言葉って面白い!

この日本語、英語でなんていうの?その奥に深い文化の違いが見えてきませんか。

かわいい、を絵にすると・・・

2014年01月27日 | 伝統文化
広尾にある山種美術館で、ちょっと変わった趣向の展覧会が開かれていました。
「Kawaii日本美術」展です。
伊藤若冲のほか、奥村土牛、堂本印象、竹内栖鳳、上村松園、橋本関雪など、江戸時代以降の近代日本画壇の名作の中から、「かわいい」という言葉のイメージに符合する作品を並べてあります。
ラインアップは、三つのテーマに括られていました。
一つ目は、「子供」。二つ目は「動物」。そして三つめは、「小さい・ほのぼの・ユーモラス」というテーマ。
順に見ていくと、確かに「かわいい」と言いたくなる絵が並んでいます。
つぶなら瞳の童女。仲間とじゃれつく兎や鹿。ユーモラスな表情の托鉢、そして童謡に題材をとった鮮やかな作品。
言葉ではなくビジュアルで、「かわいい」という言葉の持つ意味が感じられる展覧会でした。

歴史をたどると、もともと「かわいい」は、「かほはゆし=顔映ゆし」が語源で、顔を正視できない気恥ずかしさを表す言葉でした。
それが「かはゆし」となり現代の「かわいい」に進化していきます。
そのため、「かわいい」は、正視できない、放置できない、というニュアンスから「いたわしい」という意味も持つようになり、「かわいそう」という言葉も生まれてきます。
しかし、本筋としては「かわいい」は、小さいもの、弱いものに対して親愛の情を表す言葉と言えるでしょう。
その対象の典型が、子供であり、動物である、というわけです。

今では「kawaii」は、国際語としても通じる言葉になりました。
英語のpretty、cuteなどより、広い概念として使われるようです。
それでもprettyには「小さい」ものに対する愛着、cuteは「子供っぽい」ものに対する感情を表すニュアンスはあり、小さいものや弱いものにいじらしさや愛らしさを感じ、それを見守りたくなる感情は万国共通のようです。
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言葉のないおもてなし

2014年01月19日 | ニュース
毎年、年に一度だけ茶席に出席する機会があります。
新年を寿ぐ初釜の席です。
先日、戸棚から袱紗と懐紙を引っ張り出し、滅多に着ないスーツを纏って会場に向かいました。
毎年初釜は、一年で最も寒い時期に開かれます。
今年は予想された雪も降らず、天気にも恵まれ穏やかな席となりました。

茶室に入ると、そこは「おもてなし」という名の暗号がそこかしこに隠されています。
干支の馬をあしらった茶道具の数々。
春の訪れを表す梅の絵が描かれた掛け軸。
そして新年を祝う金箔が張られた茶碗。
それらの意味を一つ一つ味わうのも、茶席の楽しみの一つです。

新年らしい宝船の絵の描かれた掛け軸がありました。
これを掛ける時の向きは、必ず決まっているのだとか。
玄関から見て家の内の方に向かって船の舳先が向くように掛けるのだそうです。
船が運んできた宝をちゃんと家の中に入れるように、という願掛けです。

床の間には大きな柳が円を描くように飾られていました。
結び柳という飾りです。
「結ぶ」という言葉が「産す(むす)」を連想させ、生命力を表すと言います。
この柳の円の向く方向も決められていて、お祝いの時には、床の間の方に向けるのだそうです。
何気ない飾りの一つ一つに、言葉とは異なる「おもてなしの暗号」が隠されています。
「ウェルカム!」と、笑顔と言葉で迎えるのも心地のよいものですが、知るとそこはかとなく感じられる「無言のおもてなし」が、日本流というところなのでしょう。
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節分になぜ豆を撒く?

2014年01月19日 | 伝統文化
二月になるとほどなく節分を迎えます。
最近では、巻きずしをその年の恵方に向かって無言で食べる、「恵方巻」というのが流行りですが、それはごく最近の風習。
古来節分といえば、豆まきです。

なぜ豆を撒くのか。
その由来は、言葉遊びのような縁起担ぎです。
まめは、「魔の目」や「魔を滅する」と結びつけられ、「魔の目を滅する」ものとして縁起がよいとされました。
また、必ず煎った豆を撒くのは、生の豆だとそこから芽が出てきてしまうと「魔の芽」が出るので縁起が悪いとされたからです。
さらに「煎る」は「射る」ともつながり、豆で魔物や鬼を「射る」とも考えられました。

言葉は、言霊、つまりある種の霊力を持つと考えられてきた日本の文化。
節分をはじめ、季節ごとの行事の多くが、魔を封じ病を遠ざけ、神に幸を祈るものだったことを考えれば、言葉の霊力を重視したのもごく自然の流れです。
単なる駄洒落とは、わけが違います。
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本田デビュー戦の傍らに踊った漢字

2014年01月13日 | ニュース
セリエAで、本田圭佑が初めてピッチに立ちました。
ミランとサッスオーロの一戦。
霧の中の戦いとなりましたが、なかなかドラマチックな戦いでした。
ミランが前半早々に2点を先取。
ところが、連敗中のサッスオーロのベラルティが点を重ね、前半だけでハットトリックを達成し、逆転。
後半で4対2となったところで、ミランが本田を投入します。
本田は、明らかにミランに流れを引き寄せる動きを見せました。
その後一点を返し、4-3。
ぎりぎりまで追い詰めます。
残念ながら、ミランは追いつくことができずに敗戦となりましたが、本田は堂々としたデビューを果たしました。

