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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

老母(ヨハネ19;25)

2006-08-16 02:48:32 | ヨハネ
イエスの十字架のそばには、
イエスの母と
母の姉妹と、
クロパの妻マリヤと
マグダラのマリヤが立っていた。(ヨハネ19;25)


映画『バラバ』を見ると、物語の始めに
遺体となった主イエスが十字架から降ろされる。
年老いた聖母が骸になった我が子を無言で抱き締める。
その映画を見る度に、
画面の中で身を屈めた聖母の姿が、
ある腰の曲がった母親の姿と重なって
目を背けたくなる。


小さく老いた母親は息子の病室に毎日やって来た。
面会時間の午後3時になるのを待っていて、
待ち兼ねて病室にやって来た。
そして面会時間が終わる夕方7時までずっと
息子の名前を呼び続けた。
手足を擦ったり握ったり。
顔を摺り寄せて息子の名前を呼び続けていた。


息子は目を開いたり開かなかったり、
話しかけて頷く事も稀にあった。
そんな何日かに1回程度の微細な反応を見る度に、
私達は母親に告げた。
少しでも希望を持って欲しかった。
「昨夜話しかけたら返事してくれましたよ。」
「手を握ったら握り返してくれました。」
私達の報告を聞く度に母親はさらに必死で呼び続け、
帰り際にはしょんぼり呟いた。
「何も返事してくれなかったよ。」
「何も言ってくれなかった。」
「今日も手を握り返してくれなかった。」


その当時は病院でも施設でも、
今よりも比較的簡単に身体拘束の紐が使われていた。
実際、急性期の脳外科では
自分で管を抜いてしまうと生命に関わる危険が多かった。


息子は意識がない訳ではなかった。
目を離すと鼻の管を抜いた。
じっと目で見ていても判らない程ゆっくりと、
抑制帯で縛られた手に僅かずつ顔を近寄せていく。
いつの間にか枕がずれていたり、
手を縛る紐が緩んでいたりすると、
彼は一瞬のうちに鼻の管を抜いた。
あんまり何回も抜くので鼻腔が傷ついて血だらけだった。
気道に痰が溜まったのかゼイゼイ鳴るので吸引すると、
鼻孔から血の塊が出てきた。
DIC。末期的な出血傾向が始まっていた。
鼻血で窒息する事態だけは避けなければならなかった。


深夜、私はその人に話しかけてみた。
「今日、お母さん来た?」
彼は頷いた。
昼間は目を開いていても何も反応しないのに、
夜になると彼は活動的だった。
「お母さんに返事してあげたの?」
彼は首を横に振った。
「どうして?」
首を傾げた。
「明日お母さんが来たら返事してあげなよ。」
彼は頷いた。
言葉が出ないのだろうか。
声が出ないのだろうか。
私は白衣の胸ポケットの名札を指差してみた。
「これ何て書いてある?読んでみて。」
彼はしばらく唇をむずむずと震わせた。
「い…の…う…え」
はっきり答えた。
私はもう一人の夜勤者と顔を見合わせた。
ちゃんと喋る事が出来る!
先輩が自分の顔を指差して言った。
「この顔、見た事ある?」
彼は答えた。
「変な顔。」
「明日お母さんが来たら、
お母さんって呼んであげるんだよ。ね。」
彼は頷いたが、
翌日も、そのまた翌日も、
何日経っても母親はがっかりして帰って行った。


ある日の午後、
私はベッドサイドで彼の手足を洗っていた。
そこに母親が面会に来て、傍らでしきりに言った。
「看護婦さん、ありがとう、ありがとうね。」


どうしてありがとうと言ったのだろう。
目の前で私が洗っていた息子の右手。
彼の浮腫んだ右手首には
紐の痕がくっきり残っていたのに。
あの小さな老母の目にそれが留まらない筈はないのに、
どうしてありがとうと言ったのだろう。
半身麻痺で身動きならない我が子を
こんな目に合わされてどうしてくれると
殴りかかってくれてもよかったのに。


