言葉って面白い!

この日本語、英語でなんていうの?その奥に深い文化の違いが見えてきませんか。

大晦日の話

2010年12月31日 | 四季
今年は年の瀬に寒波がやってきて、日本の多くの地域で大雪になっています。
京都でも朝からずっと雪が降り続き、白銀の古都となっていて大変美しい夜です。

今日、大晦日は年の終わりの日。
もともと毎月の終わりを「みそか=晦日」とよび、年に12回の晦日のうち最後の一回を大晦日と呼ぶわけです。
晦日は、「三十日」とも書き、かつて月の満ち欠けで暦を定めていた日本では、一ヶ月は原則30日だったところから来ています。

晦日は「つごもり」とも言います。
つごもりは、月の光が見えなくなること、つまり月の終わりを指します。
かつて日本書紀の時代には「月尽」と書くこともありました。
いずれも太陰太陽暦の日本ならではの言葉の発達です。

英語ではこのように月や年の終わりを指す独自の言葉はなく、the last day of the month、またNew Year's Eveなどと言います。そのままの意味です。

かつて稲作が生業の中心だった日本では、暦は生きていく上できわめて重要でした。
言葉の上でも暦に関する表現が豊かになったのも必然だったのでしょう。

今年もまもなく終わりです。
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また「君」に恋してる

2010年12月31日 | 映画・芸能
昨夜レコード大賞で坂本冬美さんが「また君に恋してる」で特別賞を受賞していました。
その時のインタビューで、この歌が広く受け入れられたのは、歌詞の内容が男でも女でもあてはまるものだからだ、という主旨のことを話していました。
「あなた」でもなく「お前」でもなく「君」という男でも女でも使いそうな言葉が「誰にでもあてはまる」世界観を作ったということです。
興味深い発言でした。

考えてみれば、英語ではこんな違いはないわけです。
I love you.は、男でも女でも同じように使いますし、youが他の二人称に変わることもありません。
日本語では確かに「またお前に恋してる」という歌があれば、それは男からの目線だと思われるでしょう。
日本は、会話の相手が目上か目下か、年上か年下か、男か女か、あるいは身内か他人かで一人称や二人称を細かく言い分ける言葉です。
そのことで社会的な関係性を互いに確認しているわけです。

これらの二人称の単語が表す関係性は、時代とともに変化もしています。
たとえば、「君」はもともと「君主」という言葉に表れるように、主人や貴人などを指す言葉でした。
転じて、敬愛する人一般を指すようになりましたが、以前は女から男を指す場合に多く使われました。
それが今では、どちらかといえば同等か目下の人に使うことが多く、また男性がより多く使うケースが多い言葉になっています。

「おまえ」や「きさま」などもかつては目上の人を敬って使う言葉でしたが、今ではやや乱暴な男言葉になっています。
また「あなた」も、かつては目上の人に使っていた言葉が、現代語では妻が夫に向かって使うか、あるいは対等か下位の人に使うケースが多いようです。

総じて、どの二人称もかつては目上の人に使っていた語が、現代では目下の者や身内に使うように変化してきた歴史があるようです。
かつては位の高い人には名前を直接呼ぶよりも二人称代名詞を使う方がふさわしい場合も多かったのでしょう。
現代の企業社会では、二人称の代名詞を使うと「相手の名前を覚えていない」と受け取られかねず、「山田さん」「斉藤様」など名前で呼ぶか、あるいは「部長」「店長」など役職で表すことが一般的です。
一方で同期や部下に対しては「君」や「あなた」も違和感無く使えます。

使い方には、こうした変化は時代とともに表れますが、二人称の使い分けによって人間の関係性を表すことは、日本語の持つ本質的な特性の一つであることには変わりはないようです。




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月影の話

2010年12月30日 | 歴史の話し
雨の京都、知恩院に足を運びました。
来る年は、法然上人が世を去ってから800年を迎え、大遠忌(おんき)が行われるのだそうで、看板が境内のあちらこちらに立てられていました。
法然は浄土宗の「元祖」と呼ばれ、元祖という言葉は仏教界では法然上人のことを指します。
その教えを伝える歌があります。

月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人のこころにぞすむ

月の光は、人里に分け隔てなく降り注ぐが、その月の美しさは眺める人の心次第だということです。
ひいては、仏の慈悲は万人に分け隔てなく届いているが、それを信じる心がなければ慈悲を受けることができない、というわけです。

これは「月影の歌」とも呼ばれる歌です。
ふと思ったのですが、「影」という言葉は面白いものです。
通常、「かげ」といえば暗いものを想像します。
「陰」と書けば、モノの後ろにあって光の当たらない部分や見えない部分のことを指し、「影」と書けば人やモノが光をさえぎった結果、光と反対側にできる黒い形、シルエットのことを指します。
「光と影」と対に使われることからも分かる通り、かげ=「陰、影」は、通常「光」の逆の意味を指す言葉です。

ところがこの法然の歌で使われている「月影」は「月の光」という意味で、影は光そのものを表しています。
そういえば「星影のワルツ」という曲もありますが、これも星の光を指しています。
広辞苑を引くと、「影」には「日、月、星や、ともし火、電灯などの光」という意味があります。

ちなみに英語にすると、影=shadow、陰=shadeと訳され、日本語とよく似た使い分けをしていますが、光はあくまでlightであり、shadeやshadowに光という意味はありません。
日本語では、「かげ」という言葉がより広く意味に使われているようです。

ちょっとうがった見方かもしれませんが、陰陽思想を生み出した中国やモノの根源を突き詰めて考える哲学を持つ西洋に比べ、日本ではモノの表裏を同一視するようなファジーな思想がよく見られます。
光も、光が生み出す影も、おなじ「影」という言葉で表すところに、日本人らしいモノの見方を感じるのですが、いかがでしょうか。
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