私が小学生だった頃、
団地近くのバプテスト教会の一室で、
教会員の青年が小学生に英語を教えていた。
月謝が安いからと母が言った。
同級生達の何人かが同じ教会のオルガン教室に通っていた。
私はなぜか途中でやめたいと思わず、
小学校を卒業するまで5年間通った。
その教会は自宅と小学校の中間にあった。
学校からの帰り道教会に寄って、
私は先生や他の子供達と話をして時間を潰した。
窓を開けると
植樹したばかりで背が高くない白樺の若木がざわざわして、
通りに面した窓ガラスに
映画『塩狩峠』のポスターが色褪せたまま貼られていた。
小柄で猫背の牧師さんが
裏の牧師館と礼拝堂を行ったり来たりしていた。
道で行き会うと、
牧師さんは私の名前を呼んで声をかけてきた。
「井上さん、教会にいらっしゃい。」
牧師さんが名前を覚えていてくれたので私は嬉しかった。
私達は団地の仲間同士で学校帰りに牧師館の庭を通り抜け、
「わーっ」「バカ」「アホ」と叫んで垣根の陰に隠れ伏し、
牧師さんが出て来ないかドキドキワクワクしていた。
クソガキ。
そこで買い食いし、仔猫を拾い、捨て犬に給食のパンをやって
近所の主婦に追っ払われては隠れ、
再び集まってたむろしていた。
同級生の一人が教会の日曜学校に行っていた。
お互いの家を行き来して一緒に遊んだりしたこともあって、
自分も日曜学校に行きたいと言ってみたが、
母は宗教団体に対する盲目的な警戒心から反対した。
「あんたは英語だけ習っていればいいの。
余計な事に首突っ込むんじゃないよ。」
日曜学校はあっさり諦めた。
母など無視して行く事も出来たが、
そうしなくて良かったかも知れない。
その時点で教会に入っても、
所詮教会はただ許されただけの罪人の集まりであり、
社会の縮図に過ぎない現実がある。
教会内の人間関係に幻滅して案外早くに躓き、
以後キリスト教と関わりを持つ上で
重大な障壁となったに違いない。
私は野蛮で傲慢な、子供らしくない子供であり、
家庭・家族・その一員の自分という
人間関係の基礎単位が欠落していたからだ。
日曜学校に行かなくても
週3回の英語教室で教会に出入りする生活は5年間続き、
私は毎年英語教室のクリスマスにも参加した。
学校で終業式が済むと、英語教室の先生は私達のために
ケーキやミカンや飲み物と、
一人一人にプレゼントを用意してくれた。
私達も一人300円以内だったか、プレゼントを持ち寄って
「ももたろさん」を歌いながら交換し、ゲームもした。
早くも陽が落ちて
薄暗くなった狭い教室で、先生がケーキの蝋燭に火を点けた。
私達は照らし出されたお互いの顔を神妙に見合わせた。
「きよしこのよる」や「もろびとこぞりて」を歌いながら、
先生は微笑んで子供達一人一人と視線を交わしていた。
私は信仰を持たず、イエスの教えも祈りも知らなかった。
礼拝堂を覗くと、
古い木製のベンチと、足踏みオルガンと、ピアノがあった。
講壇の横の壁には
日曜学校の聖書の授業のために誰かが作ったのだろうか、
大きな年代表に
小学生が学校で聞いたこともない国々の名前が記されていた。
メソポタミア、バビロニア、アッシリア、ローマ。
出入り口の壁には「ヨナの歌」の歌詞が貼り出されていた。
ヨナ、ニネベにいらっしゃい
いいえ、いきたくない
ヨナ、ニネベにいらっしゃい
いいえ、いきたくない
おおきなさかな、ヨナをのんだ
ヨナはおそれて、たすけてたすけて
ヨナ、ニネベにいらっしゃい
はい、いきます
わたしはヨナのようにかみさまからにげて
さばきのさかなにのまれたくない・・(詩:V.H.Bateman)
「あれなに、変な歌」
「聖書あげようか。
小学生にも読める子供用のがあるんだよ。」
「いらない。子供用の聖書なんて本物じゃないよ。」
私はキリストの事を知りたかったが、
子供用のものは何でも偽物だと思っていた。
「聖書にはキリストの事が書いてあるはずなのに、
ヨナなんて聞いた事ない。」
私は『ヨナの歌』の脅迫的な言い回しに不信を抱いただけで、
「三日三晩魚の腹の中」の象徴的意味など知らなかった。
