言葉って面白い!

この日本語、英語でなんていうの?その奥に深い文化の違いが見えてきませんか。

残暑見舞い申し上げます

2006年08月31日 | 四季
残暑見舞い申し上げます。

暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。
この残暑見舞いは、立秋を過ぎてから八月いっぱいに出すのが礼儀だそうです。
つまり今日までです。
これに対して暑中見舞いは、七月の中旬、梅雨が明けていよいよ暑くなり始めた頃から立秋までの間に出します。

しかし、暑さの実感から言うと、少しずつずれている気がします。
「暑中見舞い」の本来の心としては、本格的な夏の暑さが訪れて夏ばてとなった頃に「お体をお大事に」と見舞うという意味合いでしょう。
また「残暑見舞い」は、もう秋が来たと思ったのにまだ暑さが続いている、もういい加減早く秋が来てほしいですね、という気分でしょう。
立秋を過ぎてから「残暑見舞い」を出すというのもその気持ちの表れです。

ところが本当の季節の進行はどうでしょうか。
今年は特に梅雨明けが遅かったこともあり、本格的に「暑い」という日が来たのは八月に入ってからでした。
立秋を過ぎてからむしろ「本格的な夏」という感覚でした。
そして天気予報を見ると、九月に入った来週も多くの地域で三十度を越す日が続きそうです。
そう考えると、立秋を過ぎてから八月いっぱいくらいが「暑中見舞い」で、9月に入ってからも暑い日が続くのに対して「残暑見舞い」と言う方が、体で感じる暑さの感覚にはぴったり来るような気がします。

この「言葉と季節感のずれ」はどこからくるのでしょうか。

季節感の早どりが好きな日本人とはいえ、奇妙な現象だと思います。






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独占インタビューっていうけれど

2006年08月30日 | 言葉
電車で雑誌の広告を見ていると、あっちの雑誌もこっちの雑誌も「ハンカチ王子」こと斉藤投手一色です。
大変な人気ぶり。
進学か、プロ入りか、おせっかいにもメディアはしきりに心配しています。

ところで・・・
不思議な現象を見ました。
「斉藤投手、独占インタビュー!」という広告の隣に、
「本誌独占!佑ちゃんにインタビュー」
とあるのです。

あれ?独占が二つ?
それって独占とはいわないのでは?

そう思ってさらに探してみると、あるある!
「独占取材!斉藤の素顔」
「佑ちゃんの心、独占インタビュー」

うーん・・・
独占じゃないインタビューを見つける方が難しいくらいです。

要は、ある雑誌が他の社を入れずにインタビューしたら独占なんですね。
その三十分後に、別の雑誌がインタビューして同じようなことを聞いても、やはり独占になるようです。
結局共同記者会見以外は、全部独占インタビューなのでは???

そういえば、映画館でこれと同じような感覚に襲われることがあります。
「全米ナンバー1ヒット」
「史上最高の映画」
「空前の大ヒット」
などの看板のつく映画のなんと多いこと。
まるで、アメリカでは全米ナンバー1ヒット映画が、毎日何十本も生まれているかのようです。

結局、毎週のランキングで一回でも一位をとれば「全米ナンバー1」。
総合で一位でなくても、別の指標で一位になればそれも「全米ナンバー1」なのでしょう。

誇大広告氾濫の時代。
「全米ナンバー5位にランクイン」
などと、正直にうたってみたら意外にリアリティがあって説得力があるし、その方が目立つのでは、とも思うのですが、いかがなものでしょうか。




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縁起かつぎも使いよう

2006年08月28日 | 日本人
日本人はよく縁起をかつぎます。
もともとは仏教用語ですが、通常「縁起をかつぐ」という時は、単に吉凶の兆しのことを意味します。

例えば、関東ではウナギをさばく時、背の方を開きます。
腹を開くと、「切腹」を連想され、武士にとっては縁起が悪い、というわけです。
武士の町、江戸ならではの考え方です。

もう一つ、大阪は、かつて「大坂」と書きました。
江戸後期から「大阪」が使われ始め、明治になってから現在の字に統一されていきます。
これも実は縁起かつぎからきています。
「坂」の字は「土に返る」つまり死を暗示するから縁起が悪い、というわけです。
漢字を使う国ならではのこだわりです。

数字の四は「死」と音が似ているから縁起が悪い。
同じく九は「苦」と似ているからやはり縁起が悪い。

トンカツは「勝つ」とつながるから縁起がよい。
鯛は「めでたい」、昆布は「喜ぶ(ヨロコンブ)」。

ほとんど駄洒落のようですが、神への信仰という精神的な支柱を持たない日本人にとっては、こうした「縁起かつぎ」が暮らしの中の精神安定剤として重要な役割を果たしているのでしょう。
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ハンカチ王子ブームの裏に

2006年08月27日 | スポーツ
夏の甲子園で初優勝を遂げた早稲田実業の斉藤投手が大人気です。
ハンカチで汗をぬぐう姿が印象的なことから、ハンカチ王子などと呼ばれ、高校生からおばちゃんまで全国の女性が斉藤投手に熱い視線を送っています。
そのブームを受けて、ハンカチが売れているというから、日本人のブーム志向を再認識する思いです。

