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言葉って面白い!

この日本語、英語でなんていうの?その奥に深い文化の違いが見えてきませんか。

「ふるさと」に込める思い プロフェッショナル・同時通訳2

2014年04月30日 | 日本人
 「プロフェッショナル」で登場した同時通訳の長井鞠子さんのエピソードで、印象に残ったのは福島での仕事のことでした。

 ある重要な国際会議で、浪江町長が福島の現状を世界に伝えるために、プレゼンをすることになった。その同時通訳を頼まれたのです。
プレゼンのキーコンセプトの一つが「ふるさと再生」という言葉でした。
この「ふるさと」をどう訳すか。そこに焦点が当てられていました。

 辞書をひくと、「ふるさと」は通常home town、birth placeあるいは単純にhomeなどと訳されます。
どんな言葉でもそうですが、文意によって訳し方は幾通りもあります。
長井さんは、帰りたくても帰れず避難生活を余儀なくされている浪江の人たちの心情を察した時に、「ふるさと」という言葉をどんな英語に置き換えるかは重要なポイントだと考えました。
単にhome town だと、彼らの強い思いが伝わり切らないのではないか、と。
Ancestor home 
Namie homes
幾つかの可能性が出てきますが、いずれもしっくりこないようです。
どの英語を使えば、「ふるさと」という言葉に込められた切実な思いをもっとも伝えることができるのか。
 結局、本番で長井さんが選んだ表現は、beautiful Namie town as our home というものでした。
「ふるさと」を直接訳さずに、むしろ「浪江」という固有名詞を強調した表現にすることで、彼らにとって故郷が唯一無二の存在であることを表した。
あえて言えばそういうことでしょうか、名訳だと思います。

 翻訳の中でも、歴史的・文化的背景を色濃く持った言葉は、英語など他の国の言葉に訳すのは難しいことが多いものです。
「ふるさと」もその一つと言えるでしょう。
日本語の「ふるさと」という言葉は、home townという言葉とは少し違う精神が表れている気がします。
 「里(さと)」という言葉の語源は、諸説ありますが、奈良時代の律令制には、郡の下に「里(り・さと)」という単位があり、小さな村落の単位から出てきた言葉と言われます。
一説には、里という文字が「田」と「土」から成り、田畑を耕し、土着の信仰の拠り所とな場所を指すとも言われます。
単に「自分の生まれた場所」というだけではないニュアンスを含んでいます。

 また、歴史的・地理的な背景も、日本語の「ふるさと」に影響を与えていると考えられます。
 もともと日本は山がちな国で、かつ四方を海に囲まれた島国です。
多くの村落が山と山に、あるいは山と海に挟まれた小さな谷や平地に作られました。
多くの村と村は、山や海で仕切られていて、「ここが私の村」という範囲が目で見て把握しやすい景色になっていました。
また律令時代以来、稲作を中心とする農耕を基盤としてきた国ですから、民の移動が起こりにくい歴史でもありました。
多くの人が、先祖代々の土地に住み、田畑を耕し、村の神社に豊作を祈願し、暮らしてきました。
 江戸時代には、自由な行き来が禁じられ、より民と土地の結びつきが強くなります。
さらに、この時代に各地で特産品を作ることが奨励され、各町村に自慢の品ができるようになります。
このことがより自分の町へのロイヤリティーとアイデンティティを育むことになったのでしょう。

 かくして、日本人にとって「ふるさと」とは、単に自分が生まれた場所や自宅のある場所を指すだけでなく、長年の歴史と暮らしと信仰とが混然一体となって生み出された、唯一無二の特別な場所を指す言葉となったのです。
 明治以降、都市化が進み、郷を離れる人が増えると、より「ふるさと」の持つ意味合いがさらに強まった気がします。
石川啄木や宮沢賢治などの文学に触れると、ふるさとへの想いが強く感じられますし、近年では「心のふるさと」といった、より「ふるさと」の精神性を強調した表現もよく見られます。

 「ふるさと」は、英語のhomeとよく対比されますが、homeが「故郷」と同時に「家そのもの」を指す言葉であることが象徴するように、英語圏では故郷≒homeは自分の家や家族がある場所という意識が強いのでしょう。
その辺りに、異なる歴史をたどって来た国と国の言葉を置き換えることの難しさを感じます。

 Namieという固有名詞を軸にして、my homeではなくour homeと表した長井さんの訳には、そうした日本の歴史や文化が持つ独特の価値観がうまく表現されていると思いました。
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日本人のジョークは受けないの?

