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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

まず、主の祈り(マタイ6;9~13、ルカ11;2~4)

2008-02-22 22:35:37 | 主の祈り
今日、じじ宅に行くと
じじは既にテーブルに着いて聖書を前に置いていた。
夕方のヘルパーさんがちょうど帰る頃だった。
この人は教会の同行には付かないが、
じじの話をよく聞いてくれて
楽しく盛り上げてくれて話に花が咲く。
じじはおかげでよく笑うようになった。


「洗礼を受けたいと言うので
 先日から一緒にお祈りを覚えたり
 聖書読んだりしてるんですよ。」


「へぇ~すごいですねぇ。」


じじ、
ヘルパーのリアクションに
俄然やる気満々の顔つきをしている。


・・・・・・┐( `_´)┌ =3


そのおかげか、
今日の主の祈りはやたらと流暢だぜ。

じじと読む一日一章(マルコ5;35~43)

2008-02-21 22:59:24 | マルコ
2月21日(木)マルコ5;35~43


服に触った女の所で足止めされているうちに、
行こうとしていた先の
会堂長ヤイロの娘が死んだという知らせが来た。


「恐れることはない。
 ただ信じなさい。」


じじ、
首をかしげている。


「イエスがその家に行くと、
 子供が死んだので皆して泣いてたのさ。
 イエスは泣いている人達に、
 "子供は死んだのではない、眠っているだけだ"と言った。
 そしたら皆して嘲笑ったんだと。」


「そうだろうな。」


「で、
 イエスが子供の手を取って名前を呼んで
 "起きなさい"と言ったら
 子供はすぐに起きて歩き出したんだって。」


「へーぇ」


笑ったなじじ。
笑いながら首かしげてるぞ。


「皆びっくりしたさね。」


「そうだろうな。」


「この奇跡がどんな風に起こって
 どんな風に子供が死んで生き返ったのか
 現代の私達には想像するのは難しいんだけど、
 何か食べさせるようにとイエスが言ったのは、
 子供が本当に生き返ったのだと私は思うのさ。」


「ふん。」


「食べるという事は生きている事の証明だからね。
 死体がただ機械的に動き出したのではなくて、
 この子供が本当に
 現実に生きて再び普通の生活をするようになった。
 それをイエスは言い表してる。」


「・・・」


「"ただ、信じなさい"というのは、
 死んだ者が本当に生き返ったのかどうかとか
 何でどうして生き返るのかとか
 医学的にどんな根拠で生き返るのかとか、
 そういう枝葉に脱線しないで
 救われた現実を確信して
 そこから目を逸らすなという事だと
 私は個人的に受け止めている。」


「・・・」


じじわかるかな。
わっかんねーだろーな。
いいんだ無理にわかろうとしなくて。


「"ただ信じなさい"という事は、
 死人が科学的にどうやって生き返るかよりも
 今現実に自分が
 神様から生かされて生きている事に注目して
 その現実を認める事だと思うのさね。私は。」


「うーん。・・・」


じじ、
聖書のページに目をやったまま固まった。
話がじじにとって難しくなったので
今日はお開き。

じじと読む一日一章(マルコ5;21~34)

2008-02-21 22:45:07 | マルコ
2月21日(木)マルコ5;21~34


イエスが会堂長ヤイロの
死にそうな娘の所へ行こうとした時、
誰かが服に触れた。


「イスラエルでは
 生理の期間の女は汚れているとされていた。
 汚れている期間は行動が制限されてた。
 この女は12年間も
 ずっと出血が止まらなかったというのは
 ずっと汚れた期間のままで
 ユダヤ人社会から弾き出されていたって事だよ。
 何か婦人科の病気だったと思うけど
 いろんな医者にかかっても治らなくて
 全財産使い果たして絶望的な状態だった。」


「今の時代でもそういう事はたくさんあるな。」


「そうだよ。
 癌でも難病でも何でもいろんな病気で
 今でもこういう事は普通にあるね。」


「そうだ。」


「この女は、
 大勢の人が押し寄せて揉みくちゃになりながら
 せめてイエスの服だけでも触れたら治して貰えると
 信じてたのさ。
 イエスはこの女にとって万策尽きた最後の望みだった。」


「うむ。」


じじ、頷いてる。
病人が癒される奇跡は理解出来なくても
切実に神の救いを求める人間の気持ちに
少しでも共感出来たらいいと私は思う。


「お父さん、イエスは
 イエスだけを切実に信じて来た人の事はわかるんだ。
 だから大勢に揉みくちゃにされていても
 その女が自分の服に触った事に気づいたんだと思う。」


「そうだな。」


えっ!?
じじも共感するのか。
びっくり。想定外だ。


「お父さん、
 自分の服に触った事のがこの女がだと
 イエスは知ってたと思わない?
 私はイエスは知っていたと思うよ。
 イエスは知ってて、
 "触ったのは誰か"と言って見回したと思うのさ。
 これは私が読んで思った事だけどね。」


「ふん。」


「この女はイエスの服に触れて、
 自分の病気が治った事に気づいた。
 それで"やった♪ラッキー!"とか言って
 知らん振りして隠れて立ち去る事も出来たけど、
 この女はそうしないで名乗り出た。
 イエスは名乗り出た女に言ってる。
 "あなたの信仰があなたを救った"
 イエスは女が自分から名乗り出るのを待ってたと
 私は思うのさ。」


