人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉の寺社 ーー 壽福寺と栄西 ーー

2016-04-22 20:29:28 | 日記

鎌倉駅西口を出て今小路を東に向かって暫らく歩くと壽福寺に着きます。臨済宗のお寺で亀谷山壽福金剛禅寺と言います。1200年(正治二年)、北条政子(開基は源頼家)が栄西を招いて開山しました。壽福寺のあるこの土地は源頼朝の父である義朝の「鎌倉の館」があったところで源氏にとって大変重要な場所です。政子は頼朝の一周忌にこの場所を選び壽福寺を創建した訳ですから、開山のために招いた栄西に対する信頼度は非常に大きかったと思われます。

この栄西(1141-1215)ですが日本臨済宗の開祖として有名なお坊さんです。28歳と47歳の時に二度も宋に渡り臨済禅をもたらしました。1191年に帰国後、京都での布教は比叡山宗徒の反対あい叶いませんでしたが、1198年に『興禅護国論』を著し、ようやく禅宗の創唱を朝廷に奏上し勅許を得ることができました。たぶん鎌倉幕府の強い後ろ盾がなければ勅許を得られなかったと思われます。実際1202年に京都に栄西の開山で建仁寺が創建されました。

さてこれからが歴史の教科書にも出てこない私の荒唐無稽な推論となりますので聞き流してください。私の一番の疑問は壽福寺以前、鎌倉には鶴岡八幡宮寺、勝長寿院、永福寺などの官寺があるのに敢えて栄西を厚遇し、壽福寺を創建したのか?戒律の厳しい禅宗が武士の統制に必要だったのか?何か別の目的で栄西を活用したのか?実際、壽福寺は真言・天台・禅の兼学道場として運営されていたようで、栄西も加持祈祷を主にした密教僧としての活動が殆どだったようです。

私は鎌倉幕府、なかでも後に尼将軍と言われる北条政子は宋に留学していた栄西の豊富な知識、特に当時大陸で勢力を伸ばしつつあったモンゴルのことなど国際情勢の知識に興味を持ったのではないかと考えています。『興禅護国論』をみると栄西がインドに旅行する許可を求めたところ、インドに通じる道が蒙古の勢力下にあり危険だということで許可されなかったとあります。当時中国に渡る留学僧は殆どおらず、栄西は一級のインテリだったのでしょう。鎌倉幕府は宋との貿易の主導権を握りたかったでしょうし、栄西に対し利用価値があると考えるのは当然のことと思われます。

この栄西がいたこと、栄西が禅宗をもたらしたことが鎌倉幕府にプラスとなるときがきます。その話はまた別の機会に。それまでもっと勉強しておきます。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする