昨夜は
じじ宅でアニメ『銀河鉄道の夜』を見た。
じじが某国営放送の子供番組やアニメを
喜んで見ているので。
『銀河鉄道の夜』は
かれこれ20年以上も昔に作られたアニメだが、
これが世に出た頃は
私の身の回りで賛否両論があった。
原作のイメージを壊したと怒る賢治マニアもいたし
いや、
アニメにしては賢治の描いた文章のイメージを
よく出してるという人もいた。
いずれも画像で賢治の『銀河鉄道』は表現しきれない、
アニメの限界があるという点だけは一致していた。
私は絵も音楽も
とってもいいと思うよ。
アニメ嫌いな私でも
この『銀河鉄道の夜』だけは好きだ。
何作っても原作にはかなわない。
アニメはあの画像と音楽の美しさで充分。
共産主義者だったパゾリーニの『奇跡の丘』にしろ
仏教徒だった宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にしろ
私はこの二つの、
キリスト者でない人の表現するキリスト観に
もの凄く魅かれる。
変な下心を感じないから。
「この作品を見て教会にいらっしゃい」とか
「この作品を見て聖書をこんな風に読みなさい」とか
「キリスト教をこのように理解しなさい」とか
そういう福音伝道目的の下心がない分、
見た側は
「何でこうなるのだ?」とか
「あれはどういう事だ?」とか
「キリストの教えとはどんなんだ?」とか
見終えた後も自分で考えたり思い巡らす事が出来る。
見る側にとって不完全に見える結末に
疑問を持つ事が大切なのだ。
疑問を感じて納得できずにあれこれ考える、
思考の自由が見る者には一番大切なのだ。
「あんな事があってこんな事があって
私は苦しかった悩んで死のうとまで思った、
でもふとそこにあった聖書を開くと
こんな言葉があって
私はこれで救われました。
今は私は喜びに満ち溢れて幸せです、
さあ、
そこのまだ救われていないあなた、
あなたも早く救われて下さい、
私と一緒に天国に行きましょう♪」
この脳天気で傲慢で
いかにも尻上り寿な
予定調和的観点で作られたキリスト教作品は
多いと思う。
セロリみたいに不快な臭いがする。
下心を含んだものは何でもクサいんだよ。
クサいのは
受け止める側に疑問を抱かせる余地を与えないから。
その疑問こそが生きた祈りの源泉なのに
それを殺してしまうから。
疑問を持つ事が出来なければ
心の中で神に呼びかけたり
求めたり委ねたりする事は出来ない。
疑問を抱いて試行錯誤をする中に御業はあるし、
その時には気づかなくても
神が一緒にいて共に歩んで下さっていた事は
後でわかる。
私は『奇跡の丘』を見て納得できなかった。
何で「あの人」が何も悪い事をしていないのに
手のひらに釘を打たれて殺されたのか
ずっと考えていた。
キリストのキの字も知らない幼稚園児だった時から。
後に『銀河鉄道の夜』を読んで納得できなかった。
「本当の幸い」って何なのか考えた。
今も考える。
「ああ、そんなんでなく本当の本物の・・・」
ジョバンニを納得させなかったものが何か、
私は今も考えている。
以前、ブログ『ぱんくず日記』にその事を書いた。
今年の7月23日。
遡っていちいち開くのもめんどくさいから
そっくり引用して持って来た。
(2006.7.23『ぱんくず日記』)
『銀河鉄道の夜』(新潮文庫 昭和36年)
キリスト者になってから
『銀河鉄道の夜』の見方が変わった。
ジョバンニは
友達の代わりに溺死したカムパネルラと一緒に、
死者達の汽車に乗る。
本当の幸いを探しに。
本当の幸いとは、
全ての人の一番の幸福のために
自分の生命を捨てる事だ。
この命題を、
受洗以前の私はお話の中の誇大妄想と思っていた。
イエスご自身がヨハネ伝の中で述べられている。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、
これよりも大きな愛は誰も持っていません。」
(ヨハネの福音書15;13)
ヨハネは言っている。
「キリストは、
私たちのために
ご自分のいのちをお捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。
ですから私たちは、
兄弟のためにいのちを捨てるべきです。」