「そうかな。」


「私はそう思うのさ。
 牧師先生にもどうなのか聞いてみてよ。
 イエスにただ病気を治して貰って終わりではなくて
 自分の口で神と人の前で宣言する事が
 大事なんじゃないかな。
 "私はイエス様を信じて癒され、救われました"とね、
 皆の前で自分の口で言い表す。
 イエスはそう告白した女に
 "あなたの信仰があなたを救った"って言ってくれた。」


「うんうん。」


わかってんのかなじじ。
何だかしきりに頷いてるけど。
どうよ。


「だから、
 病気さえ治れば、
 願いさえ叶えばハイめでたし、ではなくて
 この女のように自分の信仰を自分の口で言い表す事が
 大切なんだよ。
 お父さんも
 これから洗礼式の時には牧師先生から言われたように、
 自分の口で
 "イエス・キリストを信じます"と言わなければならない。
 それと同じだよ。」


「そうか。」


「そうだよ。
 イエスは自分から信仰を言い表した人に対して
 "あなたの信仰があなたを救った。
 安心して行きなさい。"と言って下さるのさ。」


「なるほどな。」


「だから自分の口で
 人前で信仰を言い表す事が大事なんだよ。
 お父さんは洗礼式の時にそれをするんだ。」


「・・・」

じじと読む一日一章(マルコ5;1~20)

2008-02-21 22:24:09 | マルコ
2月21日(木)マルコ5;1~20


ゲラサの悪霊憑きの箇所。


この箇所を読んで、
じじにちょっと私の仕事話をした。
墓場を住まいとするこの人は、
枷や鎖で縛られていたが
鎖を引きちぎり、
枷を砕くほど暴れていた。
自分も回りもずいぶん傷つけた事だろう。


「この人はさ、
 今で言う心の病気の人だね。」


「そうだな。」


「私はこういう興奮状態の人と
 仕事で出遭った事が何度もある。
 危ないんだよ。
 手近な物を何でも、
 事務用品でもタオルでも凶器にする。
 筆記用具を迂闊に出しといたら奪い取られて
 危うく刺されそうになった事も何度かあるし、
 一緒に夜勤やってた人は私が別の人と一緒に
 他の患者さんを見ている間に押し倒されて
 首絞められてた。
 危機一髪で引き離したけどね、
 朝になったら嘘みたいに正気に戻って
 "お早うございます"って挨拶してくるのさ。
 精神科の病院でなくてもよくそういう事があったよ。
 誰でも極度の不安とか夜間譫妄とか
 いろんな原因でこの人みたいになるのさ。
 でもそれはその人の本性ではない事を私達は知ってる。
 聖書のこの箇所を読むと、
 そういう状態だった患者さん達の事を思い出すよ。
 凄まじい状態なんだよここの箇所は。」


「ほぉ。」


「イエスが命令すると、
 悪霊はこの人から出て豚の群れに入って、
 崖から湖に雪崩込んで豚全部溺れ死んでしまった。
 後にはこの人が正気に戻って座ってた。」


じじ、
笑って首をかしげている。


「悪霊の名前は"レギオン"と言ってるけど、
 レギオンは軍団という意味だよ。
 何百何千という連隊が集まって師団になって
 それも集まって軍団になるでしょ。
 一人の人にそれだけたくさんの悪霊が憑いてた。
 家族はとてもじゃないけど一緒になんて暮らせないし
 回りにもたくさん迷惑かけて村八分とか爪弾きにされて、
 それで墓場にいたんじゃないかな。」


「そうだな。
 こんなのが家にいたら大変だ。
 皆ケガしてしまう。」


「うん。
 家族もバラバラになるだろうし。
 苦しむだろうねこの人も家族も。」


「そうだな。」


「お父さん、悪霊というのは、
 人を神様から引き離してばらばらにする力だよ。
 人が神様を信じられなくなって神様から引き離される、
 人が人を信用出来なくなって信頼関係も愛情も無くなる、
 信じる心を神様から引き離してバラバラにする力。
 私達は常にこれと戦わなければならないんだ。」


「・・・・・」


じじ、
考え込んでるな・・・。


「私達を神様から引き離して
 信じられなくしてしまう物事はたくさんあるからね。
 いろんな出来事とか心配事とか悩み事とか。」


「そうか。
 そうだな。」


「墓場で暴れていた人は
 元からそんな人だった訳ではないと私は思うよ。
 苦しみに負けて
 神様から離れてしまっていたと思うのさ。
 いや、負けるさね。
 この人一人の力でなんて勝てないよ。
 だって大勢の悪霊がこの人一人に憑いていたんだもの。」


「そうだな。
 それは大変な事だ。」


「イエス様を遠くから見て、
 走り寄って来てひれ伏したのは
 助けて貰いたかったんだろうね。
 でも助けて貰いたいのに"かまわないでくれ"って
 滅茶苦茶に混乱してる。
 この人は本当に苦しんでいたと思わない?」


「そうだなぁ。」


「イエス様はその悪霊の軍団をこの人から引き離して
 豚の群れに入らせた。
 豚というのは、
 イスラエル人にとって汚れた動物とされているんだよ。
 聖書のこの始めの方にその戒律が書いてあって、
 豚を食べてはならない、
 食べた者は汚れると書いてあるのさ。
 ユダヤ教の人はそれで豚を食べない。
 食べると汚れるから。
 ここに出て来る豚飼いという仕事は
 イスラエルの中では底辺、最下層の、
 蔑まれた最低の職業なんだって。」


