・・)そうです。その今年の 「ベストアルバイト賞」 を私が戴きました。

“ありがとうございます!”( アーミーナイフの裏面には “G” の刻印が ・・・!)それ以外にも、メンバーご愛用のキャップやサングラスも特別に戴きました。

お別れです!旅館の皆さんに挨拶をしていると、アツいものが込み上げてきました。涙もろい性格ですので、ちゃんと皆さんの顔を見ることができませんでした。“ありがとうございました!また必ず来ます!” という言葉しか言えず ・・・ 。

岡山まで O氏 が送ってくれるというので、車に便乗されて戴きました。結局、O氏 の自宅に一泊することに ・・・ 。夜中まで色々語り合いました。O氏 は、自宅で寝る時もシュラフです。私も一つ借りてシュラフで寝ます。

朝、目が覚めて私が起きようとすると、O氏 が目を瞑ったまま私に “直ぐに起きたらいかん!10分ほど寝袋の中で幸せを確認しないと ・・・ ” と言いました。私は言われたとおり “幸せの確認” をしました。自分の幸せより、人への “感謝” が脳裏に浮かんできました。

とりあえず、実家へ2~3日帰って、両親に “感謝” を表したあと、大阪に出ることにしました。この数ヶ月で出逢った全ての人と起こった全ての出来事に “感謝” です。

ありがとう! THANKS!


■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山① 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山② 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山③ 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山④ 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山⑤ 】


アルバイトアンクル 【 鳥取大山③ 】

2008年01月06日 | 昭和懐古


さて、休憩時間です。

“ゴジラさんたち” とゲレンデで遊びます!
今日は何をするのか ・・・





旅館の女将さんや旦那さんが “ゴジラさんたち” と呼んでいましたので、ここからは、この怪しいグループを 「ゴジラさんたち」 と私も表現したいと思います。写真右に単独で写っているのは私の25年前の雄姿?ですが、左の写真が 「ゴジラさんたち」 です。もちろん、こちらも25年前の姿ですよ。

ピンクのシャツ姿の方がリーダー O氏 で、当時40歳過ぎだったと記憶していますので、現在、65歳にはなられているのでしょうか ・・・ 。遊び心たっぷりのデザイナーさんで、この山での遊びも色々と提案されていました。

チーム名の 「ゴジラ」 のスペルが正解かどうか記憶が定かではありません。スカイは間違いなく 「SKY」 で 「SKI」 ではありません。空も飛んでいるのかと思い聞いたところ、「SKI」 で印刷物を依頼したところ、間違って 「SKY」 となって納品されたらしく、やり直しを言うのも面倒なので、その間違ったままの名前が正式なチーム名になってしまったとか ・・・ ( ここら辺りにも遊び心を感じてしまいます )。

このゴジラさんたちのスゴイのは、周りを明るくして楽しませるのは当然ですが、“やればできる!” で周りを巻き込んで行動までさせてしまうパワーがあるところなんです。私もその被害者?の一人でした。実は私、大山が初めての 「山」 。

当たり前ですが、スキーなんぞやったことはございません。もちろん、スポーツは大好きで運動神経はそれなりにありましたので、この機会にスキーはやってみる気ではいたのですが ・・・ 

いきなりでした!リーダーの O氏が私に “K氏、一緒に滑りに行こう!” と声を掛けてきたかと思うと、その週末に来ていないメンバーの板と靴を持ってきて、私の足にいきなりセッティングしてしまったのです。

ここまでなら世間でよくある話かもしれません。 しかし ・・・旅館を出ると、ゲレンデリフトのある方向とは逆に、参道を登り始めました。パラレルすらできない私は、直滑降スタイルのまま横を向き、蟹歩きでゆっくり登るしかありません。途中からは獣道のような細い山道を潜り抜けて行きます。

途中、段差やカーブがあり、私は何度も転倒、コースアウトを繰り返しました。出発から何分くらい掛かったでしょうか?何とか目的地のゲレンデ中腹に出ることができました。

しかし、ここからが本当の難関です。もう一度言いますが、私は初めてスキーをしています。今までは、登りと緩やかなカーブでした。そして、周りにはゴジラさんたちだけでしたので、そう迷惑は掛かりませんでしたが ・・・

“ほんとにここから滑るんですか?” という私の悲痛な質問すら受け流して、ゴジラさんたちは下のロッジに向かってサッサと滑って行ったのです。私は開き直り、直滑降で滑り始めました。止まりません!ヤバイ状態です。

とその時、ゴジラさんたちから “こけろ!” “ころがれ!” と声が掛かります。“ああ、こければいいんや。” と納得したのですが・・・ こけ方がワカリマセン!スピードがどんどん加速して本当にヤバイです。

目の前に私と同じレベルのおばさんがこけています。このまま行くと確実に人身事故です。思い切って私は横に飛びました。 ・・・ 何とか止まりました。( 良かった! )

“無茶してるな~” とメンバーから言われました。( 無茶させてるのは誰 ??? )これが私のスキー初体験でした。“やればできる!” をカラダをもって体感したということにしておきましょうか。

私がロッジについた頃には、同じアルバイトの S嬢(奈良の19歳大学生)もバギーに乗せてもらってやって来て総勢8名が合流です。さて、ここからはスキーやバギーを使ってゲーム開始?です。(珈琲が懸かっています!)





