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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

じじと読む一日一章(マルコ1;1~40)

2008-02-13 23:25:31 | マルコ
2月13日(水)マルコ1;1~40


冒頭に引用されているイザヤ40;3を一緒に読んで
じじに簡単に説明した。


「イスラエルの民族は
 大昔から近隣の大国から侵略され支配されていた。
 エジプト、バビロニア、アッシリア、ペルシャ、ローマ。
 人々はいつか"救い主"が現れて
 自分達を苦しい抑圧された生活から救ってくれる事を
 切実に待ち望んでいたのさ。」


「ほぉ。」


「キリストが生まれる何百年も前から
 神様の言葉は預言者を通して語られていた。
 イザヤは神の言葉を預かって語る預言者の一人。
 イザヤはその時代の独裁者マナセ王によって
 斬首刑で殺されたんだよ。
 マナセにとっては都合の悪い預言で邪魔だったのさ。」

「へぇ。」


「イザヤに預言された救い主がイエス・キリストであると
 私達は信じているんだよ。
 お父さんも洗礼式の時には
 イエス・キリストを救い主と信じますと告白して
 洗礼を受けるんだよ。」


「そうか。なるほど。」


実は数日前、
じじは私にこんな質問をしていた。


「洗礼を受けるには、いくら払えばいいのだ?」


「お父さん洗礼をお金で買えると思ってるの。
 とんでもない誤解だそれは。
 洗礼にお金は要らない。」


「そういう意味ではない。
 しかし何もなしと言う訳にはいかんだろう。
 相場はいくらくらいだ。
 細川ガラシャは百両持って伴天連を訪ねたと
 三浦さんの本に書いてあるぞ。」


「バテレンて・・・・orz
 お金をいくら積んでも洗礼は買えないよ。
 これから生まれて来る赤ん坊が
 僕の出産費用いくら払えばいいですかと聞くのと
 同じくらい変だ。
 献金の意味は牧師先生が後で教えてくれるから
 その時聞いてみなよ。」


じじが洗礼を受けると言い出して、
しばらくこんな会話をしていたのだった。
そこで、マルコ。


悔い改めて洗礼を受ける。


「イザヤの預言では
 救い主が来る前に、
 道を整える者が現れると言われている。
 それがバプテスマのヨハネだよ。
 道を整えるとは、
 人々が罪を心から悔い改めて
 神様に立ち返る事だからね。
 悔い改めて洗礼を受けるって事は、
 そういう意味だよ。」


「ほぉ。」


「つまりお金捧げるんじゃなくて
 悔い改めた魂を捧げないとならないのさ。」


「そうか。」


「イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けた。
 そしたら鳩が飛んで来て留まるみたいに
 聖霊がイエスに降って来て、
 天から父なる神様の声がしたんだと。」


「ほー」


「"あなたは私の愛する子、・・・"
 イエス・キリストは天の父なる神の一人子だよ。」


「・・・」


「お父さん起きてる?」


「ん。」


「洗礼を受けた後、
 イエスは荒れ野で40日間断食して祈って、
 悪魔の誘惑に打ち勝った。」


「へぇ。」


「だからさ、お父さん。
 洗礼を受けて何もかも万々歳ではないのさ。
 誰にでも洗礼を受けた後に試練は来る。
 試練は乗り越えなければならないのさ。」


「そうか。そうだな。」


じじ、感心して頷いてるけど
わかってんのかな本当に。


「で、悔い改めよって言ったバプテスマのヨハネが
 当時の権力者に逮捕されたのさ。
 イエスは宣教活動を始めた。
 弟子達を連れて歩いた。」


「ふぅん。」


「イエスの弟子になった人達は皆、
 貧しい漁師とか軽蔑されてた税金取りとか
 特別に何かの才能があった訳ではないし
 人間的にも信仰的にも優れてた訳ではない、
 貧しい、力の無い目立たない人達ばかりだよ。」