「本物」の意味も知らないくせに、
「本物の聖書を読むんじゃなきゃ嫌だ」と思っていた。
玄関の左脇には聖書と賛美歌の棚があった。
私は人に見られないように隠れて、何度も聖書を手に取った。
聖書は今でいう口語訳聖書だった。
辞書のように字が小さく漢字だらけで、
小学生が読めるような代物ではなかった。
咎められもしないのに隠れて物陰で盗み見るほどの執着心は、
一体何処から来るものだったのか、今もわからない。
私に与えられたこの世の時間は後どの位だろう。
その間に私は何度聖書を読み、一字一句に何を考えるだろう。
聖書の棚の上に菓子折の空き箱があって、
使用済みの切手がたくさん入っていた。
先生は「欲しいのがあったらあげるよ」と分けてくれた。
あのバプテスト教会の会堂は今もそこにある。
多少改築してはいるが、
牧師館も、屋根の十字架も、礼拝堂も、講壇も、聖句の額縁も
当時のままだ。
あの復活したキリストみたいな
雑品屋のおじさんをよく目撃したカトリック教会も、
今もそこにある。
鐘楼も、聖母マリアの像も、花壇も、幼稚園も当時のまま。
私は成人してから札幌のメノナイト教会で洗礼を受けた。
この地に移って来て
今でもメノナイト教会の教会員である私は
日曜日には礼拝も奉仕も自分の所属する教会で捧げる。
懐かしい二つの教会のために何か奉仕する事もなく、
一方的に恩恵を受けるだけ受けて、ゴミ一つ拾わない。
人が札幌や東京にどんどん流出し、
皆出て行ってしまうこの過疎地で
今日まで何十年もの長い年月の間に、
これらの教会はどれだけの危機や困難に耐え、
乗り越えてきたことだろう。
キリストの体である教会を支え守ってきた司祭や牧師、
信徒達の祈りと労苦を思う。
私はそこからどれ程慰められ、励まされてきたことだろう。
私達が子供の頃に遊んだ空き地と団地と長屋の集落は、
今は高層住宅と病院と葬儀場になっている。
原形を留めないまでに姿を変えた街に、
教会だけが昔の姿のまま生き残っている。
その古い一画は失いたくない記憶の源泉だ。
団地近くのバプテスト教会の一室で、
教会員の青年が小学生に英語を教えていた。
月謝が安いからと母が言った。
同級生達の何人かが同じ教会のオルガン教室に通っていた。
私はなぜか途中でやめたいと思わず、
小学校を卒業するまで5年間通った。
その教会は自宅と小学校の中間にあった。
学校からの帰り道教会に寄って、
私は先生や他の子供達と話をして時間を潰した。
窓を開けると
植樹したばかりで背が高くない白樺の若木がざわざわして、
通りに面した窓ガラスに
映画『塩狩峠』のポスターが色褪せたまま貼られていた。
小柄で猫背の牧師さんが
裏の牧師館と礼拝堂を行ったり来たりしていた。
道で行き会うと、
牧師さんは私の名前を呼んで声をかけてきた。
「井上さん、教会にいらっしゃい。」
牧師さんが名前を覚えていてくれたので私は嬉しかった。
私達は団地の仲間同士で学校帰りに牧師館の庭を通り抜け、
「わーっ」「バカ」「アホ」と叫んで垣根の陰に隠れ伏し、
牧師さんが出て来ないかドキドキワクワクしていた。
クソガキ。
そこで買い食いし、仔猫を拾い、捨て犬に給食のパンをやって
近所の主婦に追っ払われては隠れ、
再び集まってたむろしていた。
同級生の一人が教会の日曜学校に行っていた。
お互いの家を行き来して一緒に遊んだりしたこともあって、
自分も日曜学校に行きたいと言ってみたが、
母は宗教団体に対する盲目的な警戒心から反対した。
「あんたは英語だけ習っていればいいの。
余計な事に首突っ込むんじゃないよ。」
日曜学校はあっさり諦めた。
母など無視して行く事も出来たが、
そうしなくて良かったかも知れない。
その時点で教会に入っても、
所詮教会はただ許されただけの罪人の集まりであり、
社会の縮図に過ぎない現実がある。
教会内の人間関係に幻滅して案外早くに躓き、
以後キリスト教と関わりを持つ上で
重大な障壁となったに違いない。
私は野蛮で傲慢な、子供らしくない子供であり、
家庭・家族・その一員の自分という