25年前(80年代)に、シャツやトレーナーにジーンズという軽装で春スキーを楽しんでいます。今の時代ならショートスキーも遊びグッズとしては当たり前でしょうが、2m前後のロング板全盛の時代に、「HELLY HANSEN」 の160cmショートの白いスキー板を選択し、ゲレンデに現れたメンバーは凄いです。

それから、発売されたばかりの 「三輪バギー」(ホンダのATC110) に乗って遊びまわる 「ちょいワル兄ちゃん?」 は、今の時代でも十分通用するはず。その時、私は真剣に思いました。“こんな 30代 40代 になりたい!” と。影響を受けない方がおかしいです!

私に強烈な印象を残したあそび集団は、春には色違いの 「Vespa」 でツーリング、皆がそれぞれ持っているお気に入りの「Zippo」、自分たちで旅館に持ち込んだ「L.L.Been」 柄のカバーの付いたコタツ、そして、「アメリカン」 の程よい豆香が漂う珈琲メーカーからカップに注いだたっぷりの珈琲をブラックのまま啜り、寝る時は布団ではなく、もっぱら 「シュラフ(寝袋)」 を愛好するメンバーたち。( 朝一、私が部屋を覗くと、何と 「芋虫集団」 に ・・・ 。)



    HONDA ATC110                ZIPPO

ゴジラさんたちはほとんどお酒は飲みませんでした。ビールくらいは飲んでいる人はいたかもしれませんが、“真剣に遊ぶ” が大前提のようで、最大限、時間を有効に使っているようにも見えました。

そんなゴジラさんたちの部屋でウイスキーのボトルを1本発見しました。○トリーホワイトの瓶です。“へぇ~、ウイスキー飲むんや ・・・ ” と思いながら、私が何気にキャップを開けた瞬間、何とも表現がし難い悪臭が立ち込めました。

“腐ってる!” と私は思い、ボトルをマジマジともう一度見直しました。すると、ボトルの中に何やら黒い物体が ・・・ それは 「カメムシ」 という虫の屍骸でした。

山にはカメムシがたくさんいて、部屋の中に入ってきては悪臭を放つので、ゴジラさんたちは捕まえては、こうして瓶詰めにしていたそうです。( 今シーズンは多いとか少ないとかを “虫容量” でチェック!・・・? )

このアルバイト、まだまだ何か起こりそうな予感が ・・・ 。(つづく)

■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山① 】
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■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山③ 】
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■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山⑤ 】


アルバイトアンクル 【 鳥取大山② 】

2008年01月06日 | 昭和懐古

続々とスキー板を抱えたお客様(スキーヤー)が入館してきます。

この宿は常連のお客様が多いようで、旅館の方との挨拶やお客様同士の再会の挨拶があちこちで行なわれています。玄関エントランスに置かれたストーブの周りには自然と人だかりができていました。かと思えば、荷物を置くと同時に即行でゲレンデに向かうツワモノもいらっしゃいます。




 

入館されたお客様を部屋へご案内、食事(朝・昼・晩)の用意と片付け、施設の説明や案内、貸しスキーの管理業務、お風呂やトイレの清掃、布団のメイキング、チェックアウト後の部屋の清掃、館内の共用部分の清掃などなど、アルバイトの仕事は後から後から湧いてきます。

朝5時過ぎに起床して仕事が始まり、夜0時前後には就寝できるスケジュールだったと思います。その日の状態にもよりますが、3食付いてお昼から夕方にかけて2時間ほど自由時間もありましたので、私にはさほど過酷な状態ではありませんでした。

常にカラダを動かしながら次のスケジュールへとシフトできるという点では、自分向きでしたし健康的で規則正しい生活リズムになったことは間違いありません。一日の中で場所や仕事内容が変わることは、超のつく飽き性の私にとってはストレスの溜まらない好条件の環境だったとも言えます。

