人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

東海道中膝車 --府中から藤枝ーー

2020-10-27 14:23:10 | 旅行

再開した東海道中膝車シリーズの第2回目(10月26日)。本日は府中(静岡)から藤枝までの予定です。もし藤枝でまだ元気なら島田宿まで歩こうなどと考えていました。静岡県内は土地勘はありませんので、全く行き当たりばったりの旅です。それでも丸子宿丁子屋のとろろ汁は外せないかと、定休日(木曜日たまに水曜日)と営業時間(11時~)は事前に調べました。いつもの藤沢6時56分発に乗れば、静岡着は9時21分。丁子屋までは5キロ位なので店が開く時間にちょうど間に合うと思いつつ歩きました。店に着いたのは11時過ぎでしたがすでに結構客がいました。さすが人気店です。前回同様、最初にお楽しみスポットをこなしますとあとはただ歩くだけです。

さて丸子宿から岡部に行く間に宇津ノ谷峠を通ります。この峠の名前は全く知りませんでしたが、資料では豊臣秀吉の小田原攻めの時に新道を開削し、それが後の東海道になったとか、それ以前は昼なお暗い峠道で、歌舞伎の「蔦紅葉宇都谷峠」の文弥殺しの場面に登場する場所と書いてありました。それよりもこの峠に「明治のトンネル」が残されていることに驚きました。これは別に紹介します。この宇津ノ谷峠の連なる山系に東名高速道路の日本坂トンネルがあると言えば、その険しさが分かりやすいかもしれません。

宇津谷峠を下れば岡部宿。本日は休館でしたが再建されてる本陣跡を通過し、先を急ぎます。ここに着いたのが13時30分過ぎ、いいペースで歩いてきました。この岡部宿から藤枝宿までは9キロ弱の距離なので藤枝に着くのは16時位。これなら島田までいけるかと期待しましたが、藤枝宿に入ってからが長いこと、単調な道をひたすら歩くのは心が萎えます。藤枝の青木五差路に着いたのはほぼ予定通り。藤枝駅まで800mとありましたので、これなら再スタートの負担も少ないと考え、16時32分の東海道線で戻りました。なんとこの電車は静岡17時発の前回と同じ電車。偶然とは言え、自宅に着く時間を考えると、各駅停車を利用した日帰り旅行ではこの時間が限界でしょうか。因みに運賃は藤沢から往復5000円です。

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名残りの富士山

2020-10-25 13:49:37 | 日記

本日(10月21日)の東海道歩きもあと数キロ。静岡県護国神社の近く、静岡鉄道静岡清水線の柚木駅の手前、JR東海道線の地下道を通るために国道1号線の葵区柚木歩道橋を渡らなくてはなりません。歩道橋と言えども疲れた足にはダメージが大きく、手前の横断歩道を渡ればよかったなどと思いつつ、ふと歩いて来た方向に目を向けますと、富士山がドーン。写真の通りです。いつも西の方角にある富士山に見慣れていますので、西日を受けほんのり赤い富士山にちょっと感動しました。これから先の東海道歩きであと何回見れるかと思うと、名残りの富士山でした。

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興津の清見寺

2020-10-25 12:59:47 | 日記

さて10月21日の東海道歩きの旅でもう一つ。興津にある清見寺を紹介します。薩埵峠を下り、興津川を渡った先に清見寺(せいけんじ)はあります。名前の由来は、7世紀の飛鳥時代の頃、ここに清見関(きよみがせき)という関所があったことによります。当時は蝦夷地との境がこのあたりだったのでしょうか?興津川、薩埵山という交通の難所の手前に設けられました。

寺の由緒によれば、室町時代には足利尊氏が深く当寺を崇敬し、山頂に利生塔を建て戦没者の霊を慰めたと言われています。また徳川家康が今川氏の人質となり駿府にいた時には、この寺で学問に励んだと言われ、その部屋も残されています。明治時代になると寺域に東海道線が通り、興津港、東海道、山門、東海道線、清見寺本堂という独特の風景を作り出しています。臨済宗妙心寺派の古刹ですが、門前が殺伐とし、何かもったいない気がしてなりませんでした。

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頭をクモの上に出し・・・。

2020-10-23 08:40:44 | 日記

頭を雲の上に出し・・・。から始まる文部省唱歌「ふじの山」は皆さんも一度は口ずさんだことがある歌です。さて薩埵峠で写した1枚。一匹の蜘蛛の上に富士山の山頂が望めます。このクモ君、実にいい場所に居を構えました。毎日富士山を見ながら生きるとは、なんとも羨ましい限りです。何かコズミックな世界を感じませんか?