「そうか。」


「それと、
 弟子たちの方から"師匠、弟子入りさせて下せぇ"って
 志願して弟子入りしたのではなかったんだよね。
 イエスの方から一人一人を呼んで、招いた。
 彼らはそのイエスの招きに応えて
 自分の仕事や生活を置いてイエスについて行った。」


「ほぉ。」


「お父さんも招かれてんだよ。
 私達は神様に招かれなかったら
 自分の方から行く事は出来ないのさ。
 お父さんの方から神様を選んだのではなくて
 神様がお父さんを呼んでるのさ。」


「ほぉ。そうか。」


「牧師先生もそうだったって。
 昔、牧師先生が若い頃、
 信仰の道に入ってさらに牧師になる決心をした時、
 親戚皆から猛反対されたんだって。
 だってそうだよね。
 黙ってそのまま働いていれば
 恩給も出ただろうし蓄財も出来たろうし
 出世もしたかも知れない。
 それを全部置いて、
 牧師先生はイエスの招きに従ったんだよ。
 それも決して楽な道程じゃないのね。」


「うーむ・・・」


じじ、考え込んでるぞ。


「イエスはそれから、
 ユダヤ教の教会で説教したりしてたけど、
 今で言う精神病の人や重病人の病気を
 次々に癒したんだって。
 それで人々がたくさん集まって来て騒ぎになった。」


「へぇ。」


「ここでらい病人が出て来るけど
 ここでいうらい病って、
 昔は伝染病医学なんか無くて、
 ユダヤ教の坊さんが医者も兼業していたのさね。
 それで、
 皮膚に現れる異常は天然痘や水疱瘡もハンセン氏病も
 ただの湿疹や水虫も、何でもかんでも十把一絡げに
 一緒くたに"汚れたもの"とされて
 社会からも家族からも追い出されて絶縁された。
 汚れた者に触った者も汚れるとされていたからね。」


「昔は医療と言うものが無かったからなぁ。」


「そうなのさ。
 でもここでイエスは
 自分からこのらい病の人に触ってるよね。
 ここが大事なのさ。
 汚いとか気持ち悪いとか伝染すると言われている病人に
 イエスは自分の方から手を差し伸べて触った。
 そしてこの病人は癒された。
 イエスはそういうお方なのさ。」


「なるほどな。」


「お父さんわからない事とか、何かない?」


「ないなー。」


「感想とかは?」


「いろいろと、
 考えてもなかったな事があるもんだなぁ。」


なんじゃー
そんだけかい。


この後、しばし珈琲を入れ、
近所の菓子屋の一番小さいケーキを切って
じじの誕生祝いをした。


しばらくいろいろ話して
今月中に、日勤の日の仕事帰りは
一緒にマルコを読むために私はじじ宅に通う事とした。
じじは聖書を読む事に対して予想外に意欲的で、
珍しく聞きの体勢に徹している。
牧師先生が来て下さる時は
自分の喋りたい話ばかりべらべらと
牧師先生が口を挟めないほど喋るのに。


今後の日程を立てて勤務表とカレンダーに印をつけた。


2月は今日13から14、15、16、17の5日間、
その後4日間は遅番、夜勤入り、明け、休み。
休みの翌日は日勤なので無理せず。
それからまた21、22、23、24、25の5日間、
その後2日間夜勤の入りと明け、
28の休みは翌日が遅番なので大丈夫、出来る。
29は遅番。
一日1章読むと2月中に10章まで進む。
3月は受難週に有給休暇を4日間消化する。
申請出したけど上司はダメとは言わなかったな。


じじがケーキ食べている間に
主の祈りをA4の紙に大きく手書きした。
食べ終わって珈琲飲んで
再び主の祈り。
最後に感謝の祈りをしてお開き。


がんばろう。

まず、主の祈り(マタイ6;9~13、ルカ11;2~4)

2008-02-13 22:23:34 | 主の祈り
聖書を読む前にお祈りをする。
といっても
じじはまだ祈るという行為にすら馴染んでいない。
どう祈ったらいいかもわからない。
だから、主の祈り。
教会の週報の裏に印刷されているので
一緒に声を出して読んでみた。
使徒信条も読んでみた。