そして、仕事面で一番やりがいを感じたのは、自分たちで仕事の組み立てができたということでした。はじめに、「絶対にしなければならない事」 と 「絶対にしてはいけない事」 は教えられますが、それ以外は、それぞれで判断して行動しなさいという風土(学校でいう校風、会社でいう社風)がありました。

もっと言えば、誰かがリーダーシップを発揮しないと、仕事が纏まらない進まないという状態に必ず直面します。限りなく(放任ではない)自由主義で、限りなく全体の行動責任が問われる環境でした。これが私の仕事観を変えるキッカケになったのだと思います。

言われる前にやってみる。本当に困った時には聞けばいい( HELP US!)。と思えたのは人間関係含めた環境のせいだったのではないでしょうか。女将さんやおばちゃんたちに教えてもらった作業を自分なりに組み立て直し、優先を外さないように順番を変更したり、作業を取りまとめて分担(分業)制にして効率化を図りました。

例えば、部屋のメイキングや掃除は、おばちゃん個々が割り当てられた部屋をそれぞれ担当して、一人で全ての作業を完結していたのですが、それを分業化し効率を高めました。もちろん、同じアルバイトですので、役割は毎日ローテーションします。

ただし、ルールとして、自分の前に行なった作業に不備があった場合は、その場でしっかりとフォロー、あとで本人には直接その不備を伝えるようにしました。( 良い人間関係の構築に外せない部分です! )

3日目には、年齢もあるのでしょうが、私がアルバイトのリーダー的な存在になっていました。私は本来、自ら上に立ちたいタイプではないのですが ・・・ 。

しかし、いつも真剣に取り組むとのめり込み、そういう状態になることがあります。そして、必ずといっていいほど周りに勘違いや誤解が起こります。

特に、派閥争いのような現象が起こり、敵対視する者が出てきたりします。そういう状況になると、私はスーッと冷めてしまい、全くリーダーシップを発揮しなくなる意固地な部分もあります。学生時代(クラス委員や部活リーダーで)嫌というほどそういう経験をしていたので、それだけは避けなければなりません。

勘は当たりました。少しそうした傾向が見え始めた者が現れました。適材適所でオペレーションすれば、もっと効率が上がるのに ・・・ という考えでした。私の考えではまだ無駄があるという見方だったのでしょうね。確かにそうです。

しかし、ここへアルバイトに来ているメンバーのほとんどは、たくさんのお金や追求した生産性を求めているわけではありません。私は皆で取り組んで無駄が減った分、個々の時間に充てたかっただけです。

お客様の満足度を下げないように、また、旅館の方針をけっして曲げないで、且つ、スタッフのトライに対する達成感と有意義な時間を作りたかっただけです。
( 何と言っても、皆が笑顔で働ける環境がBEST!なのではないでしょうか )

私は時間を掛けることにしました。私の考えで動かしていた部分をすべて0(ゼロ)に戻して、その本人に任せることにしました。そして、私は実行とフォロー役にまわりました。

それから何度か意見はぶつかったのですが、約1ヶ月後にはお互いの信頼関係(必要性)は築けたと思います。真剣に “(その環境を)良くしたい” とか “(お客様の満足のために)貢献したい” といった共通認識がある限り、人は解り合えるものだとも感じました。

その実践をこの環境でできたことは、これまた貴重で大きな財産になりました。


↓共用廊下を掃除している途中、“旅館内に 「怪しい部屋」 発見!” です。




ここは屋根裏部屋です。(最上階の押入れの扉を開けると秘密の階段が・・・)しかし、れっきとしたお客様の部屋なのです。とはいっても普通のお客様ではなく、常連?の遊びグループがシーズン中借り切っている特別の部屋だったのです。

“週末の真夜中、音を立てずにヤツらはやって来る!” (少し音はしますが ・・・)
岡山や広島から集まってくる遊び大好きなグループです。
「ゴジラスカイクラブ」 という名で、30~40歳代が中心の12~13名のチーム?でした。

私より一回り以上年上の人がメインだったですが、とんでもなく楽しくて元気な方々の集まりでした。私は直ぐに意気投合し(完全にハマリました!)、週末の夜中になると屋根裏部屋へお邪魔をして一緒に遊ばせてもらいました。真夜中に他愛もない話をするのですが、真剣に楽しませてくれる空気がありました。

もちろん、彼らはスキーをしに来ているのですが、“スキーも含めて山で楽しもう!” 精神に溢れた面々でした。いつも笑顔で、いつもパワフルで、輝いていました。20歳過ぎの私から見て “こんなオッサンなかなかおらんよ!” というレベルでした。週末は完全に寝不足、週明けにはフラフラ状態で仕事をしていました。(つづく)


■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山① 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山② 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山③ 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山④ 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山⑤ 】