さて『タオ自然学』(F・カプラ著)に「宇宙的な織物(Cosmic Web)」という言葉が出てきます。私はWebという言葉は蜘蛛の巣と訳した方が、より広がりを感じいいような気がしますが、それはともかく。原子物理学においても古代インド哲学の世界にもこの言葉が使われています。原子物理学者であるW・ハイゼンベルクは次のように語っています。

万物は複雑に入くんだ、現象の織物としてその姿をあらわす。そこではさまざまな種類の結びつきが交錯し、重なりあい、結びつき、またそうすることで、その織物の姿が決定されていく。

またヒンズー教の『ウパニシャッド』に次の詩があります。

天地も、空も、大気も、編み込まれていく。 

そして風も、すべての生命の息吹とともに。

かれは知っている、かれひとりが魂であることを。

あらためて読みましたが、これはまさに薩埵峠に生きるクモ君のための詩ですね。このヒンズー教の考え方は、仏教の『華厳経』にも受けつがれ、その核心には、あらゆるものごとが限りなく複雑な形で作用しあう、相互関係の完全なネットワークという世界像と書いてありました。

やはり富士山はすごい。蜘蛛一匹でこれだけ妄想が広がるとは・・・。投稿した自分も恥ずかしくなりました。

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観応の擾乱 --薩埵山の戦いーー

2020-10-22 16:07:14 | 日記

観応の擾乱とは足利尊氏とその弟足利直義の対立から観応元年(1350)10月から直義が亡くなる観応二年2月まで続いた全国規模の内乱です。その経緯は別の機会に譲るとして、今回はその最後の舞台である薩埵山の戦いを取り上げます。薩埵峠で富士山の雄大な姿をみて感激し、興津方面に下った先に写真にある「舞台」と書かれた案内と白拍子の看板に目がとまりました。

内容は、観応の擾乱の時尊氏は長引く薩埵山の合戦の合間に此の地に舞台を設け愛妾の萬城姫(京の白拍子)が舞を舞い軍属兵士の慰労の宴を開いたとされる。村人は此の地を舞台と名づけた。なお尊氏は厳しい戦況のため姫をこの土地の名主に預け直義軍を追って東征する。その後姫はこの地に永住することとなる。また萬城姫の舞を「萬城の舞」ともいい「マンジョウマエ」(萬千代前)の地名も近くに残っている(水土里の会)。というものです。

薩埵峠にも薩埵山の合戦の案内があり、この山一帯が合戦の場であったようです。『観応の擾乱』(亀田俊和著)にこの薩埵山の戦いのことが書かれた箇所がありました。

観応二年(1351)十一月二六日、尊氏軍は遠江国掛川まで進出した。二九日には駿河国薩埵山に到着し、ここに籠城した。・・・。『太平記』によれば、薩埵山に籠城する尊氏軍三〇〇〇騎あまりを、直義軍五〇万騎が包囲したという。例によって『太平記』の誇張であるが、この箇所は特に極端である。・・・。また薩埵山包囲戦の最中、直義は伊豆国府から一歩も動かなかった。・・・。下野・武蔵勢の接近により、薩埵山を包囲していた直義軍は崩壊した。薩埵山に籠城していた尊氏派の仁木義長隊が伊豆国府に接近したため、直義は一戦も交えずに同国北条に撤退した。

その翌年の正平七年(1352)二月二六日に直義は鎌倉でなくなりました。直義擁護派の私としては、なんとも情けない顛末で残念なのですが、東海道歩きの旅で縁の地を見つけたことで良しとすることにしました。

やはりフィールドワークは必要です。歩いてみなければ発見はありませんね。

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