数日後、紐は要らなくなった。
容態が悪化した彼は重患病棟に移され、
器械で強制的に呼吸を維持し、
心拍も乱れてきて除細動も何度か行なった。


彼が逝く前日、
準夜出勤の途中で私は母親と行き会った。
「お世話になったね。ありがとうね。」


その日、
必死で業務を時間内に終わらせて自宅で仮眠を取り、
夜が明けると朝一の電車で父の入院先に向かった。
現地に着くとすぐ、
いつも立ち寄る教会の聖堂に行った。
父の面会時間までしばらくボーっとした。
聖堂の壁には
14枚の古い木製レリーフ『十字架の道行き』が
掛けられている。
第13留。
イエスが十字架から降ろされる場面が
浮き彫りにされている。
十字架から降ろされたイエスの傍らの聖母と
とうとう独りぼっちになったあの小さな老母の姿が
重なった。


どうしてありがとうと言ったのだろう。
ありがとうと言われて、
言いそびれてしまった事が苦しい。
ありがとうと言われる前に言いたかった。


ごめんなさい。
許してください。

復活した右手(ヨハネ9;2~3、11;40)

2006-08-02 07:25:54 | ヨハネ
私が病人で無職だった時、
「人に迷惑ばかりかけて、だらしない」と
妹から言われた事があった。


療養中の私のために父が経済的な援助を
一時的にしてくれた時の事を言っている。
確かに妹の言うとおり、
私はそう言われても弁解の余地がない。


大した病気ではないが、
何度も腹を開いているうちに
仕事が出来ないほど体力が落ちた。


好き好んで腹を切った訳ではないし、
そのために妹が何か被害を被った訳でも
妹に何かを負担させた訳でもないが、
「あなたは人に迷惑をかけている。
 わたしは誰にも迷惑かけるような事はしていない。」
と言われたらその通りだなと思い腹も立たなかった。


やがて私は健康を回復し、
働けるようになって社会復帰した。
転職して看護助手から看護学生になった。
学校に合格したと聞いて妹が電話で言った。


「おめでとう。看護婦はいい仕事だ。」


その時になって猛烈に腹が立ち無言で電話を切った。
病気の時にはごくつぶし呼ばわり、
物事うまくいった時だけ身内面して機嫌取り。
これは家族ではない。
これが家族なら要らない。


しかし、私の神に対する態度も似たようなものだ。
調子の良い時は賛美、嫌な事があると
生きるのが嫌になったと文句ばかり言っている。


病気で身体に機能障害が生じると、
生活に支障と経済的な困難が起こり、
看病や介護の問題が出て来る。
私は自分が患者さん達と同じ精神的苦痛を
共有していると思っていた。
「皆に迷惑をかける」と思い悩み、実際に家族から
「あなたのせいでこんなに苦労をしている」と
言われ続けていた人が多かった。
身体的な苦痛に加えて
二重三重の精神的な苦痛を味わわなければならない。
誰だって好き好んで病気や障害を身に負った訳ではない。
そんな苦しい状況に追い込まれた人々のおかげで
私は仕事を得る事が出来、日々の糧を得る事が出来、
医療従事者として必要な技術と経験を得る事が出来た。
私は毎日、治療の見通しが立たない人にも、
病状の悪化した人にも、何食わぬ顔で、
何事もないかのように話しかけていた。
相手も壁に向かって声を殺して泣いていたのに
寝たふりをしたりする。
そんな患者さん達に比べたら、
私などは比較にすらならないお気楽な病人だった。
それでも当時の身の置き場のない気持ちを思い出す。
そんな現実の中では福音書の
「泣く者と共に泣き・・・」は通用しない。
自分の心身に痛み悩みが襲って来る度に
医師や看護師からさめざめ泣かれたい人はいない。
泣いてる暇があるなら何とかしてくれと思うのだ。
誰だって。


脳外科でまだ臨床1年にもならない頃、
右半身麻痺になった高齢の女性が
家族の手で外来に連れて来られた。
麻痺は転移性脳腫瘍から来るものだった。
脳のあちこちに腫瘍の影が点在して、
右だけでなく
どこにどんな麻痺が出ても不思議でない状態だった。
では癌の原発はどこか。
身体を診察しようとして、
衣服を脱がせた医師と看護師は愕然とした。
その人の右胸には
Lサイズのカリフラワー3つ分程の大きさの
癌が花開いていた。
家族に迷惑をかけたくないと
本人がひた隠しにしていたため、
娘さん達は気づかなかったという。
発見は遅過ぎ、既に全身に転移していた。
転移が脳に及んで麻痺が出現したために
初めて家族が異常に気づいて
本人を説得し、ようやく病院に連れて来たのだ。


