あなたのみことばは、
私の上あごに、なんと甘いことでしょう。
蜜よりも私の口に甘いのです。(詩篇119;103)
洗礼を受けた時私はまだ聖書をちゃんと読んだ事がなかった。
私にとって聖書を読むという行為は苦行そのものだった。
分厚くて辞書のようによそよそしくて、数頁読んで中断し、
再び続きを読もうと手に取っても
どこまで読んだのだったか探せない。
同じ名前の登場人物が何人もぞろぞろ出て来て混乱する。
しかも人名と地名が同じだったりする。
皆、どうやって工夫してクリアしたんだろう。
私はずいぶん試行錯誤を繰り返して、
初回の通読にはまるまる1年間かかった。
私が受洗した当時、教会では年間聖書通読が奨励されていて、
教会員達は大人から子供まで
年間通読というイベントに参加していた。
階段の踊り場に壁一面の大判方眼紙を貼り出して、
創世記からヨハネの黙示録までの目次を書き出し、
参加者は自分で名前を書き込んで、
読み終わった項目に自己申告でシールを貼っていく。
年末に通読が完了した人はプレゼントを貰える。
子供用の年間イベントに大人も便乗参加していたのだ。
読め読めと強制されれば反発のし甲斐もあったが、
誰からも強制されなかった。
ただ皆が聖書を大事そうに、しかも面白そうに読んで、
お互いに楽しく感想を語り合っているのを
私は恨めしく横目で見ていた。
そこで創世記の初めから読んでは見たが、
まず人名で挫折。(カタカナ苦手。)
教会で人名索引付きの辞書を借りて何とかクリアできた。
しかし今度は同じ人名が何人も出て来て混乱し、中断。
友達に勧められた小型版コンコルダンスを使ってクリアした。
しかし登場人物の姻戚関係が錯綜してて
ますます混乱、収拾つかず。
何だこりゃー混線かタコ足配線か!また中断。
(重婚反対!何が何だかわからない!
一体誰が誰の女房で誰が誰の子供だ?)
また一から出直し。
今度は創世記の最初から手書きで系図を書き取りながら
親子関係、姻戚関係で生じる利害や人間関係を読み取る。
ストーリー性のあるところはクリアできた。
途中、レビ記と申命記で律法の重複した部分を一礼して通過。
(どうしても解らない部分は
謙虚に一礼して通過した方が楽しめる。)
サムエル記、列王記まで来ると壮大な大河ドラマになって
何だか人物が皆生き生きしてきて、
人間像をすごく親しく感じてしまって、
好きになってしまって、
完全にはまってしまった。
そこらの歴史小説なんかよりはるかに面白い。
やみつきになるほど面白い。
そう、聖書はすっごく面白い!
読み耽りすぎて酔っぱらった。
通勤の地下鉄に揉まれながら心は中近東の荒野に飛び、
目の前を羊とらくだとロバがうろうろしていた。
旧約聖書を読むための資料を自分用に作っている途中で、
ワープロ器が発狂して数回文字化けした。
(パソコンの普及していなかった時代のワープロ専用器)
だんだん資料作りにも熱が入って系図だけでなく、
預言者と列王記の対応表や旧約の中のメシア記事など、
出来上がったノートも増えた。
作った資料そのものはあまり重要ではなく、
作る過程で聖書が身近に親しくなった事の方が収穫だった。
完成したものよりも、
作る過程そのものが楽しくて役に立つのだ。
アダムがキリストにつながったらもう用はない。
文書の墓場に一応保存。
詩篇や預言書も、何も考えずにただ読んでいくと
キリストを表わすキーワードが
随所にちりばめられている事に気づいて、
また読み直した。
あっここのところはイエス・キリストの事を言ってる!
ここも!ここも!