アルバイトアンクル 【 鳥取大山① 】

2008年01月06日 | 昭和懐古


高校時代から色々とアルバイトをしてきました。

窮めつけは、大学受験に失敗し、それから3年ほどは定職にも就かず、様々なジャンルの仕事をフリーで渡り歩くアルバイト生活をしていた時代がありました。いわゆる、今の “フリーターの走り” だったかもしれません。

アパートの表札に 「ALBITE UNCLE」 という肩書き?を自身で付けるというその時代には何とも外れた怪しいヤツであったことは確かです。

鳥取大山(だいせん)の旅館(宿坊)でアルバイトをした経験があります。もう、25年くらい前の話ですが、その時の記憶は昨日のことのように鮮明です。





その頃、家業(潜水工事業)を手伝っていたのですが、どうも性に合わず、親父に本心を話して家を出ることにしました。 どうせ家を出るのなら ・・・ “今までとは全く違う環境で働き生活してみたい!” と考え、四国・九州・関西とどこに移っても、いつも 「海」 の近くで生活していた私は、憧れまではないものの「山」 へ行くことにいささか興味を持ち始めていました。

とりあえず、求人雑誌を買い込み職探しを始めました。丁度、冬目前で、スキー場アルバイトの求人がたくさん掲載されていました。その中から、何故か、北海道や信州ではなく、鳥取(大山)にある一軒の旅館(宿坊)の求人が目に止まりました。

何か他とは違う空気を感じたというか、ちょっと怖い話ですが、何か(誰か)に “誘われている” 気がしたのです( 天邪鬼なので待遇条件が一番悪いところが気になったのかも ・・・ )。履歴書を郵送すると、意外と早く電話で採用の返事がありました。( 即採用 !? )

12月22日だったと思います。山陽本線で岡山まで行き、伯備線に乗り換えて米子に向かいました。初めて米子駅に降りたのですが、何度も来ているような錯覚を覚えました。

バスに乗り込み大山へ向かいます。伯備線の途中辺りから寒さを感じていたのですが、夕方、バスを降りて一番上(大山寺に一番近い場所)にある旅館(宿坊)に着いた頃には、完全に悪寒に変わっていました。

女将(若女将)さんが気遣ってくれて、私のためにお風呂を早めに沸かしてくれました。天然ではありませんが、お客様用の大きなお風呂です。1時間以上温まったのですが、何分浸かっていてもなぜか震えが止まりません。

結局、山開き(12/25)を3日後に控えて準備に大忙しの旅館で丸2日間寝込んでしまいました。後でわかったのですが、私の履歴書にある今までのアルバイト経験を見て、女将さんが私だけ先に入山させて用意を手伝わせる予定だったようです。

そういう意味では、完全に期待を裏切り、まったく、役に立たない野郎でした。体調が戻ったのは山開きの前日、他のアルバイトが次々やってきた日でした。それぞれの自己紹介もそこそこに慌しく山開き前日が終わりました。

働くことに関しては、高校時代からしんどい仕事やつらい仕事は数多くこなしてきましたので、少々のことでへばることはありません。つい数日前まで1トン前後の石を相手に力仕事をしていた私が、お客様相手とスタッフ同士の連携がメインの仕事で戸惑うと思いきや、案外スムーズに入っていくことができました。この経験こそが今の仕事を選んだ大きなキッカケになったことは言うまでもありません。

そして、もう一つ強く印象に残っているのは、出会った方々の優しさです。優しいというより、皆が大らかなんですよね。田舎だから ・・・ 確かにそうかもしれませんが、最初からそれ以上の空気感(家族のような一体感)がありました。

旦那さんと女将さん、大旦那に大女将、麓(ふもと)の村からシーズン中だけ手伝いにやって来るおばちゃんたち、そして、初めて会ったアルバイトの面々。すべての人が温かい人間でした。自分が日々変化しているのを感じた数ヶ月でした。この旅館での人との出逢いは私の人生観を大きく変えるものでした。





このシーズンになると未だに毎日、新聞の 「スキー場だより」 が気になります。
クリスマスの頃には積雪が 「0」 でどうなることかと心配しましたが、昨年末からようやく寒波が入り、大山の各ゲレンデも滑走が可能になっているようですね。

この週末も賑わいをみせていることでしょう。山にやって来るお客さん相手に多くの人々が一生懸命に仕事をしています。景気の良し悪しでなく自然現象でその仕事が減るのはやはり辛いものがあります。何とか毎年、スキー客が楽しめるくらいの雪がコンスタントに降ってくれるといいのですが ・・・ 。(つづく)


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夜鳴きそばとザ・ガードマンの関係

2007年12月15日 | 昭和懐古


夜9時30分、
子供は布団に入って寝なければならない時間。





私が幼稚園の頃(昭和40年頃)、
周囲に住んでいた人々がたまたま早寝早起きだったのかもしれないが
子供は早く寝るのが当たり前で、いい大人もそれなりに早寝する時代だった。
朝も大袈裟ではなく皆が新聞配達できるほどの時間に起きていた。特に、
うちの親父はやたら早寝(夜8時頃就寝)早起き(朝3時過ぎ起床)だった。

子供は日が暮れると家へ帰り、大人は夜が明けると目が覚める。
昭和の頃、それが普通だった気もする。親父は仕事から帰ってくると
すぐに風呂に入った。約10分 “カラスの行水” である。風呂から出ると
晩酌をしながら夕食を摂る。晩くても8時には食事が終わり寝床につく。

以前にも語ったが、
当時は8畳一間のバラックでの生活 ・・・ 悪辣な環境であった。
炊事場・風呂場・便所はすべて屋外(家の中には手を洗う水道すら無い)。
それらはそれぞれ違う場所にあり、そこまでは屋根もなく外灯も無い。
雨の日は傘をさして、夜には懐中電灯を持って移動しなければならない
生活環境だった。( もう今はあの生活はできないと思う ・・・ )

我が家の炊事は約15m離れた飯場の炊事場を使っていた。 
炊事場には水道やガス(プロパン)はあるものの、冷蔵庫や電子レンジ
など有るはずもない。当然、冬場に蛇口を捻っても水しか出てこないし
夏場に冷たいものを飲みたいと思っても冷蔵庫は無い。その炊事場で
お袋は朝早くから若い衆と家族の朝食と弁当を作っていた。若い衆の
朝食はその炊事場の大きな台(テーブル)に用意し、家族の分は、毎回
部屋のちゃぶ台まで運んだ。朝も夜もである。今思えば、お袋の家事は
大変だったろう。

子供の私が嫌だったのは、夏夜の暑さと冬夜のトイレだった。当然、
エアコンなど無い。トタン張りの家に真夏の太陽は容赦なく炎熱を届け
夕方の西日が追い討ちをかける。その熱気は夜中まで畳に残っていた。
扇風機も無く、隣接する工場の音と臭いで窓ガラスすら大きくは開けれず
蚊帳(カヤ)と蚊取り線香と団扇(うちわ)で過ごした昭和の夏夜である。
幼い私は我慢ができず、毎晩のように愚図った記憶がある。そのたびに
お袋が団扇で扇いでくれた記憶も ・・・ 。また、冬になると、時々夜中に
トイレに行きたくなることがあった。しかし、行きたくても外は真っ暗。しかも、
トイレには電気(電灯)が無かった。幼稚園の頃の私が一人で行ける状態
ではなく、必ずお袋を起こす。“何で寝る前に行っとけへんかったんや?”
とお袋は小言を云うが、寝る前どころか、冬場は夕食時間には、もう外は
すでに真っ暗だった。夕食前に行ってからずっと我慢をしていたのだ ・・・ 。

こんな状態、今の時代の子供たちには想像できないだろう。
もちろん、私の子供に話してもピンとこないようであった ・・・ 。

その頃、私は夜9時前には寝ていたのだろうか。横で親父も寝ていたかも
しれないが、一間(2畳の布団部屋が別にあったが物で一杯)しかない家で
子供を寝かすために早寝していて親父の早寝が癖になったのか、それとも
仕事が朝早いので元々早く寝ていたのかは定かではない。
( ただ、76歳になった今でも親父は早寝早起きであるが ・・・ )
 
そんな親父も週に一度、少し遅くまで起きている日があった。 
たぶん金曜日の9時半から放送されていた 『ザ・ガードマン』 のある日。
高倉キャップ(宇津井健)率いる東京パトロールという会社(現セコムがモデル)
を舞台に犯罪と事件から市民を守るガードマンたちの奮闘を描いた作品。
当時はまだ発展途上だった警備保障会社をテーマにしたドラマで、主人公
たち7人のチームは制服でなく私服で広範囲に行動するという内容だった。

私は寝たフリをして布団の中から薄目を開けて見ていた。何故か、
ワクワクドキドキしたものだ。それはサスペンスの部分ではなく、大人の
俳優陣のシブい顔つきや海外ロケでの外国(特に冬の欧州)の風景、
あるいはCM(サントリーウイスキー)が大人世界の雰囲気を醸していたのを
こっそりのぞき見しているという罪悪感にも似たスリルだったかもしれない。
今でも “ボンボン シュビッ シュビッダバァ~♪ ドュダッ ダッ ダ~バワァ~
ウ~ッ ウォ~ッ♪” というCMソングのメロディーが脳裏を離れない。





