人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

『とはずがたり』 にみる将軍惟康親王罷免の真相は?

2018-08-22 16:07:04 | 日記

鎌倉幕府七代将軍 惟康親王は後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王の子であり文永三年(1266)から正応二年(1289)まで将軍でした。正応二年は『とはずがたり』の作者が鎌倉に下向した年でもあり、惟康親王が将軍職を罷免され罪人の扱いを受け京都に上洛する様子が書かれています。せっかくなので、『問はず語り』(玉井孝助校訂)の「86 惟康親王上洛」の項の要約をそのまま紹介させていただきます。

◇◇ 惟康親王罷職の名目は、親王に異図ありという事になっているが、実は鎌倉における御家人勢力と得宗勢力の軋轢が、京都における持明院統(後深草統)と大覚寺統(亀山統)の対立激化にからみ合った結果、惟康親王はその犠牲になられたものであると思われる。(一部略)御家人と得宗の反目は遂に鎌倉幕府滅亡の要因ともなったのであるが、惟康親王は御家人の尊崇を受けていられたので、これが禍したのである。又一方京都では立太子問題で、後深草・亀山両院の間で不和が生じていたが、作者が鎌倉に下った年、正応二年四月、西園寺実兼は幕府と結んで、二十一日立太子定めの儀を行い、二十一日に伏見天皇第一皇子胤仁親王を東宮とした。失意の亀山院は九月七日に御出家、そしてその十四日に罷職となるのである。代って将軍になられる久明親王は後深草院の皇子であるから、つまり皇統が持明院統に確定した時期に将軍職も同統にという公武合体政策が惟康親王罷職という事件を起こしたものと思われる。 ◇◇

ここに登場する西園寺実兼は『とはずがたり』のなかで雪の曙という名で作者と密会を繰り返す人物です。公武合体の朝廷側の黒幕でもあり、作者の鎌倉下向にも関っていたのは間違いないと思われます。

また鎌倉での動きは、弘安八年(1285)に霜月騒動がおこり、御家人の中心にいた安達泰盛・宗景が内管領平頼綱の攻撃を受け殺害され、安達一族は滅亡しました。さらに永仁元年(1293)には平頼綱が執権北条貞時に殺害される平禅門の乱がおきています。

 

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鎌倉を知る ーー 『とはずがたり』 と極楽寺坂 ーー

2018-08-22 14:03:39 | 日記

極楽寺坂について、司馬遼太郎の『三浦半島記 街道をゆく42』のなかで、「どうも『とはずがたり』の二条尼は、坂の名を取りちがえて記憶していたのではないか、と思った。坂の名を、化粧坂だと思っていたようである。」と書かれています。また『とはずがたり』には、「化粧坂といふ山をこえて鎌倉のかたを見れば、東山にて京を見るにはひきたがへて、きざはしなどのやうに、重々に、ふくろの中に物を入れたようにすまひたる、あな物わびしと、やうやうみえて、心とどまりぬべき心ちもせず。」とあります。しかし私は以前ブログで作者の記憶違いというより、そもそも実際に見える二つの景色に違いがあると考え、結論は持ち越しになっていました。

あらためて岩波文庫の『問はず語り』(玉井孝助校訂)を読んでみますと、八〇 八橋・熱田のところで、「さて熱田から八橋へつづけた道順は逆である。後年の思い出を記したのだから、記憶の誤かも知れないが、しかし作者は道中案内記を書くのが目的でないから、道順など、それほど意にとめず、所々で詠んだ歌を中心にして、その所々の思い出を書き留めたもの、これを記憶の誤などと取りあげるべきではなかろう。」と玉井氏は解説しています。

どうも最近、重箱の隅をつつくようなことに喜びを感じている自分がいるなと・・・反省しきりです。作者の記憶違いは、少しもこの文学の素晴らしさを損ねるものではないと、この一文を読んで納得しました。

写真は、4月8日の極楽寺の花祭りの日に写したもの。普段は境内撮影は禁止ですが、お手伝いの方にお許しいただきました。『とはずがたり』の作者が極楽寺に到着したのは旧暦の三月二十日すぎ。新暦なら四月中頃。ちょうど桜の花も見頃だったかもしれません。

 

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