と、旧約の中でキリスト探しをしているうちに
ただ愚痴っぽくて湿っぽくて難しいだけの詩篇や預言書が、
やけに親しげに感じるようになってきた。
そして新約の冒頭のマタイ1章の系図。
訳の解らない人名の羅列に見えたあの系図の、
殆どの人物の人間像やエピソードが印象に残ってて、
むしろ楽しい。
自分が読み進みながら図に書いてきたものが、
マタイの冒頭に整理されたものと合っていたので、
変な達成感に浸ってますます楽しくなった。
(びょーき。)
聖書が自分のものになり、楽しんで読めるようになると、
ヒマ潰しに読み捨てるための新刊本を
買い漁らずに済むようになった。
それ以前は毎月の書籍代が数万円を下った事はなかった。
私は元々ひどい活字中毒で、
生活費を削ってでも本を買っていた。
書店に毎月並ぶ新刊本を何十冊も物色し、
当たりだの外れだの文句を言って読み終わると
片っ端から古本屋に売り払い、
売って得た小銭でまた本を買った。
今はよほど欲しいと思った本しか買わなくなった。
聖書一冊あればこと足りている。
しかし一日に読む時間は限られていて、
通勤の待ち時間や移動中を活用したいが、
分厚い聖書をラッシュ時に持ち歩くのは無理だ。
文庫本程度の厚さなら揉みくちゃにされても片手で読めるし、
急ぐ時ポケットに捻じ込む事も出来る。
ギデオンの新約聖書のように、
旧約聖書もあれくらいに薄く分冊されたのがあれば。
CLCに行ってみたが、そんな都合のいいものあるはずない。
売ってないものは自分で作るべし。
一冊の聖書を
区切りのいいところで均等に裂くと、5つになった。
5つの断片の一つ一つに
布の表紙を貼って木工用ボンドで製本し、
5冊の薄い文庫本もどきが出来た。
カバンやリュックのポケットに入れて持ち歩ける♪
通勤途中の待ち時間や待ち合わせの喫茶店で、
入院中や通院の待ち時間、
夜眠れない時にベッドサイドで
少しでも暇があれば手に取り、読み耽る。
何度も通読しているうちに、
聖書を7つに分けて読む習慣が自然とついた。
旧約は四つ。
初めの二つは歴史で一つめが創世記から士師記まで、
二つめはルツ記からエステル記まで。
壮大なスケールの大河ドラマだ。
三つめは祈りと詩。
ヨブ記から詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌まで。
四つめは預言書。
預言書にメシアの記事を探す。イザヤ書からマラキ書まで。
新約は三つ。
最初にマルコの福音書。
次にマタイの福音書、ヘブル、ヤコブ、ペテロの手紙まで。
これらはマタイのグループ。
ユダヤ人に向けて書かれた事を念頭に置いて読む。
再びマルコの福音書を読んで、
次にルカの福音書、使徒行伝とパウロ書簡。
これがルカのグループ。
ユダヤ人以外全ての異邦人、
つまり私達に向けて書かれた事を念頭に置いて読む。
マルコだけ2回も読むのは、共観福音書の原形だから。
三つめはヨハネのグループ。
ヨハネの福音書、ヨハネ書簡、ユダの手紙、ヨハネの黙示録。
既に信徒となった者達に向けられた、
群れの内外に生じる困難と迫害を克服すべく書かれたという
慰めと激励の書。
何度も読んでるうちに、
自分の読みやすい順番に読む癖がついて自然とこうなった。
メノナイト教会の兄弟姉妹の皆さんどうしてますか。
もっと楽しめる工夫があったら教えて下さい。
聖書全体の中では、
私はヨハネの福音書とヨハネの手紙が好きだ。
ヨハネの言う事は何でも厳しいけど、
イエス・キリストの横顔や後ろ姿が
間近に見えるような気がする。
今日も聖書をカバンに突っ込んでいる。
聖書を持ち歩くのは、
