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人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鶴岡八幡宮 流鏑馬神事

2015-10-09 17:22:15 | 日記
10月4日。鶴岡八幡宮の崇敬者大祭に出席し、流鏑馬神事を見学しました。
この流鏑馬神事は遡ること827年前、源頼朝が1187年(文治三年)に初めて以来、古式ゆかしく営々とと今日まで続いています。頼朝は正しく神事の作法を行うために西行法師に教えを乞うたと言われています。ご存じの通り、西行法師は出家する前は佐藤義清という鳥羽上皇に仕えた北面の武士であり、兵法に通じ、射術に練達していました。平清盛と同い年であり、頼朝とは30歳年上です。1186年、西行法師は東大寺再建費用の砂金勧進のため奥州に行く途中に鶴岡八幡宮に巡礼していたもの。私自身、かねてより西行法師については興味があり、奈良の吉野山や京都の花の寺といわれる勝持寺、待賢門院縁の法金剛院などを訪れていましたので、この説明を聞きましたら、また縁が繋がったとちょっとうれしくなりました。

ところで流鏑馬の馬場は、馬場元(東側)から馬場末(西側)まで254mあり、南側にあるお埒(高さ106㎝)と北側のめ埒(82㎝)の柵の間を駆け抜けます。「埒(が)明く」の意味は物事がはかどる、決まりがつくという意味ですが、流鏑馬の間は埒が閉ざされたままなので、見物人が言った言葉からでているようです。
次に的は一の的、二の的、三の的の三つあり、54.5㎝四方で182㎝の高さに据えられています。命中した矢の数を競いますが、的までの距離は64m弱ですから、射手は走り始めてから数秒の間に矢を番え的めがけて射るわけで、全部の的に命中させるのは至難の業と言えます。

今回の流鏑馬の総奉行は米国のポートランドの方でしたが、堂々とした体格で武者姿がよく似合っていました。またお手伝いの子供も在日大使館の子弟が務め、国際交流の場として非常に良い機会を提供しています。まだ見ていない方は是非ご覧になってください。
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鎌倉国宝館の見どころ

2015-10-09 13:04:34 | 日記
10月4日。鶴岡八幡宮の崇敬者大祭に出かけがてら、鎌倉国宝館を見学しました。
鎌倉国宝館は1923年(大正12年)に起きた関東大震災で鎌倉市は壊滅的被害を受け、数多くの文化財も失われたために、大事な文化財を保護しようと5年後の1928年(昭和3年)に建設されたものです。東大寺の正倉院の校倉造にならった本館は2000年に国の登録有形文化財に指定され、その優美な姿は鶴岡八幡宮の森に溶け込んでいます。ただ残念なのは、その存在が意外に知られていないこと。20年近く住んでいる私自身、今回が2度目の訪問でした。
この時期9月11日から10月18日までは、常設展に加え、「鶴岡八幡宮古神宝」も展示されており、1195年に源頼朝が東大寺から拝領した菩薩面、舞楽面など見ることが出来ました。
写真を撮ることはNGのため、文章だけで展示物を紹介します。
まず、入り口正面には、材木座にある辻薬師堂の薬師三尊と十二神将像が館内中央に展示されています。壁沿いに右回りに、浄智寺の阿弥陀如来立像、地蔵菩薩坐像(重文)。寿福寺の聖観音菩薩坐像。建長寺の千手観音菩薩坐像(重文)、伽藍神坐像(重文)。伝宗庵の地蔵菩薩坐像(重文)。円応寺の倶生神坐像(重文)、初江王坐像(重文)で、この2体は仏師幸有作(1251年)の運慶様式のもの、鬼卒立像(重文)、檀拏幢(重文)。浄智寺の韋駄天立像。円覚寺正統院の明岸正因坐像。宝戒寺の山王権現懸仏。建長寺の前机。椿文笈。壽福寺の地蔵菩薩立像(重文)。建長寺の須弥壇(重文)。円覚寺の前机。伝源頼朝像(複製)。鶴岡八幡宮の古神宝類である菩薩面・舞楽面(重文)、沃懸地杏葉螺鈿太刀など(国宝)、黒漆矢・朱漆弓(国宝)、籬菊螺鈿蒔絵硯箱(国宝)。壽福寺の喫茶養生記(重文)、銅製薬師如来坐像(重文)、十一面観音菩薩坐像(重文)などなど。結構、見応えがありました。

鎌倉市にある仏像では国宝は高徳院の阿弥陀如来坐像(大仏)だけですが、いつ地獄を見るか明日の命さえ分からない武家社会を反映してか、地蔵菩薩坐像や立像が数多く遺されています。仏像には、明日香・奈良時代の十一面観音、平安時代の阿弥陀如来や薬師如来など、その時代の治政者の思いが伝わってきます。どんな思いからこの仏像が遺されているのか考えながら鎌倉を散策するのもいいですね。
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