(ヨハネの手紙Ⅰ3;16)
幼い姉と弟を連れた家庭教師が登場する。
船が難破し、家庭教師は悩む。
救命ボートに全員は乗り切れない。
皆が道を開けてくれてももっと大勢の子供や親がいる。
家庭教師には彼らを押し退ける勇気がない。
他の子供を押し退ける罪を
自分一人が背負ってでも姉弟を助けるか。
他の子供を押し退けてまで助けるよりは
皆一緒に神の御前に行くか。
どちらがこの子達の本当の幸いだろう。
親達は我が子を子供ばかりのボートに放す。
「主よみもとに近づかん」を歌いながら
乗客と船は水没した。
家庭教師も二人の子供と手をつないだまま沈んだ。
ここに登場する家庭教師の信仰は一途だと思う。
「ハレルヤ。」
3人は南十字星で汽車を降り、
十字架への行進に加わる。
ジョバンニは名残惜しくて彼らを引き止める。
「そんなのうその神さまだい。」
引き止めても彼らは聞かない。
家庭教師がジョバンニに問う。
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」
ジョバンニは答える。
「そんなんでなしに、
ほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしに、
たった一人のほんとうの神さまです。」
賢治も宣教師とそんな問答を交わしたのだろうか。
本当の神は主なる神一人だけ。
家庭教師の信仰告白が、ジョバンニの耳には
自己満足的に矮小化されてしまうのは何故だろう。
ジョバンニを
「ああ、そんなんでなしに・・・」
と失望させるものは何だろう。
「宗教の事は知らないが、
唯一の本当の神を探す」という人はたくさんいる。
探すからこそ色々な宗教や思想を転々とする。
人前で福音を語る時、
私の語っているキリストが
自分本位に歪められていないか気になる。
私は自分の信仰を
そこまで吟味した事があったろうろか。
信仰を告白し唯一の救い主を証ししても、
「ああ、そんなんでなしに、
本当のたった一人の神をさがしてるんです。」
と失望の嘆息が返ってきたら・・・。
私自身にとって
予定調和は信仰の敵。
じじ宅でアニメ『銀河鉄道の夜』を見た。
じじが某国営放送の子供番組やアニメを
喜んで見ているので。
『銀河鉄道の夜』は
かれこれ20年以上も昔に作られたアニメだが、
これが世に出た頃は
私の身の回りで賛否両論があった。
原作のイメージを壊したと怒る賢治マニアもいたし
いや、
アニメにしては賢治の描いた文章のイメージを
よく出してるという人もいた。
いずれも画像で賢治の『銀河鉄道』は表現しきれない、
アニメの限界があるという点だけは一致していた。
私は絵も音楽も
とってもいいと思うよ。
アニメ嫌いな私でも
この『銀河鉄道の夜』だけは好きだ。
何作っても原作にはかなわない。
アニメはあの画像と音楽の美しさで充分。
共産主義者だったパゾリーニの『奇跡の丘』にしろ
仏教徒だった宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にしろ
私はこの二つの、
キリスト者でない人の表現するキリスト観に
もの凄く魅かれる。
変な下心を感じないから。
「この作品を見て教会にいらっしゃい」とか
「この作品を見て聖書をこんな風に読みなさい」とか
「キリスト教をこのように理解しなさい」とか
そういう福音伝道目的の下心がない分、
見た側は
「何でこうなるのだ?」とか
「あれはどういう事だ?」とか
「キリストの教えとはどんなんだ?」とか
見終えた後も自分で考えたり思い巡らす事が出来る。
見る側にとって不完全に見える結末に
疑問を持つ事が大切なのだ。
疑問を感じて納得できずにあれこれ考える、
思考の自由が見る者には一番大切なのだ。
「あんな事があってこんな事があって
私は苦しかった悩んで死のうとまで思った、
でもふとそこにあった聖書を開くと
こんな言葉があって
私はこれで救われました。
今は私は喜びに満ち溢れて幸せです、
さあ、
そこのまだ救われていないあなた、
あなたも早く救われて下さい、
私と一緒に天国に行きましょう♪」
この脳天気で傲慢で
いかにも尻上り寿な
予定調和的観点で作られたキリスト教作品は
多いと思う。