ポケットにアメが入っているのと同じ。
おやつを隠し持って遊びに行く子供のようにうきうきする。
私の上あごに、なんと甘いことでしょう。
蜜よりも私の口に甘いのです。(詩篇119;103)
洗礼を受けた時私はまだ聖書をちゃんと読んだ事がなかった。
私にとって聖書を読むという行為は苦行そのものだった。
分厚くて辞書のようによそよそしくて、数頁読んで中断し、
再び続きを読もうと手に取っても
どこまで読んだのだったか探せない。
同じ名前の登場人物が何人もぞろぞろ出て来て混乱する。
しかも人名と地名が同じだったりする。
皆、どうやって工夫してクリアしたんだろう。
私はずいぶん試行錯誤を繰り返して、
初回の通読にはまるまる1年間かかった。
私が受洗した当時、教会では年間聖書通読が奨励されていて、
教会員達は大人から子供まで
年間通読というイベントに参加していた。
階段の踊り場に壁一面の大判方眼紙を貼り出して、
創世記からヨハネの黙示録までの目次を書き出し、
参加者は自分で名前を書き込んで、
読み終わった項目に自己申告でシールを貼っていく。
年末に通読が完了した人はプレゼントを貰える。
子供用の年間イベントに大人も便乗参加していたのだ。
読め読めと強制されれば反発のし甲斐もあったが、
誰からも強制されなかった。
ただ皆が聖書を大事そうに、しかも面白そうに読んで、
お互いに楽しく感想を語り合っているのを
私は恨めしく横目で見ていた。
そこで創世記の初めから読んでは見たが、
まず人名で挫折。(カタカナ苦手。)
教会で人名索引付きの辞書を借りて何とかクリアできた。
しかし今度は同じ人名が何人も出て来て混乱し、中断。
友達に勧められた小型版コンコルダンスを使ってクリアした。
しかし登場人物の姻戚関係が錯綜してて
ますます混乱、収拾つかず。
何だこりゃー混線かタコ足配線か!また中断。
(重婚反対!何が何だかわからない!
一体誰が誰の女房で誰が誰の子供だ?)
また一から出直し。
今度は創世記の最初から手書きで系図を書き取りながら
親子関係、姻戚関係で生じる利害や人間関係を読み取る。
ストーリー性のあるところはクリアできた。
途中、レビ記と申命記で律法の重複した部分を一礼して通過。
(どうしても解らない部分は
謙虚に一礼して通過した方が楽しめる。)
サムエル記、列王記まで来ると壮大な大河ドラマになって
何だか人物が皆生き生きしてきて、
人間像をすごく親しく感じてしまって、
好きになってしまって、
完全にはまってしまった。
そこらの歴史小説なんかよりはるかに面白い。
やみつきになるほど面白い。
そう、聖書はすっごく面白い!
読み耽りすぎて酔っぱらった。
通勤の地下鉄に揉まれながら心は中近東の荒野に飛び、
目の前を羊とらくだとロバがうろうろしていた。
旧約聖書を読むための資料を自分用に作っている途中で、
ワープロ器が発狂して数回文字化けした。
(パソコンの普及していなかった時代のワープロ専用器)
だんだん資料作りにも熱が入って系図だけでなく、
預言者と列王記の対応表や旧約の中のメシア記事など、
出来上がったノートも増えた。
作った資料そのものはあまり重要ではなく、
作る過程で聖書が身近に親しくなった事の方が収穫だった。
完成したものよりも、
作る過程そのものが楽しくて役に立つのだ。
アダムがキリストにつながったらもう用はない。
文書の墓場に一応保存。
詩篇や預言書も、何も考えずにただ読んでいくと
キリストを表わすキーワードが
随所にちりばめられている事に気づいて、
また読み直した。
あっここのところはイエス・キリストの事を言ってる!
ここも!ここも!