「へぇー」


「豚飼ってた人達は貧しかったろうね。
 イエスが悪霊に憑かれた人から悪霊を追い出して
 飼ってた豚に乗り移って
 豚2000匹全滅してしまった。」


「そりゃびっくりするだろうなぁ。」


「びっくりしたさぁ。
 それで街の人々はイエスに出て行ってくれって。」


「そうだろうな。」


「悪霊に取り憑かれていた人は、
 正気に戻って、
 イエスと一緒に付いて行きたいと言ったけど
 イエスは"家に帰りなさい"と言った。
 悪霊に取り憑かれて以来
 ずっと家に帰ってなかったんだろうね。
 家族とも社会とも切り離されたままだった人を、
 イエスは家族の中に帰らせて、
 社会復帰して家族や周りの人と一緒に暮らす事を望んだ。」


「うむ。」


「家庭にも社会にもちゃんと復帰して
 神様が癒して下さった事を言い広めなさいって事。
 悪霊を追い出して貰って正気に戻って
 そのままイエスと一緒に行っても
 バラバラになった家族は元に戻らないし
 悪霊に憑かれて暴れていた人が正気に戻った事に
 回りの人が気づかないままになってしまうからね。
 救われた人は自分が神様に救われた事実を
 周りの人に示して証しなければならないのさ。」


「ふぅん。
 そういうものか。」


「そういうものだよ。
 教会で"証しする"と言うのは
 自分が救われた事を皆の前で言い表す事なのさ。」


じじ、
話の途中しきりにルーペで聖書を見ていた。

まず、主の祈り(マタイ6;9~13、ルカ11;2~4)

2008-02-21 22:15:19 | 主の祈り
4日ぶりで
じじ宅にて一緒に主の祈りを唱える。
じじ、紙を見ないと主の祈りは無理なんだけど
ずいぶん自信持ってすらすら読めるようになった。


マルコが終わったらさ、
主の祈りの中身を、
私が教会で教わってきた事から教えよう。


これまで教会でしてきたいろんな学びも
こんな所で役立つんだなぁ。
ノート取っといてよかった。

じじと一緒に聖書を読む事(テモテⅡ4;2)

2008-02-20 03:40:39 | テモテⅠ、Ⅱ
御言葉を宣べ伝えなさい。
折が良くても悪くても励みなさい。(テモテⅡ4;2)


教会の仲間同士で聖書を開くのと違って
聖書を初めて開くじじのような人と
一緒に聖書を読むのは緊張する。


脱線したりおかしな事を喋ってしまって
聖書を初めて開いた人に
しかもこれから受洗を控えた人にとって
妨げにならないか物凄く心配だ。


信者同士だったらお互いに
それぞれが長年聖書を読んでるので
思った感想を率直にぶつけ合ったり、
わからない所を調べて分かち合ったりして
「それ、違うんじゃないの」とか
「ここはこう受け止めていいんじゃないの」とか
自分の読み方に方向転換や軌道修正の機会が与えられる。


じじと一緒にマルコを読み始めて、
まだ4章しか進んでいないが
聖書を読むのにこれほど責任を感じ
気骨の折れる思いをしたのは初めてかも知れない。
聖書を読んだ事のない人と一緒に読むのは
こんなにしんどいものかとしみじみ感じた。


誰かにダメ出しして貰わないとこれは大変だと思った。
仕事も散歩もおバカねたも、何もかも全部一緒くたで、
管理人自らが記事を検索出来ないほどに
ごった煮状態に膨れ上がってしまったこの日記の中から
じじと一緒に主の祈りをしたり
マルコを読んで話した記事だけを抽出して
第5のブログにした。


第5のブログの記事はこの日記でもミクシイでも
同じくアップしているので何処からでも読めるが、
第5のブログそのものについては
牧師先生にこちらから図々しくもお願いして
コメント欄に助言を下さいと
牧師先生にダメ出しをお願いした。
つまり、
第5のブログは牧師先生からのダメ出し専用回線である。


殺人的多忙にも拘らず、
牧師先生はコメント下さってた。
私は昨夜、仮眠時間にそれを読んだ。
お忙しいのに申し訳なく、有難い事だ。


しかし、
牧師先生にしかURLを知らせてなかったのに
何故か訪問者は30人を超えている。???

じじの主日礼拝(ルカ17;21)

2008-02-17 22:35:02 | ルカ
実に、
神の国はあなたがたの間にあるのだ。(ルカ17;21)


日曜日。
私は遅出日勤だった。


出勤のためバス待ちしてると、
ヘルパーさんから電話が。
じじを連れて教会に行く途中、
車の窓から私の姿を見たのだそうだ。
私の出勤時刻とじじが礼拝に出かける時刻が
ちょうどカチ合ったらしい。
私がバス待ちする国道を、
じじとヘルパーさんの乗ったタクシーが通過した時、
ヘルパーさんが
バス待ちしている私を見かけたのだそうだ。


じじには介護してくれるヘルパーさんが
交替で5人いる。
そのうち2人が交替で
毎週じじを教会に連れて行ってくれる。
助かるよ。
じじがよく笑いよく喋るようになったのは
今のヘルパーさん達のおかげ。
以前のじじからは想像出来ないほど
じじは楽しそうだと
行きつけの珈琲店の店主夫妻が言う。
じじが声を出して笑うなど、
私は見た事がなかった。