セロリみたいに不快な臭いがする。
下心を含んだものは何でもクサいんだよ。
クサいのは
受け止める側に疑問を抱かせる余地を与えないから。
その疑問こそが生きた祈りの源泉なのに
それを殺してしまうから。
疑問を持つ事が出来なければ
心の中で神に呼びかけたり
求めたり委ねたりする事は出来ない。
疑問を抱いて試行錯誤をする中に御業はあるし、
その時には気づかなくても
神が一緒にいて共に歩んで下さっていた事は
後でわかる。
私は『奇跡の丘』を見て納得できなかった。
何で「あの人」が何も悪い事をしていないのに
手のひらに釘を打たれて殺されたのか
ずっと考えていた。
キリストのキの字も知らない幼稚園児だった時から。
後に『銀河鉄道の夜』を読んで納得できなかった。
「本当の幸い」って何なのか考えた。
今も考える。
「ああ、そんなんでなく本当の本物の・・・」
ジョバンニを納得させなかったものが何か、
私は今も考えている。
以前、ブログ『ぱんくず日記』にその事を書いた。
今年の7月23日。
遡っていちいち開くのもめんどくさいから
そっくり引用して持って来た。
(2006.7.23『ぱんくず日記』)
『銀河鉄道の夜』(新潮文庫 昭和36年)
キリスト者になってから
『銀河鉄道の夜』の見方が変わった。
ジョバンニは
友達の代わりに溺死したカムパネルラと一緒に、
死者達の汽車に乗る。
本当の幸いを探しに。
本当の幸いとは、
全ての人の一番の幸福のために
自分の生命を捨てる事だ。
この命題を、
受洗以前の私はお話の中の誇大妄想と思っていた。
イエスご自身がヨハネ伝の中で述べられている。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、
これよりも大きな愛は誰も持っていません。」
(ヨハネの福音書15;13)
ヨハネは言っている。
「キリストは、
私たちのために
ご自分のいのちをお捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。
ですから私たちは、
兄弟のためにいのちを捨てるべきです。」
(ヨハネの手紙Ⅰ3;16)
幼い姉と弟を連れた家庭教師が登場する。
船が難破し、家庭教師は悩む。
救命ボートに全員は乗り切れない。
皆が道を開けてくれてももっと大勢の子供や親がいる。
家庭教師には彼らを押し退ける勇気がない。
他の子供を押し退ける罪を
自分一人が背負ってでも姉弟を助けるか。
他の子供を押し退けてまで助けるよりは
皆一緒に神の御前に行くか。
どちらがこの子達の本当の幸いだろう。
親達は我が子を子供ばかりのボートに放す。
「主よみもとに近づかん」を歌いながら
乗客と船は水没した。
家庭教師も二人の子供と手をつないだまま沈んだ。
ここに登場する家庭教師の信仰は一途だと思う。
「ハレルヤ。」
3人は南十字星で汽車を降り、
十字架への行進に加わる。
ジョバンニは名残惜しくて彼らを引き止める。
「そんなのうその神さまだい。」
引き止めても彼らは聞かない。
家庭教師がジョバンニに問う。
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」
ジョバンニは答える。
「そんなんでなしに、
ほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしに、
たった一人のほんとうの神さまです。」
賢治も宣教師とそんな問答を交わしたのだろうか。
本当の神は主なる神一人だけ。
家庭教師の信仰告白が、ジョバンニの耳には
自己満足的に矮小化されてしまうのは何故だろう。
ジョバンニを
「ああ、そんなんでなしに・・・」
と失望させるものは何だろう。
「宗教の事は知らないが、
唯一の本当の神を探す」という人はたくさんいる。
探すからこそ色々な宗教や思想を転々とする。
人前で福音を語る時、
私の語っているキリストが
自分本位に歪められていないか気になる。
私は自分の信仰を
そこまで吟味した事があったろうろか。
信仰を告白し唯一の救い主を証ししても、
「ああ、そんなんでなしに、
本当のたった一人の神をさがしてるんです。」
と失望の嘆息が返ってきたら・・・。
私自身にとって
予定調和は信仰の敵。