と、旧約の中でキリスト探しをしているうちに
ただ愚痴っぽくて湿っぽくて難しいだけの詩篇や預言書が、
やけに親しげに感じるようになってきた。
そして新約の冒頭のマタイ1章の系図。
訳の解らない人名の羅列に見えたあの系図の、
殆どの人物の人間像やエピソードが印象に残ってて、
むしろ楽しい。
自分が読み進みながら図に書いてきたものが、
マタイの冒頭に整理されたものと合っていたので、
変な達成感に浸ってますます楽しくなった。
(びょーき。)
聖書が自分のものになり、楽しんで読めるようになると、
ヒマ潰しに読み捨てるための新刊本を
買い漁らずに済むようになった。
それ以前は毎月の書籍代が数万円を下った事はなかった。
私は元々ひどい活字中毒で、
生活費を削ってでも本を買っていた。
書店に毎月並ぶ新刊本を何十冊も物色し、
当たりだの外れだの文句を言って読み終わると
片っ端から古本屋に売り払い、
売って得た小銭でまた本を買った。
今はよほど欲しいと思った本しか買わなくなった。
聖書一冊あればこと足りている。
しかし一日に読む時間は限られていて、
通勤の待ち時間や移動中を活用したいが、
分厚い聖書をラッシュ時に持ち歩くのは無理だ。
文庫本程度の厚さなら揉みくちゃにされても片手で読めるし、
急ぐ時ポケットに捻じ込む事も出来る。
ギデオンの新約聖書のように、
旧約聖書もあれくらいに薄く分冊されたのがあれば。
CLCに行ってみたが、そんな都合のいいものあるはずない。
売ってないものは自分で作るべし。
一冊の聖書を
区切りのいいところで均等に裂くと、5つになった。
5つの断片の一つ一つに
布の表紙を貼って木工用ボンドで製本し、
5冊の薄い文庫本もどきが出来た。
カバンやリュックのポケットに入れて持ち歩ける♪
通勤途中の待ち時間や待ち合わせの喫茶店で、
入院中や通院の待ち時間、
夜眠れない時にベッドサイドで
少しでも暇があれば手に取り、読み耽る。
何度も通読しているうちに、
聖書を7つに分けて読む習慣が自然とついた。
旧約は四つ。
初めの二つは歴史で一つめが創世記から士師記まで、
二つめはルツ記からエステル記まで。
壮大なスケールの大河ドラマだ。
三つめは祈りと詩。
ヨブ記から詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌まで。
四つめは預言書。
預言書にメシアの記事を探す。イザヤ書からマラキ書まで。
新約は三つ。
最初にマルコの福音書。
次にマタイの福音書、ヘブル、ヤコブ、ペテロの手紙まで。
これらはマタイのグループ。
ユダヤ人に向けて書かれた事を念頭に置いて読む。
再びマルコの福音書を読んで、
次にルカの福音書、使徒行伝とパウロ書簡。
これがルカのグループ。
ユダヤ人以外全ての異邦人、
つまり私達に向けて書かれた事を念頭に置いて読む。
マルコだけ2回も読むのは、共観福音書の原形だから。
三つめはヨハネのグループ。
ヨハネの福音書、ヨハネ書簡、ユダの手紙、ヨハネの黙示録。
既に信徒となった者達に向けられた、
群れの内外に生じる困難と迫害を克服すべく書かれたという
慰めと激励の書。
何度も読んでるうちに、
自分の読みやすい順番に読む癖がついて自然とこうなった。
メノナイト教会の兄弟姉妹の皆さんどうしてますか。
もっと楽しめる工夫があったら教えて下さい。
聖書全体の中では、
私はヨハネの福音書とヨハネの手紙が好きだ。
ヨハネの言う事は何でも厳しいけど、
イエス・キリストの横顔や後ろ姿が
間近に見えるような気がする。
今日も聖書をカバンに突っ込んでいる。
聖書を持ち歩くのは、
ポケットにアメが入っているのと同じ。
おやつを隠し持って遊びに行く子供のようにうきうきする。