丁度、
部屋の電気(照明)を消して私が寝たフリをしてガードマンが始まる
9時半前になると、遠くから “ちゃらり~らら♪ちゃらりららら~っ♪”
とチャルメラの音色が聞こえてくる。そして、段々近づいてくるのです。
きまってその時間帯にやって来る。(週に2~3日来ていたと思う)
そうです! 「夜鳴きそば」 の屋台のおっちゃんです。

親父が云います。 “おい、そば食べるか?”
私は寝ていたような顔をしつつ答えます。 “うっ、うん!”
お袋が云います。 “もう夜中やのに ・・・ ほんまに食べるの?”
結局、パジャマの上に袢纏を羽織りお袋と買いに出ます。
家の鉢をおっちゃんに渡し、“二つちょうだい!”
鉢を持っていた手が冷たく、口に当ててフーッと息を吹きかけると
蒸気機関車の煙のように真っ白に広がります。それを見て
おっちゃんが云います。 “できたら、家へ持っていきまっさ!”





冬の夜は、この 「夜鳴きそば」 に限ります。

私の中では、
イメージとして、昭和の風情として、チャルメラを吹きつつ
このリヤカータイプでやってくる 「夜鳴きそば 」 こそが屋台でした。
そして、
「ザ・ガードマン」 を堂々と見れる唯一の言い訳でもあったのです。

今なら、
究極の美味しいラーメン屋さんがあります。
また、ウソみたいにお洒落なラーメン屋さんもあります。
オールナイトや車で移動するラーメン屋さんもあります。
チャルメラも録音していい音でオーディオから流れてきます。

豊富で便利な時代ですが、何となく寂しいと感じるのは、
私と同年代以上の方々でしょうか ・・・ 。


ALWAYS 続・三丁目の夕日

2007年11月07日 | 昭和懐古


日曜日に 『 ALWAYS 続・三丁目の夕日 』 を観て来ました。






一作目も見たのですが、
丁度、私が生まれた頃の時代背景が舞台となっている
ということもあり、一作目は懐かしさに浸りました。

さて、今回は ・・・ 一作目が良かったのもあったのですが、
実は、晴れた日が多いことで知られている 11/3 が結婚記念日!
たまたま私が 3日は仕事だったので、4日になりましたが、
そのお祝い?を兼ねて、嫁さんとデート?ということになりました。

21回目の記念日です。昔は特に何もなく(プレゼントも無し)
スルーしていたのですが、大きくなった子供たちが放った余計な
一言 ・・・ “二人でデートして来たら!” に 即、反応する嫁さん。
( これってどうなん ??? )

嫁さんから
 “どっか行く?”
・・・ 顔が引きつりながら
 “ええよ。”
・・・ と答えるしかない私。

映画やったら時間も潰れるし ・・・ と言う訳で。
( まあ、一作目のその後の展開も気になってたし ・・・ 。 )




















内容としては、最初の特撮はやりすぎですが、
前作から時間が経っていないこともあり、それぞれの役の空気感が
変わることなく発揮されていて、スムーズに映画に入っていけた気がします。
驚いたのは、鈴木オートの一平くん(息子役)が子役として成長していて、
物語に良い意味でリアリティーが増していたことが印象に残りましたね。
それから、一作目より一場面の描写に昭和を出そう出そうとせず、
ストーリーを大事にしている印象があり、それで一層、昭和をスムーズに
懐古できたように思います。色んな批評があるでしょうが、時代背景を
素直に懐かしみながら楽しんでほしい映画です。

私たちの隣に座っていたのは若いカップルでした。(割と多かった)
この映画、昭和を知らない若い世代にはどう映ったのでしょうか?





デジャヴな記憶

2007年10月19日 | 昭和懐古


気になっていた映画 「デジャヴ」 を観ました。

但し、映画館でなくレンタルDVD ・・・ どうも、昔から “映画館” が苦手。
小さい頃、夏休みの子供映画祭り?とかに連れて行ってもらった時、
たぶん、すし詰め状態だった映画館の空気にトラウマができてしまった
のだと思います。熱気ムンムン狭い座席で隣の人に気を使いながら暗い
館内で皆がスクリーンに向かって同じ姿勢で1時間以上じっとしている
閉塞感が堪らない ・・・ 。

映画自体は非常に好きです。特に、洋画でサスペンスものを観ることが
多いのですが、最近のシネコンなどではネット予約もできますし、大きな
箱(劇場)ではなく、小さめの箱で座席も比較的ゆったりとしてきましたので
映画館に行く回数も増えました。ただ、わざわざ行くのが億劫で、レンタル
(DVD)で済ますことが多いのは事実ですが ・・・ 。