じじの食生活も服薬も彼女達のおかげで
管理が軌道に乗り、
食のバランスが保たれて
間違って飲んだり飲み忘れたりする事がなくなった。
気づいた細かい事もよく連絡してくれて
相談してくれる。
娘が5人いるみたいでじじは楽しそうだ。


教会に同行してくれる2人は
教会の皆とも円満に関わってくれるみたいで
その日教会であった出来事を
仕事で教会に行かない事の多い私にもわかるように
連絡ノートに書いて報告してくれる。
じじが教会の子供達を見て嬉しそうにしている様子や
ごくたまに来るインドネシアの船乗りの2人が
久しぶりにうちの教会に来た事とか
じじの反応を私に知らせてくれる。
じじの足腰が弱っている事や
車椅子の具合の良し悪しなども。


「クリスマスはお仕事ですか?
 教会に来られるといいですね。
 今、皆で賛美歌の練習しています。
 お父さん、楽しみにしてますよ。」


「今日、
 ○○さんからよろしく伝えてと言われました。
 夜勤だったんですね。
 お疲れ様でした。
 また教会に行けるといいですね。」


私とヘルパーさん、
この頃電話でどっちが教会員だかわからない会話をする。


じじが教会に行くために
神様がちゃんと協力者を備えて下さった。
私だけでは全く無理。
夜勤明けの日曜日にじじを教会に連れて行くとか
じじを教会に連れて行ってから夜勤入りするなど、
時間的にも体力的にも不可能。
私だけでは
日曜日に日勤がついたらじじは教会に行けない。
じじの教会通いが私の勤務で左右されないように
ちゃんと道が整えられたのは本当に有難い。


おかげで、
私は遅出日勤で19:00過ぎに仕事を終えても
安心してじじに電話する。


「お父さん、今日教会どうだった?」


「教会、行って来た。」


「いやいや、それは知ってるからさ、
 今日教会どうだった?」


「いつもと同じだ。
 子供達がたくさん来てたぞ。♪」


「ふんふん。
 牧師先生の説教は?
 どんな話だった?」


「キリストの話だった。」


「それはそうだろうさ。
 キリストのどんな話だった?」


「いろいろだ。
 昼にカレーライス食べた。
 うまかったぞ。♪♪」


じじ、いいなぁ。
教会のカレーライス、
私はもうずっと食べてない・・・・・・(T。T)

じじと読む一日一章(マルコ4;1~41)

2008-02-16 23:24:32 | マルコ
2月16日(土)マルコ4;1~41


種蒔きの譬。
じじにとっては理解し易い譬だったのか、
よく頷いていた。

「お父さん、ここはわかり易いよね。
 種を蒔く人は、イエス・キリスト。
 種は神の言葉。
 種の落ちる土は私達の心。」


「うん。
 そうだな。」


道端に落ちて鳥に食べられてしまった種。
蒔かれてすぐ、
芽も出さないうちに悪魔に盗られて失われる。
神の言葉を聞いても受け入れず、実らない。


石だらけで土の少ない所に落ちた種。
すぐに芽を出すが、
浅い土の上で根が伸びず日に焼けて枯れる。
神の言葉を聞いてすぐ喜んですぐ受け入れるが、
心の深い所に根付いていないので試練が来ると負けて
福音を手離してしまって、実らない。


茨の中に落ちた種。
茨のある土地で芽を出しても茨に邪魔されて伸びない。
神の言葉を心に受け入れても、
生活の苦労や金やいろいろな誘惑に邪魔されて、
実を結ばない。


良い土地に落ちた種は、
芽生え、成長して実を結んで、
30倍、60倍、100倍もの収穫になった。
神の言葉を聞いて受け入れ、たくさんの実を結ぶ。


神の言葉を受け入れる良い土地。
素直で従順な心。
神様の憐れみ、慈しみ、愛を自分の心に受け入れて
自分もそれに習い、従って生きる。


「イエス・キリストを救い主と信じる事は、
 イエス・キリストに習って、
 イエス・キリスト従って生きる事だと
 私は教えられた。
 自分の心が良い土地であるように願うよ。
 キリストに習って生きると、
 私達の生活にはたくさんの障害があるからね。
 試練に負けないように、
 キリストを見失わないようにしなきゃと思う。」


「そうか。」


イエスの譬話。


「聞く心を持つ人にだけ、
 わかるように話されたって事だと思うのさ。」


「うん。」


「回りを照らして明るくするためのともし火を
 わざわざベッドの下に置いたりしない、
 皆が見えるように置く。
 このともし火も神の言葉だよ。
 イエスは皆に聞こえる所で神の言葉を話すのだから
 聞く耳のある者、
 聞く心のある人は聞きなさいって。
 自分が何を聞いているか注意しなさいって。」


「そうだな。」


「私達はイエスを通して神様の言葉を聞いてるのさ。
 だから素直に聞く耳を持って、
 イエスに素直に聞いて
 教えを受け入れる心を持って聞きなさいって。
 その心を持っている人には
 神の言葉が恵みとしてさらに与えられるけど
 イエスに聞く心を持っていない人からは
 持っている僅かな恵みも取り上げられるって。
 だから聞く耳のある者は聞きなさいって
 イエスは言ったんだきっと。」