人間関係の基礎単位が欠落していたからだ。
日曜学校に行かなくても
週3回の英語教室で教会に出入りする生活は5年間続き、
私は毎年英語教室のクリスマスにも参加した。
学校で終業式が済むと、英語教室の先生は私達のために
ケーキやミカンや飲み物と、
一人一人にプレゼントを用意してくれた。
私達も一人300円以内だったか、プレゼントを持ち寄って
「ももたろさん」を歌いながら交換し、ゲームもした。
早くも陽が落ちて
薄暗くなった狭い教室で、先生がケーキの蝋燭に火を点けた。
私達は照らし出されたお互いの顔を神妙に見合わせた。
「きよしこのよる」や「もろびとこぞりて」を歌いながら、
先生は微笑んで子供達一人一人と視線を交わしていた。
私は信仰を持たず、イエスの教えも祈りも知らなかった。
礼拝堂を覗くと、
古い木製のベンチと、足踏みオルガンと、ピアノがあった。
講壇の横の壁には
日曜学校の聖書の授業のために誰かが作ったのだろうか、
大きな年代表に
小学生が学校で聞いたこともない国々の名前が記されていた。
メソポタミア、バビロニア、アッシリア、ローマ。
出入り口の壁には「ヨナの歌」の歌詞が貼り出されていた。
ヨナ、ニネベにいらっしゃい
いいえ、いきたくない
ヨナ、ニネベにいらっしゃい
いいえ、いきたくない
おおきなさかな、ヨナをのんだ
ヨナはおそれて、たすけてたすけて
ヨナ、ニネベにいらっしゃい
はい、いきます
わたしはヨナのようにかみさまからにげて
さばきのさかなにのまれたくない・・(詩:V.H.Bateman)
「あれなに、変な歌」
「聖書あげようか。
小学生にも読める子供用のがあるんだよ。」
「いらない。子供用の聖書なんて本物じゃないよ。」
私はキリストの事を知りたかったが、
子供用のものは何でも偽物だと思っていた。
「聖書にはキリストの事が書いてあるはずなのに、
ヨナなんて聞いた事ない。」
私は『ヨナの歌』の脅迫的な言い回しに不信を抱いただけで、
「三日三晩魚の腹の中」の象徴的意味など知らなかった。
「本物」の意味も知らないくせに、
「本物の聖書を読むんじゃなきゃ嫌だ」と思っていた。
玄関の左脇には聖書と賛美歌の棚があった。
私は人に見られないように隠れて、何度も聖書を手に取った。
聖書は今でいう口語訳聖書だった。
辞書のように字が小さく漢字だらけで、
小学生が読めるような代物ではなかった。
咎められもしないのに隠れて物陰で盗み見るほどの執着心は、
一体何処から来るものだったのか、今もわからない。
私に与えられたこの世の時間は後どの位だろう。
その間に私は何度聖書を読み、一字一句に何を考えるだろう。
聖書の棚の上に菓子折の空き箱があって、
使用済みの切手がたくさん入っていた。
先生は「欲しいのがあったらあげるよ」と分けてくれた。
あのバプテスト教会の会堂は今もそこにある。
多少改築してはいるが、
牧師館も、屋根の十字架も、礼拝堂も、講壇も、聖句の額縁も
当時のままだ。
あの復活したキリストみたいな
雑品屋のおじさんをよく目撃したカトリック教会も、
今もそこにある。
鐘楼も、聖母マリアの像も、花壇も、幼稚園も当時のまま。
私は成人してから札幌のメノナイト教会で洗礼を受けた。
この地に移って来て
今でもメノナイト教会の教会員である私は
日曜日には礼拝も奉仕も自分の所属する教会で捧げる。
懐かしい二つの教会のために何か奉仕する事もなく、
一方的に恩恵を受けるだけ受けて、ゴミ一つ拾わない。
人が札幌や東京にどんどん流出し、
皆出て行ってしまうこの過疎地で
今日まで何十年もの長い年月の間に、
これらの教会はどれだけの危機や困難に耐え、
乗り越えてきたことだろう。
キリストの体である教会を支え守ってきた司祭や牧師、
信徒達の祈りと労苦を思う。
私はそこからどれ程慰められ、励まされてきたことだろう。
私達が子供の頃に遊んだ空き地と団地と長屋の集落は、
今は高層住宅と病院と葬儀場になっている。
原形を留めないまでに姿を変えた街に、
教会だけが昔の姿のまま生き残っている。
その古い一画は失いたくない記憶の源泉だ。