       『 DEJAVU (デジャヴ) 』

個人的に好きなタイプの俳優デンゼル・ワシントン(ダグ・カーリン役)
主役の映画ですが、ストーリーや映画の出来映えよりも 「デジャヴ」
という現象に興味がありレンタルしました。

「デジャヴ(既視感)」 とは、
実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことの
ように感じることである。と辞書にはあるのですが、私は子供の頃、
よくこの現象を体感していました。“よく” というより “しょっちゅう”、この
場面に見覚えがあるという感覚に襲われ、夢で見たのか?と自問自答
しながらも子供心に、夢ではなく体験しているという変な確信があったのです。
そういう不思議な感覚で過ごしていた時期がありました。

辞書によると、
既視感は統合失調症の発病の初期や、側頭葉癲癇の症状として多く
現れることがあるが、健全な人に多発することも稀ではなく、一般的な
感覚である。とあります。当時、私には思い当たる節があります。

小2の冬、朝、パンを買うために家の前の産業道路を渡っていてバイクに
撥ねられたのです。後で聞いた話では、5mほど飛ばされたらしく、その上、
運の悪いことに、側道に転がっていた大きな石に頭から落ち、その石の
角に左側頭部がめり込み血まみれになって救急車で運ばれたようです。
病院で意識が戻ったのは2日後だったようです。

それから1年間は常に頭がボーッとしていて、人が話している言葉や
内容の理解が全くできず(聞き取れない・頭に入らない)、また時々、
歩いていて平衡感覚を失うこともあり、幼かったこともあるのでしょうが、
不安と恐怖の中で過ごした1年余りだったように思います。そして、普通の
状態にどういう経過を辿っていつ戻っていったのかは憶えていませんが、
ある日、母親から声を掛けられ気づいたのですが ・・・ 私の左耳は完全に
聴力を失っていました。それまでは耳が聞こえないことすら気づかなかった
状態だったということです。

この事故の後、頻繁に 「デジャヴ」 を体感することになるのですが、
特に、“このまま続けるとこうなる” といった予知的な感覚も生まれ、危険
回避という意味では役立ちました。この事故との因果関係は不明ですが、
その交通事故で三半規管がダメージを受けて聴力を失い、脳に障害が
残っても不思議ではなかった。という事実を大人になって理解できた時、
より大きな恐怖心が私を襲ったことも事実です。

私の中で一番の 「デジャヴ」 な記憶は、
冬の朝、道路を渡ってパンを買いに行き、そのパンを食べてから
いつものように友達と学校へ行くというものだったのかもしれません。


宝物は不良品のビー玉

2007年10月10日 | 昭和懐古


先日、意味なく 「ビー玉」 を買った。
なぜか、懐かしさをお金で買ったという罪悪感に襲われた ・・・





私が友達と遊んだのは、昭和40年代前半から中盤頃だった。
当時、私たちの地域では 「ビーダン」 と呼んでいた。男子しか
しない遊びだったが、今思えば、女子の中にもやってみたいと
羨ましく見ていた子はいたのだろうか?
まあ、そんなことはどうでもいいが、今の子供はこの遊びを
知っているのだろうか ・・・ ?

当時は、
ポケットにビー玉5~6個持って、どこへ行っても土があれば穴を掘り
ゲーム開始!だった。(一応、勝ったらもらえて負けたら渡すルール)
道端でも、家の庭でも、学校の校庭でも、どこでも穴を掘って ・・・
雨が降って泥だらけになっても、雨水で穴に水溜りができても
夢中で遊んでましたね。

私たちより上の世代では、ラムネ瓶をわざわざ割って、
中に入っているビー玉を取り出して遊んでいたとかいないとか ・・・
私たちの時代には、もう色々なパターンのビー玉が売られていました。
グリーンやブルーの透明のものがベースでしたが、中に花びら模様が
入ったリーフ玉、白の飴玉のようなミルク玉などがありました。

今のおもちゃも同じだと思いますが、人気の優劣があり、一番人気は
マーブル模様のミルク玉でした。(但し、綺麗なものほど壊れやすい!) 
今の時代のように皆が何でも買ってもらえる時代ではなく、特に、
おもちゃは簡単に買ってもらえるものではありませんでした。ですから、
ゲームに勝って奪い取る?ことに集中していたのかもしれませんね。
楽しいというより、子供なりに必死だった記憶が ・・・ 。