「なるほどな。」


「イエスの話を聞きに集まった人々は
 きっと農民が多かったんだろうね。
 だから種蒔きに譬えて
 わかりやすいように説教したんだろうね。
 聞く人達の聞く力に応じて話したんだ。」


「そうだな。
 わかり易いし面白いな。」


面白い。
じじ、それはよかった。


成長する種の譬とからし種の譬。


人が土に種を蒔いて、
知らない間に種は芽を出して成長する。
どうしてそうなるのか、その人は知らない。


「お父さん、
 ここの箇所はお父さんの事を言ってると思うよ。
 お父さんが若い頃に
 バプテストの教会員だったHさんと職場で出合って
 チラッとだけ聞いた聖書の話とか、
 再就職先でカトリック信徒のNさんもN社長さんと出合って
 チラッと垣間見た人に対する姿勢とか、
 その人達はイエスの教えを身をもって
 お父さんに表現して示していたと私は思う。
 お父さんはその人達の事を
 何十年も経った今になってもちゃんと憶えている。
 HさんもNさんも
 目立たない所に小さな種を蒔いてたんだ。
 それが何十年も経った今になって芽を出して、
 お父さんが教会に行くようになって
 洗礼を受けようとしている。
 でもHさんもNさんも、
 まさか今こんな所でお父さんが教会につながって
 洗礼受けようとしているなんて全然知らないと思う。」


「そうだな。
 HさんもNさんも
 知ったらきっとびっくりするだろうな。」


「びっくりするさぁねぇそりゃ。
 蒔かれた種はからしの種に譬えられるほど
 小さい粒だけど、どんどん成長して
 枝に鳥が留まって巣を作れるほどになる。
 イエスが2000年前に蒔いた種が
 この2000の間にどれだけ大きくなって
 どれだけ実を結んだか、考えたら凄いと思わない?
 目立たない貧乏な大工の息子だったイエスが
 十字架で死を遂げて、復活して、
 その教えが2000年経った今、
 世界中に広がったんだもの。」


「すごいなあ。
 何処でどんな事になるか、
 わからないものだなあ。」


イエスの不思議な力について。


「小船の上から説教して、
 その後夕方になって漕ぎ出したら
 風で小船が転覆しそうになって、
 弟子達は慌てた。
 イエスは寝てたんだって。
 弟子達が転覆する転覆するって
 慌てふためいたので、
 イエスは"黙れ。静まれ。"と言ったら、
 風も波も静まったんだって。」


「ほほー」


「イエスは弟子達が
 信じ切れない恐れを心に抱いた事を叱ったんだよ。
 完全にイエスを信じ切っていれば
 恐れる事はなかったけど、
 弟子達は誰もそこまで信仰強くなかったのさね。」


「そうだな。
 船が沈没したら溺れて死ぬからなぁ。」


「じゃ、どうすれば良かったかというと、
 しばらく前にインターネットのラジオで聴いた、
 カトリックの神父様の話では、
 弟子達も風とか波とかに気を取られていないで
 イエスと一緒に船の上で寝てたらよかったんだって。」


「そうか。
 それはいいな。」


「信仰者になったって
 人生全てがうまくめでたく万々歳ではないって事さ。
 いろんな困難や試練に遭うから。
 でもそういう時にも目の前の事に動揺しないで
 神様に信頼し切って自分の人生を委ねろって事だよ。
 信仰を強く持つという事はそういう事なんだねきっと。」


「う~ん。」


じじが感慨に浸ったところで
本日はお開き。

まず、主の祈り(マタイ6;9~13、ルカ11;2~4)

2008-02-16 22:01:28 | 主の祈り
今日も日勤の後にじじ宅にてマルコを読んだ。
聖書を開く前に、
いつものように主の祈り。
じじは私がA4の紙に手書きした主の祈りを手に取り、
声に出して朗読する。
ところどころ噛んだりつっかえたり読み損なったりする。


私が珈琲の湯を沸かす間、
じじは3回主の祈りを朗読した。
突然じじが
主の祈りを書いた紙を見てぽつりと言った。


「これ、
 見ないですらすら言えるようになったらいいなぁ。」


焦る必要は全然ないよ。
まだ今日で4回目だし、
たった4回にしては上出来だと思うよ。


じじはまだ
諳んじて祈るという余裕もなく
小学生の国語の授業のように音読するのが精一杯だ。


もちろん
主の祈りの一字一句の意味を
私は掘り下げて説明などしていない。
本当は主の祈りの中身をもっと詳しく
話してやる方が親切かも知れないけど、
一度にあれもこれもするのは私には無理。
じじにとっても
詰め込み教育みたいになってしまいかねない。


私の出来る範囲で出来るところまで
仕事帰りの時間を1、2時間裂いて
一緒に聖書を読んで分かち合う事と
一緒に主の祈りを唱える事を
じじが自分の日課とするところまでを目標に
地味に進もうとしている。


じじの願いは近いうちに叶えられるよ。
主の祈りをすらすらと
自分の口で唱える事が出来るようになったら
すごいよ。じじ。
礼拝で教会の皆が主の祈りを唱える時、
今まではぼーっと蚊帳の外にいたのが
皆と一緒に主の祈りを唱える事が出来るようになるんだよ。
祈りの輪の中にじじも入る事が出来るのさ。