私が興味深く感じたのは、昭和四十四年の決勝戦との違いです。
この年の夏の甲子園の決勝も、松山商業・井上投手と三沢高校・太田投手の投げあいとなり、延長十八回で勝敗決せず、翌日再試合となっています。
長い高校野球の歴史の中でも、決勝戦で引き分け再試合になったのは、この昭和四十四年と今年の二回だけだそうです。

昭和四十四年の時に、日本中の目を釘付けにしたのは、敗れた三沢高校の太田投手の方でした。
初の東北勢の優勝をかけて一人で投げぬいた太田投手。
翌日の再試合で力尽きて敗れ、試合後にマウンドの土を集めている場面は、日本中の涙を誘ったといいます。

それから四十年近くの月日が流れ、歴史上二度目の決勝戦再試合。
今回、圧倒的にブームとなっているのは、三連覇の夢を絶たれた駒大苫小牧の田中投手の方ではなく、優勝した斉藤投手の方でした。

女性からの人気の裏には、当然男性としての魅力があるのは間違いないのでしょう。
太田投手も甘いマスクで人気者になったものでした。

しかし、それだけでしょうか。

駒大苫小牧の田中投手も相当に魅力的な人物です。
準決勝くらいまでは、メディアの注目はもっぱら田中投手に集まっており、寡黙な斉藤投手はむしろ影が薄いくらいでした。
それが、優勝した途端にこの人気です。

私は、今の斉藤投手の人気の裏には、この四十年の日本人の価値観の変化があるように思えてなりません。
「判官びいき」という言葉もあるように、かつて日本人は「戦いに敗れた者」に共感し、それを美化して伝説の人物に仕立てる傾向にありました。
歴史上の人物で言えば、源義経、楠正成、真田幸村、など、人気者の多くが敗れ去った悲劇のヒーローたちです。
太田投手が大人気になったのも、甘いマスクもさることながら、「全力を出して戦い敗れた悲劇のヒーロー」という看板が大きかったような気がします。

しかしここ十数年で、日本人の「判官びいき」の価値観はずいぶん薄れたような気がします。
国際標準の価値観に染まった結果なのでしょうか、やはり努力の末に勝利をモノにしたヒーローに人気が集まる傾向が強いようです。

もし、今回斉藤投手が力尽き、田中投手の力投によって駒大苫小牧が三連覇を達成し、深紅の優勝旗を北海道にもたらしたとしたら…

はたしてメディアはどちらを追いかけたでしょうか。
早稲田実業の門の前に、あれほどの人だかりができたでしょうか。
ハンカチは、ブームになったでしょうか。

「判官びいき」の価値観こそ素晴らしい、と言うつもりはありません。
敗れた者への賞賛は「勝敗は二の次」といった異なる価値観へと変化しがちで、それが勝負事の世界で日本人が世界に遅れをとってきた一因であったとも考えられます。
勝負事の世界で、勝者が輝いて見えるのは当然のことでもあります。

しかし、一方で「判官びいき」の心は、日本人が世界の中で持っているアイデンティティの一つでもあったような気がするのです。
勝者ばかりに注目し、勝負に敗れた瞬間に敗者のことは忘れ去っていく。
何か、日本人として大切にしていたものを一つ失いかけているような気がするのです。

ハンカチ王子もよいのですが、三連覇の夢を絶たれた田中投手にも、かつての太田投手と同じような眼差しを向けてもらいたい。
私は、日本の心を保っていたい一人として、そう思います。

http://blog.goo.ne.jp/syusakuhikaru/e/b62f4315dcc9266946379ba1566a410d
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冥王星が惑星でなくなった日

2006年08月25日 | 星の話し
冥王星が惑星ではなくなりました。

でも今回の決定は、奇妙なことだと思いました。
言葉の定義というのは、あのように科学者の価値観で科学的に決めるべきものなのでしょうか。
大きさ、軌道のあり方。
そういう物理的な定義である必要があるのでしょうか。

惑星の定義は、
「惑星の周囲を公転する星。太陽系では、水星・金星・地球・火星・木星・土星・天王星・海王星・冥王星などの総称。(広辞苑)」

これでよいのではないでしょうか。

惑星の語源は「惑う星」。
地球から見て、公転周期の違いからふらふらと空をさまようように動くことからつけられた言葉です。
それなら冥王星も立派な惑星です。

また、冥王星より大きな惑星が発見されれば新たに加えればよいし、別に冥王星より大きい星が惑星でなくてはならない、としなくてもよいと思います。

しかも今回の決定は「軌道上で圧倒的に大きな星であること」という定義も入っていますが、この「圧倒的に」という言葉が科学者が決めた割にはあいまいです。
「圧倒的に」という言葉から受ける感じとしては、惑星は衛星の十倍くらいはないといけないようなイメージです。

しかし地球は月の四倍弱しかありません。
「圧倒的」とはいえないのでは…?

今回の定義を当てはめると、太陽系の中で次に惑星からはずされる危機に瀕しているのは「地球」ということになってしまいます。

でも人類は決してそれを認めないでしょう。
あいまいな定義は「解釈」によって、都合よく運用できるからです。
しかしどうせ「あいまい」なのなら、冥王星を惑星としておいてもよかった気もします。

決して冥王星に知り合いがいるわけでも何でもありません。
が、私は言葉というものは歴史的・文化的なことも含めた「自分たちの実感」で決められていくものだと思うのです。
科学者が物理的な定義づけだけで決めていくことに、多少の違和感を感じました。



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