この試合のテレビ中継を見ていて、目に留まったのは、一人の観客でした。
彼は「日本」という字と日の丸を配した鉢巻きを頭に巻いていました。
本田のファンなのか、日本のテレビが来ているから目立ちたいと思ったのか。
理由はともあれ、彼の鉢巻きは目立っていました。
それは、漢字だからというだけではありません。
鉢巻きが上下逆さまになっていたからです。
「日」と「本」の字が逆さまで頭の上に掲げられている。日本人から見れば、あり得ない失敗です。
しかし、当のイタリア人の観客はそんなことはお構いなし。
元気いっぱいで応援しています。

近年、漢字が欧米で「クール=カッコいい」ものとして流行っています。
漢字のTシャツを着た若者が、漢字の入れ墨をする、そんな光景が珍しくなくなったと言います。
このブームの背景には、日本語のアニメや漫画で育った世代が日本文化に興味を持ったこと、もう一つは、中国の経済が発展するにつれ、中国語のニーズが高まっていることなどがあるようです。
それにしても、漢字はアルファベットに比べるとはるかに多くの種類の文字があり、欧米人が一朝一夕にマスターすることは困難です。それでも、この複雑な形と、それら一つ一つが意味を持っていることが、エキゾチックな神秘性を感じさせるのでしょう。

ある調査では、日本語を解さない外国人に幾つかの漢字を見せてどれが好きかと尋ねたところ、「呆」という文字が「形がいい」という理由で選ばれた、とか。
多少在日年数が長く日本語を解している人の中には、こんな答えも出ました。
「『幸』の字が好き。縦にプラス・マイナス・イコール・マイナス・プラスと並べるとできるから。深い。」
哲学的かもしれませんが、本来の意味とは全く異なる解釈です。
そんな感覚でエキゾチックな「漢字」を捉える欧米の人たちにとっては、鉢巻きの「日本」が逆さまでも、カッコよければそれで良いのかもしれません。

ひるがえってみれば、古代の日本人も、そんなことがありました。
紀元3~5世紀ごろ、中国伝来の鏡に似せて日本人は国産鏡を作りました。
しかしそこにあしらわれていたのは、漢字に似せてはいるけれど全く意味の通じない不思議なデザインでした。
漢字は、もともと絵から発生したもので、その意味では「文字」であると同時に「デザイン」であるとも言えます。
意味を伝えるという本来の機能のほかに、「カッコよさ」「美しさ」にも価値があるのでしょう。書道が、「芸術」とされるのですから、さもありなん、です。

「日本」の字を逆さまにして嬉々とするイタリア人。
よく考えてみれば、「文字」ではなく「デザイン」としての漢字の本来の姿が、よく表れたシーンだったのかもしれません。

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ラジオ放送が変えたのは

2014年01月12日 | ニュース
日本でラジオが最初に放送されたのは、今からおよそ90年前。
1925年の3月のことです。
日本全国で同じ音声を聞くことができる初めての経験でした。
これは、単に情報が早く伝わる、という影響だけではなく、日本の文化に大きな変化を与えるものでした。

それは、方言のありかたです。

江戸時代までは、日本各地でその地独特の方言が話され、それが各地の文化や気質の土台になっていました。
明治時代以降、日本を近代国家に育てていくために、言語の統一が政策的に図られました。やがて方言を話すことは恥かしいという風潮が全国に広がり、標準語を話すことを良しとする教育が徹底されました。
関東大震災後に、緊急災害放送の重要性が叫ばれてラジオ放送が始まると、それに拍車がかかります。
日本の誰もが、ある一つの発音、アクセント、イントネーションで作られた日本語を聞くことが可能になったのです。
その後、交通が発達して都市化が進み、高等教育を受ける環境が整い、核家族が一般的となると、方言は急速に廃れていきました。

言語は、情報や感情を伝える手段です。
ですから共通のルールに則って言語を使った方が、より正確に伝わるのは間違いありません。
イタリア人はスペイン語を聞いてもそれなりに理解すると言いますが、そうは言ってもイタリア語同士で会話した方が、ニュアンスも含めて正確に伝わるのは自明の理です。
日本の方言も然り。
薩摩と奥州の出身の人が、方言しか話せなければなかなか正確な意思疎通は難しい。
しかし両者とも話す標準語があれば、それはたやすくなる。
機能だけを考えれば、言葉は共通性が高い方が有効なのです。

しかし…。
言葉というものは、情報を伝える手段、というだけではない側面を持っている。
言葉は、その地の地域性や国民性、その言葉を話す人々の思考形態、ひいてはその地域や国の文化を形作っているとも言えるものです。
例えば、大阪は、江戸時代以来商人文化が栄えてきました。
江戸、今の東京とは明らかに異なる文化圏を築いており、それは今の大阪人気質にも強い影響を与えています。
その気質や文化に、「大阪弁」の果たしている役割は極めて大きい。
大阪の人が大阪弁を喋らなくなったら、おそらく大阪人気質は急速になくなっていくでしょう。
こうした方言に支えられた地域性が、日本の国の多様で奥深い文化を作ってきたと言えます。

言葉は、情報や感情を伝えるもの。だから統一されていた方がよい。
言葉は、文化や気質を作るもの。だから多様な方がよい。
ラジオ90年を控え、言葉の持つ難しさと面白さを、考えてみるのもよいかもしれません。



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