・・・・・(;-_-)・・・


どうもいまいちなんだなこれが。
何故なら印字が小さ過ぎて
じじにとってはルーペを使っても読み難い。
とりあえずA3の紙に手書きしてみた。
今度は読めるみたいだ。


使徒信条も読んでみたけど
じじにとっては難易度高いな。
では、
聖書を読む前と読んだ後に主の祈り。
じじが自分の言葉で
自然に祈る事が出来るようになるまで。


この『主の祈り』は、
祈りを教えて下さいと言った弟子達に、
主イエスが教えてくれた祈りだと説明した。
じじ、やたらと感心していた。

誕生日(箴言16;31)

2008-02-13 12:25:12 | 未分類
白髪は輝く冠、
神に従う道に見出される。(箴言16;31)


今、昼休み。
出勤して来る時に、
今日のじじの誕生日の事を考えていたが
今日の勤務に就くと、
今日分担した私の患者さんの一人も
じじと同じく今日が誕生日だった。
99歳。
白寿だよ。
体は寝たきりだけど
じじよりも全然しっかりしてる。
99年前の日本は一体どんな様子だったんだろ?
今日誕生日のじじが生まれた時、
このお方は21歳の誕生日を迎えていた。
99年の歳月を思うと気が遠くなるであるよ。
しみじみ、
人生いろいろあったろうなぁ。

今日から一緒にマルコを読もう(マルコ1;1)

2008-02-13 08:25:34 | マルコ
天の父なる神に感謝します。
今朝、
父は78歳の誕生日を迎えました。
そして今夜から
仕事の後に時間を設けて
一緒にマルコによる福音書を
父の受洗までに読んで分かち合う事にしました。
主イエス・キリスト、
これからの歩みをお導き下さい。
アーメン。


じじが今年のイースターに洗礼を受ける。
決心は揺るがない様子だ。
読みたい気持ちはあるのだろうが
特大ルーペを手放せない老眼とひどい難聴で
毎週教会に通っていても
誰が何の話をしてるのか
どんな話をしてるのか
じじは全然わからないでいる。
昔私が贈った聖書を大事に持ってはいるが
厚さと文字の細かさで挫折してしまう。


それで
一緒に聖書を読む事にした。
教会の夜の聖書研究会のように輪読して
じじが持っているわからない事や引っかかる事を
引き出して私が調べたり答えたりして
私自身も1年ぶりにマルコを読んで初心に帰ったりして
分かち合いをしようと思った。


これまでに食卓を共に囲む事の殆どなかった、
機能不全な家族の時代を取り戻せるなど甘い期待はない。
信者として求道者に対してすべき最低限度の事を
私もしなければならない。
一緒に祈る事。
一緒に聖書を読む事。
聖書を囲んで話し、分かち合う事。


まずそのためには私が時間を工面する事。
今日から受洗の日まで
一日1章、一日1時間。
マルコを一緒に読む事にした。
私も初心に帰ろう。
初めて聖書を自分で読んだ頃、私は何を考えただろう。


じじ、
誕生日おめでとう。
誕生日に聖書を読み始めるんだね。

良心の糾明(ローマ12;16)

2008-02-12 22:13:49 | ローマ
互いに思いを一つにし、
高ぶらず、
身分の低い人と交わりなさい。
自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。(ローマ12;16)


十戒を読んだ。


自分一人で旧約聖書を読んでいる時には
ぼさっと読んでいると
他人事のように遠くよそよそしいこの十戒。


しかし
ここに引っ越して来た年の暮れに
黙想に立ち寄ったカトリック教会の御聖堂の
オルガンの上に
ぽんと置き忘れられてあった印刷物を手に取って
十戒の一つ一つをしみじみ見直した。


その印刷物、
その教会の共同回心式の式次第だった。
そのカトリック教会では毎年定期的に
共同回心式というのを行うのだそうだ。
式次第を見て感心した。
あんまり感心し、
興味深かったので書き取って備忘録に入れた。
自分を内省する時の手助けとして。