2012年12月04日 | 日本人
ブリュッセルに行ってきました。
ちょっとした会議に出席し、英語で短いスピーチをするためです。
英語でのスピーチは初めての体験。
原稿の準備はばっちり、前日には何度も練習をしたものの、私のつたない英語の発音が欧州の要人を前に伝わるのか。
緊張の一瞬・・・となるはずでした。
しかし、私の直前にスピーチをした、もう一人の日本人が、見事なまでのジャパニーズイングリッシュ丸出しで原稿棒読み。
こちらが恥ずかしくなるくらいでしたが、おかげで「ああ、あの程度でよいのか」ととても気が楽になりました。

彼に限らず、ヨーロッパの国際会議での英語は、ノンネイティブの集まりなので、基本的にはどの英語もそれぞれの国のなまりが入ります。
日本語なまりも、言ってみればその一つ。
むしろそれがお国柄であり、アイデンティティであると言ってもよいくらい。
よく言われることですが、「発音をうまくやろうとするより、何を言うかという内容の方が大切」という国際コミュニケーションの第一歩を改めて実感しました。

さて、当のスピーチは特に大きな失敗もなく終わったのですが、一つだけ残念なことがありました。
練りに練ったジョークが、通じなかったのです。
少なくとも、笑いはまったく出ませんでした。

もともと真面目な議題の会議の場だったので、ジョークが通じる雰囲気ではなかったのかもしれません。
「スピーチにはジョークの一つでも入れろ」という教えにならって、随分考えて編み出したのですが・・・。

ジョークの内容は、あるアメリカ人の友人が、福島の原発事故以来放射線が気になって右往左往する様をコミカルに伝えようというものでした。
「やっぱり英語がうまくないとジョークは通じないのかなあ」
「いやあ、日本人がジョークを出すなんて、みんな思っていないから不意をつかれたんじゃないの?」
など、会議の後の食事時に友人たちと反省会です。

その中で、欧州出身の友人が面白い推察をしました。
いわく、欧州の人は、アメリカ人の話題が出た瞬間に、自分に関係ない話だと思って引いてしまう。
それでジョークに至る前に、そもそも話題に関して関心を失ってしまったのでは?

なるほど。
複数の欧州の人に聞いても、それはあながちあり得ない話ではないとのことでした。
複雑な国際感情があるんですねえ。

まあ、ジョークが一つ滑った程度で終わった、私の国際会議デビュー。
直前の日本人スピーチのおかげでリラックスでき、満点とは言いませんが、それなりに納得のいくものでした。

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クレームをつける

2012年11月16日 | 日本人
ネイティブの知り合いがこんなことを言っていました。
日本人は、complainというべきところに「クレーム」という単語を使うが、ちょっと変だ、と。
claimとcomplainは、まったく違う言葉だというのです。

日本ではクレームというと不平不満を相手に伝えるネガティブなニュアンスが含まれています。
「客がクレームをつけてきてさあ…大変だったよ」
などと、招かれざる不平不満が出てきた場合に使います。
広辞苑にも、「損害賠償。異議。苦情。文句」などと出ています。

しかし英語では必ずしもネガティブなニュアンスの言葉ではありません。
英英辞典では次のように説明されています。

① to say that sth is true although it has not been proved and other people may not believeit
② to ask for money from the government or a company because you have a right to it

当然の権利を「主張する」ということであり、きわめて中立的な言葉です。

面白い現象だと思いました。
仮に「正当な」ものであっても、何となく日本人は「クレーム」をつけられるといい気はしないのです。

もともと仏教国であり、江戸時代以来は儒教の影響を強く受けた日本では「我慢の美徳」がありました。
多少の不平不満があっても、社会の中ではそれを主張しない方がスムーズな人間関係が築かれ、我慢強い人間はよい人間であり、何でも自分の主張を通そうとするのは自分勝手と見られました。
現代の企業社会では、そんなことを言っていたら会社の損失につながるので、ずいぶん薄らいだとは思いますが、それでも外国の感覚に比べれば、まだこの美徳は根強く生きていると思います。

「クレーム」という言葉が日本ではネガティブなニュアンスを強く持つようになった背景には、日本人が長年かけて醸成してきた「美徳」が背景にあるのではないでしょうか。
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兄弟とbrother

2010年08月17日 | 日本人
面接の場などでこんなやりとりがありますね。
「あなたには兄弟は何人いますか?」
「兄が一人、妹が一人います。三人兄弟です。」

ごく一般的な会話で、日本人であれば特に違和感を持ちません。
でもよくよく考えてみると、「姉妹」という言葉もあるはずです。
なぜその言葉を使わずに、妹も含めて「三人兄弟」と言って違和感がないのでしょうか。
あるいは、そもそも質問の時に、「あなたには、兄弟や姉妹が何人いますか?」となぜ聞かないのでしょうか。

