言葉って面白い!

この日本語、英語でなんていうの?その奥に深い文化の違いが見えてきませんか。

ソチ五輪の心に残った言葉

2014年02月23日 | オリンピック
ソチ冬期五輪が終わろうとしています。
様々なドラマがありました。

金メダルを期待された、女子ジャンプの高梨沙羅選手の思いがけない結果。
男子ハーフパイプの平野・平岡のダブルメダル獲得。
男子フィギアの羽生の金メダルや、ジャンプの葛西選手の銀メダルも感動的でした。

しかし中でも、全国の注目を最も集めたのが、女子フィギアであることは異論のないところでしょう。
浅田真央選手が、二日目のフリーでショートプログラムの不振を吹き飛ばすような会心の演技を終えた時には、おそらく日本中の人たちが涙に伏したに違いありません。
その時間帯の視聴率は、深夜の一時を過ぎていたにも関わらず、15%を超えていました。
全ての三回転ジャンプを決め、自己最高得点をたたき出した瞬間、彼女の表情には、言葉では表せないまさに「万感の思い」が込められていた気がします。

多くの選手が、試合を終えた後のインタビューで名言を残しましたが、私が一番心に残ったのは、実は浅田選手の陰で静かに入賞を果たしていた鈴木明子選手の言葉でした。

彼女は、リンクに上がる時の心情を問われ、こんな趣旨で答えていました。
「ずっと足の痛みがあったけど、リンクに立ったときには何も感じなかった。
病気で滑れなかった時もあったので、リンクにいられるだけで幸せだなと思って立った。」
そして次のような言葉でしめています。

「不安とか緊張よりも、なんか大げさですけれども『生きているな』と思いました。」

「生きているな」という言葉は、とても素敵だと思いました。

 試合に臨む選手たちは、様々な言葉でその時の心情を語ります。
「これで最後だという気持ちで」
「これまで支えてくれた人に感謝して」
「悔いのないように」
「楽しんでやろうという気持ちで」などなど。
五輪クラスになると、能力自体は僅差。勝敗を分けるのは、多くの場合、気持ちの持ちようだと言います。
究極の舞台に臨む選手たちが、どのように自分の気持ちをコントロールしているのか、その一端がうかがえる興味深い言葉の数々です。

その中で、鈴木選手は、リンクに立った時に「生きているな」と感じたと言います。
考えてみれば、「生きている」なんていうのは、当たり前のこと。
別に五輪に出なくても、どこでも誰でも、生きているわけですから。
いつだってその気になれば「自分は生きている」と考えることはできます。
しかしあまりに当然のことのため、日常の生活の中でわざわざ「自分は生きている」と感じることはあまりありません。
実感として「生きている」というのは、単に命がある、ということでなく、「自分がこの世に生を受けたのは、この時のためだったんだ」といった、ある出来事を人生の中でも最高の瞬間として位置づける、そんな感覚なのかもしれません。

五輪に出場する人はごく一部の人ですが、市井の人でも「生きている」という言葉でその瞬間の心情を表したくなる時というのはあるでしょう。
例えば、一世一代の勝負に勝った時とか、恋人と一緒に素敵な瞬間を過ごす時とか、何かポジティブな意味で人生の高揚を迎えた時に、「うれしい」「よかった」「楽しんだ」といった言葉を超えた実感として「生きている」という瞬間がある気がします。

鈴木選手は、遅咲きで知られ、普通の選手なら引退を考える20代半ばになってようやく花開きました。
また病気でリンクに立てなくなった経験もあり、苦労をして、何度も挫折を繰り返しながら、今日を迎えました。
そんな鈴木選手だからこそ、勝負がどうとか、メダルや入賞がどうとか、あるいは演技にすべてをかける、とか、そういった気負いでなく、感謝や喜びや緊張や高揚など、人生に経験する様々な感情を包含した感覚として、「生きている」という言葉を出すことができたのだと思います。
シンプルでありながら、奥の深い言葉だと思いました。
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「ら抜き」表現にもメリットが

2014年02月11日 | ニュース
昨今、年長者の中には、若者の「ら抜き」表現に眉を顰める人もいます。
「こんな美味しいものが食べれてうれしい!」
といった表現です。
テレビの街頭インタビューなどを見ても、今や若者だけでなく中年の人たちも平気で「ら抜き」で話しています。
一方で、そのインタビューにかぶせる字幕は、ほとんどの場合「食べられる」と正確な日本語で表されています。

日本語は、省略が得意な言語だという人もいます。
文の主語を省略するのは当たり前。エアコン、アメフトなど、外来語も長い単語はすぐに省略。「ら抜き」もそうした省略を好む日本語の一つの現れなのでしょうか。
口語では徐々に市民権を得てきたとすら思える「ら抜き」表現。
言葉は変化していくもの。
いずれ「食べれる」も正しい日本語として定着していくのかもしれません。

私自身は、まだ「食べれる」という表現には若干の抵抗が残っているクチですが、考えようによっては実は、この「ら抜き」によって意味が取りやすくなっている、という見方もできます。
次の文を見てください。
「カエルが食べられる」
どんな意味にとりましたか?
ちょっと言葉を足してみましょう。
「あのフランス料理店では、カエルが食べられる」
ではもう一つ。
「大きなヘビに、カエルが食べられる」
いかがでしょう。
前者は、可能(can eat)を表す「られる」。後者は受け身(=be eaten)を表す「られる」です。
言葉を足すと明らかですが、「カエルが食べられる」というだけでは、どちらの意味にもとれます。
この紛らわしさが「ら抜き」の登場によって解決。
「カエルが食べれる」
「カエルが食べられる」
前者は明らかに可能を表します。カエルは、フランス料理店で「食べれる」のであり、ヘビに「食べれる」わけではありません。
「ら抜き」表現は、現在の日本語の文法としては間違いですが、言葉は「正確に伝える道具」と考えれば、受け身との紛らわしさを残すよりも、かえって優れた使い分けと言えるのかもしれません。
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