十戒を
より自分自身の実生活に照らし合わせて
より身近に受け止める。
痛いんですけどね。


以下、書き取ったもののうち、
"良心の糾明"の部分をここに紹介する。
読むと痛いよ。


5.反省(良心の糾明)
 高ぶったことを望まず、低いことに甘んじて
                  (ローマ12:16)
 このように、
 聖パウロはキリストについて感想を述べています。
 私達の生き方に金銭がどのくらい重大かを考えると共に、
 低くなられたキリストの問いかけについて
 糾明したいと思います。


『十戒』(出エジプト20;1~17)

1.「わたしは主、あなたの神」
  (わたしをおいて他に神があってはならない。)

 ・私は自分の仕事、財産、
  人の目(自分が人にどう思われているか)などを
  神としていないか?
  このような物事が
  神の代わりに私の生活を支配していないか?

 ・祈りや聖書朗読を通して
  神の啓示を熱心に求めるよりも、
  むしろ神についての自分の理解に満足していないか?

 ・今までオカルト、霊媒に関わったり、
  星占い、手相、人生占い、おまじないなどに
  興味を持った事はないか?

 ・毎日の祈りと聖書朗読を通して
  神の知恵のうちに成長する努力をしてきたか?

 ・家族に神のなさり方について考えるための時間、
  また家族と共に祈るための時間を持っているか?


2.「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」

 ・自分の信仰を実践し実際に生き抜く事をしないで、
  儀式、慣例を堅く守る事によって
  偽善者となってはいないか?

 ・悪態、侮りなどの言葉によって
  神聖を汚す事はなかったか?

 ・会話の中で、
  宗教や教会や神の権威を卑しくする事を狙った
  中傷とか冗談とかに積極的に参加していないか?


3.「安息日に心を留め、これを聖別せよ。」

 ・仕事や雑用に追われる事を自分に許してしまい、
  日曜日を霊的な活動、
  家族との生活としていなかったのではないか?

 ・毎日曜日に御ミサに与っていたか?

 ・典礼に出席し祈る時に、
  主の本当の礼拝を捧げる事をしないで、
  むしろ受動的に遵守する事で自己満足していないか?


4.「あなたの父母を敬え。」

 ・(家族の中の若い者として)
  両親が自分に教えてくれる時、
  両親の言葉を聞き尊敬し、従っているか?

 ・(大人として)
  年取った両親を訪ねたり、世話をしているか?

 ・両親に対して短期間、或いは長期間、
  恨みを抱いていないか?


5.「殺してはならない。」

 ・今までに怒りを以って
  誰かを傷つけようと意図して打った事がないか?

 ・今までに
  会話の中での自分の意見を通して、
  或いは誰かが堕胎するのを積極的に助ける事によって、
  堕胎を支持した事はないか?

 ・薬やアルコールの乱用を通して、
  自分自身或いは他人の命を
  危機にさらした事がないか?

 ・今までに自殺を考えたり、
  自殺を試みた事がなかったか?


6.「姦淫してはならない。」

 ・今までに結婚外の性的行為を行った事がないか?

 ・淫らな考えとか夢想などに心を奪われていないか?

 ・ポルノを読んだり、不潔な映画を見たり
  猥褻な話をした事がないか?


7.「盗んではならない。」

 ・自分のでない物を何か盗んだ事がないか?

 ・税金の支払いや仕事での支出勘定の遵守に反し、
  ごまかした事はないか?

 ・時間を浪費し、自分の給料に見合った仕事をしないで
  雇い主を騙した事はないか?

 ・自分の生活態度は世界の貧しい人々を無視して
  贅沢をしていないか?

 ・ギャンブルや賭けなどで金銭を無駄遣いしたために、
  家族の必要に対して無責任だったり、
  無視した事はないか?


8.「隣人に対して偽証してはならない。」

 ・噂とか悪口を言う仲間に入り、
  他の人の名誉毀損をした事がないか?

 ・他人を助けたいという要望も意図も持たず、
  彼らの失敗や罪などについて話す事で、
  相手の名声を傷つけた事はないか?