私は毎日、暑くて寝苦しいでしょうなどと言いながら
その人のガーゼを交換していた。
胸の塊は猛烈な臭気を発していた。
娘さん達が臭い消しのためと言って大輪の百合を
個室に飾っていた。
強い百合の芳香と腫瘍の臭気が混ざって
深呼吸が出来ないほどだった。
ある日、その人が私に言った。


「私が悪いの。
 気持ち悪いでしょう。ごめんね。」


その時私はどんな顔をしただろう。
何故あの人は謝るのだろう。
あの人の体を占領している巨大な塊は誰の罪か。
癌の塊に全身の力を吸い取られ、
どんどん衰弱していくあの人が何故謝るのだろう。
誰よりも一番苦しい、辛い思いを味わっている人が。
深夜、帰りのタクシーの中で、
疲れて眠気の霧のかかった私の頭の中に
主イエスの言葉がぼんやりと浮かんだ。


「本人が罪を犯したからでも、
 両親が罪を犯したからでもない。
 神の業がこの人に現れるためである。」
            (ヨハネ9;3 新共同訳)


神の業とは何ですか。
主よ。どんなことですか。


思いつくままにノートに書いた。


深夜の勤務が開けて準夜で出勤すると、
あの巨大な塊に身体を占領されたその人の右手が
いきなり動き始めた。
左の大脳に比較的大きな転移があって、
右側の手は麻痺していた筈だった。
感覚も殆ど失われ、
ほんの僅かに肘関節を曲げる事が出来る程度で
だらりと下がっていた筈だった。
その人が身体の向きを変えようと動く度に、
麻痺した腕が捻れて身体の下敷きになるのを
注意しなければならない筈だった。
夕食の前にガーゼを交換していると
その人が「あのね、ほら」。
何か秘密を打ち明けるかのように、
右手を私に指し出した。
麻痺して上がらない筈の右手が45度まで上げられていた。
私は四肢のレベルをチェックし直し、記録した。
夕食の時、面会に来た家族が言った。
「ここに入院した時は
口の麻痺側から食べた物が溢れて、
つきっきりで拭いてやらなければならなかったのに、
今は全然必要ない。
よくなってきたんですね。ありがとう。」


そんな筈はない。
あれ程大きくなるまで腫瘍を放置して、
既に他の臓器に何ヶ所も飛び火している。
国立がんセンターに空床を確保出来るまで
点滴をして脳の浮腫を軽減させ、
進んでいた貧血を輸血で改善し、
身体の表面に花開き多量の浸出液が流れる癌の塊には
ガーゼを交換していただけだった。
外来に来た時は既に手遅れだったのだ。
動かない筈の右手が動いて
回復に見えても一時的にしか過ぎない筈だ。
そんな期待をして、
再び症状が悪化した時この人も家族も
どれだけ落胆しなければならないのだろう。


消灯前の検温の時、もう一度右手を挙げてみて貰った。
今度は90度まで上がった。
しかも今度は90度をキープしたまま指も自由に動く。
握って開いて。指を一本ずつ折って数える。
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10。
右手で物を持つ事も出来る。
四肢レベルをまた見直して記録した。
私は先輩に聞いた。
「どういうことなんでしょう。
脳の浮腫が取れて治ってきたって事ですか?
家族はそう言って喜んでたけど。」
「まさか。そんな楽観できる状態じゃないよ。」


転移した癌でその人の脳は侵食され
内側から押し潰されかけていたのに、
何が良くて急激に失われた機能が戻ってきたのか、
実際に目の前でしゃんと自力で起き上がり
右手にブラシを持って髪を整える姿を見ていると
私は不思議で仕方がなかった。
何が効いたんだろう、薬剤だろうか、輸血だろうか、
あと何があるだろう・・・
でも明日になったらまた再び麻痺が戻っていて
がっくり落ち込んでいるかも知れない・・・
その時はどうやって、何と話しかけたらいいのだろう。
私はその人がいる間ずっとそんな事ばかり考えていた。
翌日になっても、翌々日になっても、
復活した右手は復活したままだった。


不思議だ不思議だと驚いていた間、
私は自分で主なる神に何を問いかけたかなど
完全に忘れていた。
“不思議”がどの薬剤によるものなのか、
どの処置によるものなのか、それしか念頭になかった。
その人が国立癌センターに移って行った数日後、
私は当時自分で書き綴っていた聖書通読日記に
新しく何か書き込もうとして読み返した。


「この人が生まれつき目が見えないのは、
 だれが罪を犯したからですか。
 本人ですか。それとも、両親ですか。」
 イエスはお答えになった。
「本人が罪を犯したからでも、
 両親が罪を犯したからでもない。
 神の業がこの人に現れるためである。」
          (ヨハネ9;2~3 新共同訳)
神の業とは何ですか。
主よ。


ページの最後に自分の手で書き込んだその一文を読んで
耳元で言われた気がした。


「もし信じるなら、
 神の栄光が見られると、
 言っておいたではないか」
            (ヨハネ11;40 新共同訳)


祈ると言っても文句ばかり言い、
散々不満をぶつけて言いたい放題にぶちまけた末、
主なる神が私に言おうとされる事に私は
全く耳を貸していなかった。
(だめだめですな。こういう信仰ってどうなの。)


しばらく経って娘さん達が私達の病棟を訪ねて来た。
癌センターに移ってすぐにあの巨大な塊を切除し、
傷が癒えた頃にその人は呼吸不全で亡くなっていた。
ほんの僅かな時間だったが、
あの癌の塊を家族にひた隠しにして
「迷惑をかけたくない」と思い悩んでいた人が
家族に心を開いて時間を共有する事が出来た、
発見が遅れたのは無念だが最後にいろいろ話が出来た、
親子で僅かでも残りの時間を共にする事が出来たので
悔いはない、と娘さん達は言った。


悔いが残らない筈はない。
どれだけしても悔いは残る。
それでも最後に少しだけ話したり
一緒に時間を過ごす事が出来た。
それは大きな慰めだったのだ。
家族にとっても、本人にとっても。

アンデレの役割(ヨハネ12;20~26)

2006-07-23 08:18:14 | ヨハネ
イエスを救い主と認めて従った最初の二人のうち、
一人はアンデレだった。
時は10時、と記されているので
もう一人はきっと筆者ヨハネ自身だ。
ペテロは2番目。


共観福音書では12人の弟子のうち、
ペテロ、ヤコブ、ヨハネの存在は大きい。
重要な場面には必ずイエスの側に3人がいる。
ヤイロの娘を甦らせた時。
山に登り光り輝いて変容し、モーセ、エリヤと語った時。
受難の直前ゲッセマネの園で血のような汗を流して祈った時。
特別な時に側近くいる事を許されたのは
ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけ。


アンデレはその中に含まれなかった。
しかしヨハネの福音書で筆者ヨハネは
アンデレの動きに細かく注目している。


そもそも重要な役割を担う弟子3人を
イエスに引き合わせたのはアンデレだ。
共観福音書には記されていないが、
5つのパンと2匹の魚を持つ少年を
イエスに紹介したのはアンデレである。
イエスが「一粒の麦」を語られたのは、
ギリシャ人達からイエスとの面会を求められたピリポが
アンデレに紹介した時だ。
ピリポは他の誰でもなくアンデレに相談した。
こんな具合だったのだろうか。
「イエス様に会いたがっている人がいるけど、どうしよう。
アンデレさんなら快く紹介してくれそうだ。」
アンデレは常に人々をイエスに紹介し、つなげていく。
ヨハネはそこに注目している。
イエス・キリストとの出会いを望む者にとって
アンデレは窓口役、相談役、世話役を果たす重要な人物だ。


にも拘らずアンデレは差し置かれ、
ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人ばかりが側近く用いられた。
妬みや不満を抱いてもいいはずだが
アンデレは進んで他の人を招き入れ、イエスを独占しない。
控えめな対人性、どんな人物でも厭わず受け入れて
イエスに紹介してくれるアンデレの、
温かく柔和な人間像が筆者ヨハネの視点を通して読み取れる。
ヨハネはアンデレを尊敬し、
二人の仲が良かった事が文章から感じられる。


教会に来てみたい人があれば、
アンデレの役割をする人が必ず必要だ。
教会は部外者にとって敷居高く得体の知れない場所だ。


こんな自分を受け入れてくれるだろうか、
締め出されないだろうか、
引き摺り込まれないだろうか、
騙されないだろうか、
攻撃されないだろうか、
失望させられないだろうか・・・。


新参者の警戒心を解きほぐして教会につなぐ人は
アンデレと同じ役割を担っている。
新しい来会者と教会員との間に、
無駄な誤解や摩擦が生じて感情を傷つけたり、
失望させないようにとりなすのは神経の磨り減る仕事だ。
教会にはそんな苦労多く目立たない、
しかし不可欠な役割を進んで担う人がたくさんいる。


私が始めて母教会を訪れた時、
教会員のあの人もこの人も皆がそんな働きをして
一緒に歩こうと心を砕いて下さった。
キリストに出会っていながら
自分自身の信仰を見い出す事が出来ないでいた私の
疑問や猜疑心、愚痴、あらゆる問題を快く受け止めて
一緒に祈って下さった。
「天の父なる神様、
井上さんが初めて教会に来られました。感謝します。
お導き下さい、この方のために私は何をすべきでしょうか。」
初めて参加した夜の集会の、あの祈りこそがアンデレの働き、
最初の弟子の役割だったのだ。
誰かを教会に迎える時はアンデレの事を思い出そう。

ヨハネの不思議(ヨハネ21;1~14)

2006-07-09 14:44:06 | ヨハネ
ヨハネの福音書は不思議だ。
イエスの横顔が間近に見えるような気がする。
身近に接触し、共に行動した者にしかできない描き方だ。
復活というある意味信じがたい超自然的な事にも
「そうか、甦られたのだな」と
あっさり納得してしまうのは何故だろう。
復活に様々な解釈や理屈を付け加えたり、
否定する事の方が不自然に思えてくるから不思議だ。
なぜなら復活の事実がなければ、
イエスを裏切ったペテロが後に初代教会を育て、迫害に耐え、
殉教に至るまでの心理的変化が、全く辻褄合わなくなる。
私は心理的な矛盾に目をつぶる事ができない。


ペテロは土壇場でイエスを裏切った自分の弱さを
どう感じていたのだろう。
自分が師を裏切り見殺しにしたという意識は、
どれ程の自己嫌悪と精神的な苦痛をもたらしただろう。
イスカリオテのユダは自殺した。
イエスを3回も否認したペテロの後悔は、
ユダの良心の呵責と同じかそれ以上ではなかっただろうか。
イエスが十字架の上で息を引き取られた後、
ペテロは失意と自己嫌悪のどん底にいたに違いない。


もしイエスの復活が作り事だったら…?
当時の社会で
まだ新興宗教程度にしか認められていなかったキリスト教の、
イエスを失って四散した仲間、
裏切り者のレッテルを貼られたであろうペテロが
どんな立場に立たされていたか、
想像する事は難しくない。
教祖を失った新興宗教の残党の
でっちあげた復活に耳を貸すほど、
世の中は甘かったと言えるだろうか。
ペテロがイエスを3度否認した事は、
当時の社会に広く知れ渡り、
ペテロがやって来ると
人々が鶏の鳴き真似をして囃し立てたという伝説が
残っているらしい。この伝説は案外事実かも知れない。
群集心理の残酷さが昔も今も変わっていない事を示す、
私達にとっては身近なエピソードだ。


もしイエスの復活が作り事だったら…?
自分で捏造した幻想のために、
ペテロは心血を注いだのだろうか。
自分ででっち上げた復活のために、
ペテロは迫害も拷問も厭わず命まで差し出したのだろうか。
そこまで自分で自分を騙す事が人間にはできるものだろうか。
自分で自分を騙す者の言葉が多くの人々に救いの希望を与え、
改心に導く事が可能だろうか。
イエスの死後ペテロ達を取り巻く現実は、
私が想像する以上に過酷なものだったはずだ。
もし復活が現実に起こった事実でなかったならば、
ペテロや他の弟子達のその後の行動の上に
考えようのない心理的な矛盾が次々と生じてくる。
ペテロが甦られたイエスと出会い、
裏切りを赦して頂いたという事実が無ければ、
その後のペテロの行動が何もかも、
心理的に理解できなくなってくる。