受験生みたいに暗記する事は全然重要ではないし
覚えたからといって偉くなれる訳でもない。
でもこれは大事な祈りだよ。
主の祈りを皆と一緒に唱えて
神様に向かって皆と一緒に心を合わせる事が大事なのさ。


「これ、
 見ないですらすら言えるようになったらいいなぁ。」


「大丈夫。
 すぐ覚えられるよ。」


「どうだかなぁ」


「何回も唱えているうちに自然と覚えられるよ。
 日課にしたらいいよ。
 朝、目が覚めた時と
 夜、寝る前と、
 一日3回食事の前には必ず主の祈り。
 これだけでも一日5回。
 一ヶ月、一年と続けて
 来年の今頃は、教会の礼拝の時には
 紙なんか見ないですらすら
 自然と言葉が出て来るようになるよ。」


「そうかなぁ」


「弟子達も祈り方がわからなかった。
 それでイエス様が教えて下さったのが
 この祈りだよ。
 主イエスが教えて下さったから
 "主の祈り"なんだよ。」


「へぇ~」


じじ、
明日、私は遅番の仕事で夜は来られない。
じじが教会に着く頃に私は出勤する。
教会に行って皆に会って来てよ。
よろしく伝えて来て。


「うむ。
 わかった。」

じじと読む一日一章(マルコ3;20~35)

2008-02-15 22:25:49 | マルコ
2月15日(金)マルコ3;20~35


次行こう。
ベルゼブル論争について。


「親戚連中が皆して
 イエスを取り押さえに来たんだって。」


「そうだろうな。
 頭がおかしくなったと思ったんだな。」


「うん。
 何せ貧乏な大工の息子が
 突然神様の話をし始めて、
 病人を癒したり悪霊を追い出したり
 律法学者に喧嘩売るような事を言ったり
 群集に向かって説教するようになったんだから。
 お父さんどうする?
 井上家の遠い親戚の息子の誰それが
 いきなり全国を旅して
 神様の話をし始めて新興宗教の教祖様になって
 マスコミに騒がれたりしたら。」


「どうするかな。
 それはびっくりするなぁ。
 慌てるだろうな。」


「イエスの親戚という人達だっていたからさ、
 そうだったと思うよ。
 野次馬とかケチつける人達とか、
 騒ぐ連中はたくさんいただろうしね。」


「そうだなぁ。
 今でもそういうのよくあるからなあ。」


「大体騒ぐ人はさ、
 何やったって騒ぐし噂する、
 ケチつける人は
 イエスが病人を癒さなかったら
 インチキだってケチつけたろうし
 癒したら癒したで
 悪霊に取り憑かれてあんな事やってるんだとか
 どっちらしろケチつけたのさね。」


「世の中とはそういうもんだな。」


「イエスはそれに対してはっきり反論してるね。
 人間が犯す罪を、
 神様は何でも寛大に許して下さる、
 でも神様の霊を愚弄する罪は決して許されないって。」


イエスの母、兄弟について。


「イエスの母親も兄弟姉妹も、
 あんたんちの倅が騒ぎを起こしてるって
 きっと親戚中から責められてたんだろうね。
 心配してやって来たんだきっと。
 そしたらイエスは
 "わたしの母、わたしの兄弟とはだれか"って。
 お父さん、イエスのこの言葉を薄情だと思うかい?」


「・・・・」


じじ、考え込んでいる。


「イエスは
 私達が家族と呼んでる一般的な血縁の家族を
 否定したのではないと思うんだ。」


「何だかよくわからんな。」


「人間が生まれてきて育てられる、
 この世の家庭とか家族も、
 神様が与えて下さったものだよ。
 でも、
 イエスがここで言っている家族は
 血縁があろうと無かろうと、
 神様の御心を行う人は皆、
 イエスの兄弟姉妹、母だと言ってる。
 教会で、
 教会員同士がお互いに
 兄弟姉妹って呼び合ってるの、聞いた事あるでしょ。
 気づかなかったかな。」


「そうだったかな。」


「そうだってば。
 今度教会に行ったら皆の会話をよく聞いてごらん。
 教会は家族なんだ。
 お父さんが洗礼を受けて教会員になるという事は
 教会の家族の一員になるという事だよ。
 イエス・キリストを頭する家族の一員にね。
 家族は皆で祈り合って協力し合って支え合っている。
 楽しい事も苦しい事も何でも皆で分かち合っていく、
 教会とはそういう家族だと
 私は洗礼を受けた教会で教えられた。
 今、お父さんが行ってる私達の教会も同じだよ。」


「教会とはそういうものか。」


「そうだよ。
 洗礼を受けて教会員になるという事は
 教会の家族の一員になる事だよ。」


じじが
感慨深げな顔で聖書の頁を捲ったところで、
主の祈りを唱えて、お祈りして、
本日はお開き。

じじと読む一日一章(マルコ3;13~19)

2008-02-15 22:20:53 | マルコ
2月15日(金)マルコ3;13~19


イエスの12人の弟子について。


漁師。
シモン・ペトロとアンデレの兄弟。
ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟。


「お父さん、この人達は
 自分から師匠、弟子にして下さいさって
 志願して弟子入りしたんじゃないのさ。
 イエスの方から"おいで"とお呼びになったので
 彼らは付いて行ったのさ。
 自分の仕事か親とか雇い人とか
 それまでの自分の生活を横に置いて、
 イエスに付いて行った。」