 ・他の国民や種族、他宗教の人々に向けて
  偏見や憎しみを持つ事を自分に許した事がないか?


9.「隣人の妻を欲してはならない。」

 ・他人の配偶者に愛情を求めた事がないか?

 ・自分の結婚に対して不貞を考えた事がないか?

 ・全ての状況の中で、
  自分の配偶者の権威を守ってきたか?

 ・自分の家族を心の中で、感情的に又は個人的に
  彼らから距離を置きたいと拒否した事はないか?


10.「隣人のものを一切欲してはならない。」

 ・富、地位、経済的安定などの点で、
  自分と他人を比較する習慣がないか?

 ・他の人々の人格的特質に嫉妬したり、
  他の人々の財産や成功を
  羨ましいと思った事はないか?

 ・自分の家計は整理され、
  自分のものはきちんと管理されているか?

 ・自分の教会を維持するために十分に捧げ、
  貧しい人々のために寛大に与えているか?


・・・・・・orz


痛いな。
自分自身を省みる時にどこがどれほどダメか、
全然ダメダメな自分を自分自身が一番よく知っている。
主よ 憐れんで下さい。

四旬節(ローマ10;10)

2008-02-07 21:42:12 | ローマ
実に、
人は心で信じて義とされ、
口で公に言い表して救われるのです。(ローマ10;10)


今まで書いてなかったが
うちのじじ、
今年のイースターに受洗する決意は揺るがない様子だ。


受洗するという事がどういう事なのか
じじがどこまで自分なりに理解し受け入れているのか
聞き出すまでに時間がかかった。
はっきりした自分の考えを
じじ自身が組み立てて整理し、話す事は難しい。


それはそうだ。
突っ込んで聞く私自身だって
受洗の時にどこまでそれを理解していたか、
受け入れていたか、かなり怪しい。
というよりも全く何もわかっていなかった。
赤ん坊が生まれる時に
自分がこれから生まれるとか生まれたとか
どこまで理解して受け入れているかを問うのと同じ。


私に洗礼を授けて下さった牧師先生が
受洗の後で私に言った。


「何もかもわかってなくて、
 それでいいではないですか。
 一番大切な事だけわかってさえいれば。
 イエス様が
 自分のために十字架で死んだ、
 自分のために甦られた、
 それだけわかっていたら、
 もう十分です。
 他に必要な事は全部後からついてきますよ。」


「私達は
 洗礼を受けて
 キリスト者として完成したのではありません。
 不完全な罪人のまま
 神様からの一方的な憐れみによって救われた。
 私達は一生涯かけて
 キリスト者になっていくんです。」


自分が主なる神をを選んだのではなく
主なる神が自分を選び、招いて下さった。
受洗の当時はそんな次元で物事を考える事など及ばず
ただ教会員の仲間に入ろうとし、祈り、
そのために賛美歌を覚え、
読まずに放ってあった聖書を初めて自分の手で開いた。
その時の事を今になって思う。
私という一人の人間が
キリスト者として生まれ、生きるために
あの人数少ない小さな教会の兄弟姉妹達が
どれほど心を配り、
どれほど影になり日向になってとりなしの祈りを主に捧げ、
どれほどたくさんの苦楽をこの私と分かち合ってくれたかを。


じじ、よかったね。
教会の皆、牧師先生も教会の仲間達も子供達も
じじを家族として受け入れて歓迎してくれている。
じじは生まれてからずっと
家族とか家庭というものの恩恵を
与えられず、受けて来なかった。
これまでもこれからも
あなたは教会の家族皆と共に食卓に招かれ、
分かち合って生きていくんだよ。


昨日の灰の水曜日から四旬節に入った。
キリストがこれから十字架への道を進む、
私達キリスト者は十字架に向かうキリストと共に
自分達それぞれの十字架を背負って進む。
さっき、バス停から電話でじじにそんな話をした。
じじは難聴なので
室内で話をするよりもよく聞こえるらしい。