もしイエスの復活が作り事だったら…?
十字架の史実は風化し、ペテロは失意のうに生涯を終え、
初代キリスト教会が生まれる事もなく、
弟子達や信徒の殉教もなく、
新約聖書が書き残される事もなく、
キリスト教自体が今日まで存続できなかったはずだ。
理屈ではない。
心理的な矛盾を孕んだ信仰が
2000年もの長い間矛盾を暴かれる事もなく
人々の共感を呼び、苦しみ悩む者の心を癒し、
慰めでいられる事などあり得ないと私は思う。


私達は2000年後の今、現実に聖書を手にとって読んでいる。
その中で甦られたイエスは
あまりにも生き生きと気さくに話しかけてくる。


「やあみんな、何か魚(魚は直訳ではおかず)はないのか?」
「船の右側に網を打ってごらん。そうすれば捕れるから。」
「今捕った魚を何匹か持っておいで」
「さあ、朝飯にしよう。」


自ら火を起こして
岸に上がって来た弟子達を労おうとするイエスの姿が
ありありと浮かんでくるではないか。


「わたしの羊の世話をしなさい。」
イエスはペテロの弱さも後悔も全てご存知で
なお見放さず御業のために働かせてくれると告げられた。
ペテロの中に深い確信と
命を捨てるほどの強い使命感が生まれた事は、
容易に想像でき、共感できないだろうか。


これがヨハネの不思議だ。
ヨハネの福音書や手紙を読むと、
イエスの横顔が間近に親しげに見えてくる。
若かった頃の自分がイエスと仲間達と共に歩いた日々を、
ペテロの死後
ひとり回想する筆者ヨハネ自身の姿も目に浮かんでくる。
イエスの横顔を間近で見たくて、私はまたヨハネ伝を開く。

1991.12.22.(ヨハネ20;9)

2006-07-01 14:17:09 | ヨハネ
イエスが来られ、
彼らの中に立って言われた。
「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20;9)


キリストとの出会いは私にとって
気持ちのいいものではなかった。

キリストは小児期の惨めな記憶と同居している。
何かの理由で平手打ちされた後、
深夜になると決まって目が覚めた。
喉の奥に熱っぽいものが流れて口の中に鉄錆臭い味がした。
枕とシーツが血でべっとりしていた。
寝具を汚して両親に叱られる事を心配しながら
ティッシュを探した。
拭ったところでシーツや枕に染み込んだ血は隠せないが。
家族全員が寝静まった暗闇の中で
鼻を押さえて血が止まるのを待った。
朝になって母が私を見るなりぶつぶつ言った。
「あんたのおかげで気分が悪くなった。」
私は復活したイエスに無性に会いたかった。
未熟な信仰の始まりというよりも
単なる逃避に過ぎなかったが、
抵抗できない惨めな年齢の間ずっと
両親に望めない「理解者」を
私は復活したイエス・キリストに期待していた。


可哀相な子供だろうか?これ。
何十年もの時間が経過した今になっても、
私の中には鼻血をだらだら垂らしたまま
暗闇でキリストを待つ5歳の自分がいる。
キリストも5歳の自分も
古い記憶の中から姿を消そうとしない。


私は5歳の自分に言う。
待っていてもキリストも誰も助けに来ないよ。
血を飲み込んで嘔吐しないように下を向いて
鼻の脈打つ場所を押さえなさい。
熱が出たら自分で氷枕を作りなさい。
都合のいい期待をしてはいけない。
生まれてきたことにも
生かされていることにも
文句を言ってはいけない。


5歳児の怨霊はこちらに背中を向け、
今も壁に向かって座っている。
何かの拍子に息を吹き返そうとするが、
キリストがその首をしっかりつかんでいる。


1991年12月22日
私は信仰を告白して洗礼を受けた。
私の中の5歳児は哀れむに値しない。
生まれてきたことが不満なだけの怨霊を
私は自分の足で踏み潰し
黙らせなければならない。