「ほぉ。」


「これは大事な事なんだよ。
 私達の方から神様を選んだのではないって事さ。
 お父さんも、私も、
 自分の方からキリストを選んだのではないんだ。」


「・・・?」


「私達は神様から招かれて、
 呼ばれなければ付いて行く事は出来ないんだ。
 お父さんが教会に行くようになったのも、
 その後もずっと続けて教会に行く事が出来るのも、
 牧師先生や教会の皆から歓迎されて、
 ヘルパーさんに助けられて、
 毎週教会に行くために必要な
 全ての条件を整えて下さったのは神様だよ。
 お父さんや私の力ではないのさ。」


「そうか。」


「そうだよ。
 イエスがお呼びになった12人の弟子達は皆、
 特別に優れた才能があった訳でもなく
 招かれた時は立派な信仰者でもなかった。
 目立たない、貧しいそこいらの人だった。
 イエスはそういう平凡な一人一人を弟子として選んで
 "おいで"とお呼びになった。
 お父さんも私も、招かれたのは
 特別に優れているから招かれたのではないし
 才能があるからでもないし
 人格が立派な訳でもないし
 信仰的に優れている訳でも何でもないのさ。
 ただ神様が"おいで"とお呼びになった、
 そしてそれに気づいて付いて行ったんだよ。」


「ふぅん。」


「私達は
 呼ばれたら、自分の生活をその場に置いて
 イエスに従って付いて行くんだ。
 この弟子達もそうだった。
 キリストに従う人は皆そうやって
 自分のそれまでの生活を置いて付いて行くんだ。
 うちの教会の牧師先生もそうだったって。」


「ほぉ。」


「牧師先生は若い時に
 キリストを信じるようになって洗礼を受けて、
 さらに自分の人生を神と人々に捧げる決心をして
 牧師になるために
 それまで働いていた職業も辞める事を決めた時、
 親戚中から猛反対されたんだって。
 黙ってそのまま働いていれば
 生活に不安も無く老後に恩給もつくのに、
 安定した職を手放してまでキリストに付いて行く事は
 親族の人々からは簡単には理解されなかったと思うよ。」


「そうだな。
 そうだろうな。
 仕事を辞めるという事は大変な事だ。」


「それに牧師という仕事は苦労の多い仕事だからね。
 今の私達の教会の
 明るい、活気のある所しかお父さんは見てないから
 想像も付かないでしょう。
 これまでの牧師先生ご夫妻の
 目に見えない苦労と祈りの上に
 私達の教会は建てあげられている。
 牧師先生はイエス・キリストとずっと一緒に
 道のりを歩いて来られた。
 お父さんは毎週その教会に
 神様に招かれて行ってるんだよ。」


「それは知らなかった。」


「今度、牧師先生に話を聞いてみなよ。」


「うん。そうだな。」


じじ、
考え込んでいる。


「イエスはユーモアのある人だったと思わない?
 シモンにペトロってあだ名つけてた。
 ペトロは"岩"という意味だよ。
 きっと頑固だったのかも。
 ヤコブとヨハネの兄弟も"雷の子ら"って、
 きっと怒りっぽいとか荒っぽい性格だったのかもよ。」


「はは。
 面白いな。」


じじ、珈琲に砂糖入れ過ぎ。


12人の弟子達の、最後に出てくる名前。
イスカリオテのユダ。


「ああ、
 裏切り者のユダな。
 知ってる。聞いた事ある。」


「うん。
 確かにユダは律法学者達にイエスを銀貨30枚で売った。
 だけどね、
 イエスを裏切ったのは
 イスカリオテのユダだけじゃないんだよ。
 ここに出て来る12人全員がイエスを裏切った。
 最後の土壇場で、
 全員がイエスを見捨てて逃げたから。
 イエスを裏切ったのは皆同じでしょ。」


「そうだな。
 いざという時に逃げたら同じだ。」


じじ、また考え込んでいる。

じじと読む一日一章(マルコ3;1~12)

2008-02-15 22:15:28 | マルコ
2月15日(金)マルコ3;1~12


律法学者達との論争について。
「安息日に律法で許されているのは
 善を行うことか、悪を行うことか。
 命を救うことか、殺すことか。」


律法学者達の頑迷さに対するイエスの怒りについて。
じじはこの章を読んで思うところがいろいろある様子だ。


「日曜日だからって
 医者が俺は信者だから今日は急患が来ても
 診てやらないぞと言ってるのと同じだ。」


「そうそう。
 この時代の宗教的指導者だけの話ではないのさ。
 いつの時代になっても
 優先順位を間違える事ってあるよね。」


「そうだなぁ。」


「それほど当時の宗教的指導者達が
 神様本来の御心から離れてしまってたのさ。
 イエスはそこんとこに突っ込みを入れたので
 律法学者達にとって煙たい存在だった。
 それで命を狙われた。」


「似たような話は今の世の中でもあるなぁ。」


「人を救う筈の宗教が
 人を食い物にしてたんだから、
 そうだよね。
 でもこれは、キリスト教徒だって同じかそれ以上なのさ。
 キリスト教徒も歴史的にこれと同じどころか
 もっと酷い事をたくさんしてきた。
 中世の異端審問から今のイラク戦争に至るまで、
 私達キリスト教徒の立場は
 何一つ正当化したり反論したり出来ないんだよ。
 だから
 この福音書の中のユダヤ教指導者達を非難する資格は
 私達には無い、
 むしろこれは
 私達の事を言われていると思うんだよ。」