私のお気に入りは、
濃いグリーン(ほとんど黒)でど真ん中に小さな気泡のあるヤツで
いつもポケットに ・・・ もちろん、これは不良品だったのでしょうね。
まあ、不良品であろうが、誰も持ってないコイツは自慢の宝物です。
それが強ければ尚更です。なぜか、手先を使う遊びは得意だった私。
ビー玉も最高200個くらいになっただろうか ・・・ 一度も買った記憶がない。
大きな箱に入れて隠しておいたが、お袋に見つかり(家が狭かったので)、
“そんなよーさんいらんやろ?捨てて来いよ!” と言われるたびに
“全部いるねん!” と泣きながら抵抗した記憶が ・・・ 。

昭和の遊びを想い出すたびに、当時の情景や友達の顔が鮮明に蘇る。
そして、童心に戻った自分の心が人の温かさを求めていることに気づく。
こんな時代だからこそ ・・・


【 遊び方 「遊び学の遊邑舎」 さんのHPより 】
http://homepage3.nifty.com/yuuyuu-sya/select/ramune/bidama01.htm


通い詰めた駄菓子屋

2007年09月06日 | 昭和懐古


昔、港町の飯場で暮らしていた幼い頃(3~10歳)、
よく近所の 「お菓子屋(駄菓子屋)」 へ通ったものです。
私世代では 「駄菓子屋」 という言い方が一般的かもしれませんが、
私が育ったこの港町では、何故か 「お菓子屋」 と皆が呼んでました。





家の前の産業道路を越え、貨物列車の線路を渡り、鉄柵を越え
人家の廂間を抜けたところに、この町唯一のお菓子屋はありました。
そこは普通の民家で、玄関の引戸を開けると2畳ほどの土間があり、
その土間から右手にガラス扉のある部屋への上がり口に台を置き、
駄菓子が並べてあり、その向こう側におばあさんが座っているという
お店でした。たしか、「ヤノ商店」 という屋号だったと思いますが、
店前に看板がある訳でもなく、漢字だったかカタカナだったかさえも
記憶にありません。たぶん、苗字が 「やの」 さんだったのでしょうね ・・・。

幼稚園前には、五円玉を握りしめてお菓子を一つ買いに走り、
小学校に上がった頃には、毎日、十円玉を持って 「当てもん」 をやりに
よく通った記憶が蘇ります。ノスタルジックな昭和の想い出なのですが、
今でも鮮明で、しかも、その当時の周囲の情景も併せて思い出せるのは
自分自身も驚きです。特に、色や匂いです。写真に残すと時代背景から
ほとんどがセピアな部分ですが、どこか輝きのある時代でした。

私が好んで買っていたのは ・・・
「糸引き飴」 「セロ巻ラムネ」 「ココアシガレット」 「串カステラ」 「ヨーグル」
「粉末ジュース」 「ウエハー&チョコブラシ」 「サイコロキャラメル」 「笛ガム」
「さくらんぼ餅」 「むぎチョコ」 「カレーあられ」 「すこんぶ」 「スティックゼリー」
「ぬり飴」 「麩菓子」 「コインチョコ」 「黒糖」 「ニッキ」 「ピースラムネ」 等々
ですが、まだまだあり、想い出のお菓子を挙げればキリがありません。
小さなオモチャ(自動車や飛行機のミニチュアなど)やアニメのシール(鉄人
28号、狼少年ケン・・・)などのおまけ付きのものや 「当てもん」 が目的で
お菓子屋へ通い詰める毎日でした。

そんな時代のその頃、そこそこハマッていたのが、「型抜き」 です。
今でもお祭りの屋台などで出しているところがあるかもしれませんが、
少し硬めのガムのような素材(餅粉と砂糖)で電車の切符のような形をしていて
食べられます。表面に絵柄(飛行機やペンギンなど)が少し彫りこまれていて、
その形を壊さず抜けたらその絵柄に応じた景品がもらえるというものでした。
一つ買って、友達と一緒に空き地に転がっていたドカン(土管)の上で必死
になってよくやりました。冬場、しもやけになりかけた手や鼻水をすすって
汚れた手で、ちょっとずつちょっとずつ壊していきます。まず、直線ラインの
簡単な部分は勢いよく “パキッ” と割り、取れていらない部分は口へ入れます。
複雑なカーブや小さな凹凸部分は、子供ながらに慎重に割っていきます。
“もうちょい!” “あ~ぁ、割れてしもた”  と大はしゃぎでした。友達が一緒じゃ
ない時は、家へ持って帰ってお袋に縫い針を借りて削りながら抜いていきます。
壊さず抜けたら、即、「ヤノ商店」 へダッシュです!

やっぱり子供の頃は、当たり付きとか何かがもらえるというのは嬉しいもの
ですよね。( まあ、大人になっっても嬉しいですが ・・・  )