実は「姉妹」も「兄弟」と同じく、古く中国から伝わった言葉です。
万葉集にもすでにその用例が見られます。
ところが、日本語では古来、男女の区別をあまり強く意識していなかったようで、やがて男にも女にも「兄弟」という言葉を使うようになりました。
そのため、「兄弟」だけでは男か女か分からず、男兄弟、女兄弟などとあえて区別しなくてはならない場面もあるほどです。

それでは英語ではどうでしょうか。
Do you have any brothers?
No, I don’t. I have two sisters.
この会話は、日本語に直訳するとちょっと変になります。
「あなたには兄弟はいますか?」
「いません。妹が二人います」
え?兄弟はいないって言ったのに…!?
これは、日本語の「兄弟」が男女の区別があいまいなのに対して、英語でははっきりと区別するために起こった現象です。
一般に英語などヨーロッパ言語の多くが「男」と「女」の区別をはっきりさせるのに対し、日本語ではあいまいなことが多くあります。
英語ではox〔雄牛〕とcow〔牝牛〕のように、オスメスで単語が異なるものもあります。フランス語やドイツ語などでは、男性名詞、女性名詞などの概念も残っています。
一方、日本語では、例えば「彼」という言葉は、英語の概念が入ってくるまで男も女も指す三人称の代名詞でした。
英語がheとsheを区別しているのにならって、「彼女」という新しい言葉を創ったわけです。
「兄弟」とbrother、sisterの違いも、こうした言葉の文化的背景の違いの一例といえるでしょう。

面白いのは、英語では男女の違いを明確にする一方で、年齢の違いをあまり気にしないことです。
先ほどの I have two sisters.では、実は女兄弟が二人いることは明確ですが、姉なのか妹なのかは分かりません。
そもそも日本語のように「兄」と「弟」、「姉」と「妹」をそれぞれ区別した単語がないからです。
区別するなら、elder sister、big brotherなどと形容詞をつけなくてはなりません。

儒教の教えが浸透していたからでしょうか、日本には韓国などと似たような「長幼の序」の概念が強く歴史に刻み込まれています。
年長者は敬うべきだ、というわけです。
先輩、後輩などという言葉が英語にしにくいと言われますが、それもこうした文化的差異の表れでしょう。
一方で、西洋に比べると日本では「男女の差」にそれほど意識を払わなかったのかもしれません。
江戸時代まで、日本で浴場といえば男女混浴が当たり前だったと言います。
「性の差」が強く意識された文化・哲学を発達させてきた西洋では、あり得ないことです。
こんな文化の差が、言葉の世界にも反映されているのかもしれません。
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結婚式にも「死」と語る国

2009年11月07日 | 日本人
結婚式にはタブーと言われる言葉がたくさんあります。
「別れる」「死」「切る」「破れる」などです。
主に、離別や不幸を連想させるような言葉は忌み嫌われます。
「ケーキをナイフで切る」ではなく、「ケーキにナイフを入れる」あるいは「ケーキ入刀」というくらいです。

この感覚は、英語の世界にはあまりありません。
たとえば「死」は結婚式でタブーの言葉ではありません。
結婚の時に、新郎新婦の誓いの言葉の中にすら「死」は登場します。

in sickness and in health,
till death do us part

病める時も健やかなる時も
死するまでともに過ごす

日本の感覚をあてはめると、わざわざ「死するまで」という不吉な言い方をするのではなく、「一生」とか「いつまでも」とか「永遠に」とか、前向きな表現にすればいいではないか、と突っ込まれそうな表現です。

しかし、主にキリスト教文化圏である英語の世界では、死は神様に召されるステップであり、受け入れるべき現実であり、特にそれを結婚式で口にすることが不吉であったり失礼であったりするものではないようです。

古来日本では、言霊(ことだま)という言葉がありました。
言葉には霊力が宿っていて、言葉を口にするとそれが現実のものとなったり、現実の世界に影響を与えるという考え方です。
そういう考え方がある社会では、不用意な言葉を発すると、不吉なことが起きかねない、だから縁起の悪い言葉は慎むべきだ、と考えられるようになるのです。

もちろん、現代の日本人は、結婚式で誰かが「死」という言葉を使ったから、すぐに誰かが死ぬなんて思っていませんが、それでも忌み言葉として「死」や「別れる」を結婚式などで避ける背景には、日本人の言葉に対するデリケートなセンスがあるのでしょう。
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