「うん。」


イエスはどんどん注目されて評判になり、
群集にもみくちゃにされないために小船に乗って
岸辺の群集に説教した。
それも律法学者達にとって目障りだったに違いない。


「皆、苦しい生活してたんだろうね。
 癒されたかったんだきっと。
 だからイエスの癒しが評判になったんだね。」


「そうだなぁ。」


「水の上の小船から群集に説教するなんて、
 斬新でしょ。」

「聞いたこともない話が次々出てくるなぁ。」

まず、主の祈り(マタイ6;9~13、ルカ11;2~4)

2008-02-15 22:05:45 | 主の祈り
今日も日勤の後、じじ宅でマルコの続きを開いた。
「さ、始めよう」と言ってテーブルに着いた。
前回私が紙に書いた主の祈りをじじに持たせると、
じじの口からスムーズに主の祈りの言葉が出てきた。
読む事も声を出す事も、憶える事も、
一日一日、じじは進歩している。


今度の日曜日に礼拝で
皆で主の祈りを唱える時、
じじは自分の進歩に気づくだろう。
いずりそのうち、
見なくても主の祈りを唱える事が出来るようになる。
主の祈りの意味も理解するようになる。
そして
自分の心の奥底から
自分の言葉で
主なる神に祈りを捧げる事が出来るようになる。
教会の皆と一緒に祈る事も出来るようになる。
これは私の欲目や甘い期待ではないと思う。

じじと読む一日一章(マルコ2;1~28)

2008-02-14 22:48:05 | マルコ
2月14日(木)マルコ2;1~28


屋根を剥がして中風の人を釣り下ろす4人の男達の話。
4人が群集に阻まれてイエスに近寄れず、
そこで諦めてしまったらそれまで、
見方を変えて入り口がダメなら屋根剥がしてと、
自分達のものの見方を変えて
自分達から神に近寄ろうとする、
彼らの信仰によってこの中風の人の罪が許されると告げた。
律法学者達がイエスのする事にケチをつける。


同胞から税を取り立てる徴税人は忌み嫌われていた。
でもイエスは徴税人とも罪人とも一緒に食事を共にした。
ここでも律法学者達がイエスのする事にケチをつける。
じじ、感心している。


「医者を必要とするのは病人、
 全くその通りだな。」


「もっともだと思うでしょ。
 でも律法学者達にとっては戒律を守る事の方が
 最優先だった。」


「今の時代でもそういう事はある。」


断食問答の箇所。
ここでもイエスにケチをつけてきた律法学者達に対して
イエスは神と人との新しい約束、新しいあり方の到来を
布切れの譬、と葡萄酒・皮袋の譬を用いて語る。


「俺、この話知ってる。
 昔仕事で一緒だったHさんが言ってた。
 あの人はキリスト今日の人だった。
 おとなしい人だったな。」


Hさんは、
私が小学生の時に英語を習いに通っていた近所の
バプテスト教会の信徒だった。
存命だろうか。
もしまだ存命だったらかなりの高齢だと思う。


「もう30年以上も昔の話でしょ。
 その時どう思った?」


「別に、変わった話だなあと思っただけだ。」


「葡萄酒と皮袋の譬の話を
 キリスト教を知らない一般の人達に話してたの?
 難しい話してたんだね。」


意味はわからなくても
職場の先輩の言葉を通して
じじは何らかのインパクトを受けていたらしい。


安息日に弟子達が麦畑の穂を摘んで食べたのを
律法学者達はここでも戒律破りだとケチをつける。


「規則が大事か人間が大事かという話だな。
 こういう事は今の世の中でもよくある事だ。」


「イエスもイエスの弟子達もお腹空いてたんだよね。
 貧しかったからね。
 でも麦の穂を摘んで籾殻を落とすでしょ。
 それが脱穀という仕事に当たるのさ。
 安息日には仕事禁止だったから
 掟破りだとケチつけてきたんだよ。
 イエスはその律法学者に対して
 戒律を遵守するだけでは足りない、
 人を労わったり思いやったり憐れむ事の方が
 大事だと示してるんだよ。
 律法を守る事を否定はしないけど
 人を大切にする事を神様は望んでおられて、
 それが神様の心だって事さ。」


「安息日は人のために定められた。
 人が安息日のためにあるのではない。
 全くだ。
 人を大事にしないとダメだ。
 俺は昔な、・・・」


む・・・
じじのスイッチが入ってしまった。
しばらく昔の話が続いた。
じじ、
イエスの教えの一つ一つに頷きながら読み進んでいる。

まず、主の祈り(マタイ6;9~13、ルカ11;2~4)

2008-02-14 22:15:40 | 主の祈り
昨日、
じじが初めて声に出して主の祈りを唱えたが
声にするだけで精一杯、
自意識が邪魔してうまく読めないでいるのがわかった。


今日、二日目にして
じじは昨日よりも自然に自分の声に出して
主の祈りを唱えていた。
言葉が昨日よりも落ち着いて
スピードもあってスムーズに発語出来るのは
昨日2、3回唱えて見て慣れたのか
主の祈りの言葉の一つ一つをだんだん覚えてきたのか
どうなんだろう?


78歳の高齢であっても
一日で新しい事を習得する事は可能だ。