昨日の灰の水曜日の夜、
これから受洗まで
自分がじじのために祈らなければならない事、
分かち合わなければならない事、
そして自分自身が
これまでに犯した罪、
今犯している罪、
これからも犯すであろう罪の事を思い、祈った。
相応しくない者が福音に与り
この相応しくない手で他者と分かち合う自分の罪の事を
私はずっと考えていた。


これからじじが受洗するまでの間、
無事に復活の日を迎え
洗礼式に主なる神の前に出て
じじが「はい。」というまで
自分が祈らなければならない事を覚え
聖霊の導きを願って祈った。

灰の水曜日(創世記3;19)

2008-02-06 21:16:17 | 未分類
今日は灰の水曜日。
四旬節が始まった。


日勤の後、
会議が終わってすぐバスに乗り、
近所のカトリック教会の聖堂を訪ねた。
灰の水曜日の夕ミサがある筈だと思ったので。
バスの窓から聖堂に灯りが点いているのが見えた。
間に合ってよかった。


私の所属するメノナイト教会では
特にこの日は行事をしないが
教会暦を意識して
個人的に黙想する人はいるかも知れない。


灰の式に出たのは9年ぶりだ。
ここに引っ越して来た翌年の年明けに
その聖堂に度々一人で黙想するうちに
留守番を勤める女性信徒の方と仲良くなった。
その方から灰の水曜日というのがあると誘われて、
初めて参加した。
それ以来9年。


前年の枝の主日に頂いた棕櫚の枝を
教会員達が持ち寄って来て、
集めた枝を燃やして灰を作る。
司祭がその灰を祝福し、
「回心して福音を信じなさい」という言葉を唱えながら
一人ひとりの頭に灰をかける。
回心と償いのわざを促すしるしとして。


その祝別された灰の塊を見る。
自分もいずれこの灰のようになる。
自分はこの灰のように消えて無くなる儚い存在である。
ただ神の慈しみと憐れみによって、
生かされて辛うじて生きている。


ああ
それは本当だ。現実のものだ。
私がこの地上で出会って話したり聞いたり
一緒に食べたり飲んだり歌ったり笑ったりしていた
あの人もこの人も
この世の時を全うした時、
こんな風に灰になって
火葬場の窯の中から出て来た。
私もいつか必ずこのような灰になるのだ。


回心。
自分の弱さと貧しさを認め、
神を仰ぎ見て生きる事。
自分に頼るのではなく
他者に頼るのでもなく
神に信頼して生き始める時、
私達は新しくされる。


「回心して福音を信じなさい」


頭に灰をかけられた後、
しばらく司祭の話した言葉を反芻した。


私達は塵から造られ、塵に帰る。
私達には死んでも帰るべき所がある。
私達を造られたお方の元へ帰る。
私達は罪によって死ぬのであって、
私達が罪を悔い改めて、立ち返って生きる事を
主が望んでおられる。


  悔い改めて福音を信じなさい。
               (マルコ1;15)


  塵にすぎないお前は塵に返る。
               (創世記3;19)


  生きとし生けるものは直ちに息絶え
  人間も塵に返るだろう。
               (ヨブ34;15)


  あなたは人を塵に返し「人の子よ帰れ」と
  仰せになります。
               (詩篇90;3)


  すべてはひとつのところに行く。
  すべては塵から成った。
  すべては塵に返る。
               (コヘレト3;20)


回心。立ち返る。


  主は言われる。
 「今こそ、心からわたしに立ち帰れ。
  断食し、泣き悲しんで。
  衣を裂くのではなく
  お前たちの心を引き裂け。」


  あなたたちの神、主に立ち帰れ。
  主は恵みに満ち、憐れみ深く
  忍耐強く、慈しみに富み
  くだした災いを悔いられるからだ。
  あるいは、主が思い直され
  その後に祝福を残し
  あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を
  残してくださるかも知れない。
                (ヨエル2;12~14)


思うところあって
今日の灰の水曜日に
塵に過ぎない自分と向き合おうと思った。
主なる神の前で。