言葉って面白い!

この日本語、英語でなんていうの?その奥に深い文化の違いが見えてきませんか。

銀閣・石の山と湖のなぞ

2010年05月03日 | 庭の話
銀閣寺の庭の意匠は独特です。
まっすぐに波うつ銀沙灘(ぎんしゃだん)と、円錐を半分で切り取ったような向月台(こうげつだい)。
その幾何学的な文様は、古い京都の庭には他に見られません。

現代画家の岡本太郎は、京都の庭の中で銀閣寺庭園がことのほかお気に入りだったと言います。
彼は、京都の庭園には失望させられるものが多かったが、銀沙灘や向月台は「私の発見したよろこびの、もっとも大きなものの一つだった」と述べています。
そして、この庭園の解釈についてあまり論及されてこなかったことは、「日本庭園史の穴だ」と表現しています。
いかにも岡本太郎らしい、独特の言葉です。
さらに岡本氏は、月の夜には、銀沙灘が湖となり、向月台の頂上が満月に比せられるのだという、独特の解釈を試みています。

また銀沙灘や向月台は、義政の時代からのものではなく、江戸時代に作られ始めたと言われていますが、詳細は不明です。
いつからどのように始まったのか、誰がどのような意味をこめて作ったのか。
謎に満ちている庭です。
だからこそ、様々に解釈することが可能で、面白さもあるのでしょう。

巨大な向月台を前に、謎に満ちた歴史に思いを馳せていると、外国人のアベックが大声で話しながら通り過ぎていきました。
「見て見て!富士山よ」
「ホントだ。これぞ日本だね」

そんな解釈もアリ、かもしれません。


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植物の名前にもいろいろ

2009年05月08日 | 庭の話
ゴールデンウィークの真っ只中。
目黒駅の近くにある自然教育園という庭園を散歩してきました。
庭園美術館に隣接していて、都心とは思えぬほどこんもりとした森に散歩道が整備されています。
江戸時代には高松松平藩邸があり、その後、軍の火薬庫になっていたことから人が出入りせず、自然の植生がそのまま保存されていました。
戦後、天然記念物に指定され一般開放された庭園で、まるで電車で何時間もかけてたどりついた山中の道を歩いているような自然です。

とはいえ、教育園というだけあって、植物に看板がつけられていて名前が覚えられるようになっています。
多くの植物は青々と葉を茂らせていましたが、花をつけているものは少ないようでした。
一つ一つ見ていて感じたのは、日本の植物の名前のつけ方は感性豊かだなあ、ということでした。
例えば、こんな名前がありました。

はないかだ(花筏) 花をのせた葉をいかだにたとえて名がついた。
ぬすびとはぎ(盗人萩) 豆果の形がしのび足をする泥棒の足跡に似ているから。
ふたりしずか(二人静) 二本の花穂を出すことから。
しろよめな(白嫁菜) 山白菊の異名。白い嫁菜というところから。
もみじがさ(紅葉傘) 葉が紅葉に似ているところから。
きんみずひき(金水引) タデ科のミズヒキに似ていて花が黄色のため

いずれも何か美しい響きと、情緒を感じます。
盗人、嫁、二人、など人そのものを表したり、いかだ、傘など暮らしを感じさせる言葉がつけられているから、何となく植物に個性を感じたり、親近感を持つことができます。
また多くが訓読みを主体につけられているところが柔らかさにつながっているのでしょう。

大和言葉の魅力を、植物の名前からあらためて感じました。

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枯山水の真髄

2008年02月16日 | 庭の話
京都の北山にある龍安寺。
世界的に有名な「ドライ・ガーデン」です。
かつてブルーノ・タウトも絶賛したといわれる枯山水。
訪れるとひと目ですべて見えてしまう小さな空間ですが、じっと何分も見ていると、やがて何か不思議な情緒を醸し出してきます。

枯山水は、英語ではdry garden、あるいは stone garden などと訳されます。
ただ、「枯れる」という日本語は、dryとはちょっと違います。
単に水分が少ない、水気がない、という意味ではなく、年月をかけて培われた独特の深みがそこにあることを含んでいます。
「乾山水」ではなく「枯山水」なのです。

枯れるを訳すのに、dryだと深さが足りません。
和英辞典を引いてみると、matureという単語も出てきます。
しかし、matureは、円熟した、熟成した、という意味で、まさに今が最高潮の時期を指します。
mature girl などと言います。
しかし、「枯れた少女」というのはいないでしょう。
枯れる、というのは、円熟をさらに通り越して、悟りを得た感じです。
どうもぴたりと言い当てる英単語はなさそうです。

禅的なニュアンスを含む「枯れる」も日本独特の言葉であり、考え方なのでしょう。
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重森三玲の自然観

2006年11月23日 | 庭の話

大正から昭和にかけて、活躍した作庭家、重森三玲(しげもりみれい)。
二十世紀最大の作庭家であり、古い庭の研究の第一人者でもあります。

彼の著書を読むと、日本庭園の奥深い精神性が語られていて、示唆に富んでいます。

重森は、日本庭園の根幹は石組にあるといいます。
自然の石を使う。そこに日本人の自然崇拝の精神が込められている。その考え方が日本庭園を支えていると言います。

「元来日本庭園の石組みは、自然のままの素材としての石を扱うことが生命であった。・・・自然と言う力ほど偉大なものはない。人間の力では、したがって芸術家の力では及ばぬ高さ、深さ、大きさがある。」

「石を素材として立派な彫刻としたギリシャ民族の如きは、技術が高かったとも考えられるが、必ずしも技術が高かった訳ではない。人間の裸体を最高の美と認めたギリシャ民族と、自然を最高の美と認めた日本民族との相違は様々な角度から眺めて、種々な理由のあることであって、そのどちらが傑れていると言う理由にはならない。」 (いずれも重森三玲著「庭」より)

自然の石は、そのままで強い力を持っている。だからこそ作庭家は、石の姿を変えてしまうことなく、その力をどのように組み合わせ、どのように生かしていくかを考える。
しかし一方で重森は、単に自然のままでよいかというとそうではないと考えます。

「大自然としてのこの上もない美しい風景は、既に神がこの世の中に作ってくれているのである。又あのように美しい雄大な富士山は、庭師がどんなに逆立ちしてもできるものではないし、又作っても野暮な話である。庭を作ることの本質を考えると、別な世界、別な自然を作ることが作庭家の役目である。」

作庭家としての自負が力強く感じられます。

日本人の自然に対する美意識は、庭にとどまらず、絵画でも茶道でも料理でも、様々な文化の中で語られていることです。
しかし、こと庭に込めた自然に対する価値観として、これほど強い意思を感じる文章は読んだことがありませんでした。

日本全国の庭を調べつくし、自らも幾つもの名園を作庭してきた重森が晩年に行き着いた境地だと考えながら読むから感じられるものなのかもしれません。

どのような経験と実績を持つ人が書いたかによって、同じような文章でも違ったものに感じられます。
言葉というものは不思議なものです。

http://http://blog.goo.ne.jp/syusakuhikaru/e/21eb08ffa6059746c138c073433e5c95







 



 

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二条城の庭園は力強い

2006年05月19日 | 庭の話
京都に行ったついでに、二条城を見てきました。
修学旅行生がいっぱい!
というより修学旅行生しかいない空間でした、

醍醐寺の三宝院庭園と同じように、権力者の強さを誇るかのような庭です。

不思議ですね。
庭をいくつも見ている間に、庭が言葉を出して語りかけてくるようです。

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