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徳川宗春

2010-02-16 07:20:51 | 郷土の歴史
GDP年率4.6%増、3期連続プラス

昨日の夕刊の見出しです。

この数字には、「バラマキ」と言われながらも、小泉構造改革の方針を大転換した、麻生内閣の積極財政策の成果も少なからず含まれているでしょう。

次の写真は今朝の中日新聞の記事です。



川 宗春は、元禄九年(1696年)、尾張藩第三代藩主・徳川綱誠の19男として名古屋城で生まれました。
福島・梁川藩主でしたが、兄・継友の死去にともない、尾張徳川家第七代藩主として36歳で名古屋城へ入りました。

この宗春こそが、名古屋の物作りの促進に拍車をかけた人なのです。

すなわち、当時の第八代将軍・吉宗の倹約経済政策に対して、宗春は日本で唯一自由経済政策理論で立ち向かったのです。

かつては、遊興にふけって贅沢三昧をしたあげく蟄居へと追い込まれ、名君にたてついた極悪人のように思われていた宗春ですが、今では見直されています。

そもそも、吉宗の享保の改革が成功だったのかは定かではありません。
今に伝わる評価は、幕府側の記録によるものだけだからです。
重税を課せられた庶民にとっては、むしろ悪政だったのかもしれません。


不景気の時には経済活性策をとるのは今では常識です。

宗春は「贅沢は必要悪である」と、経済活性策で藩政を改革します。

まずは、芝居・歌舞伎・能といった芸能や相撲の興行を解禁、初代義直以来禁止されていた遊郭の設置も公認します。
自らが率先して華美な服装を身にまとい、大宴会、仮装パ-ティなどなど、吉宗を逆なでするような派手なパフォーマンスを繰り広げます。

京都から、からくり人形師や宮大工などの職人も集まってきます。

その他、ひとりの処刑者も出さないという当時としては斬新な政策も行いました。

これで、倹約令で低迷していた名古屋の経済は活気づき、賑やかさを取り戻しています。

しかし、結局は財政も赤字に転じ、規制緩和政策は後退し、人心も離れていきました。

宗春の政策は、吉宗に対する個人的な恨みもあったのかもしれません。御三家筆頭の尾張藩を差し置いて、紀州の吉宗が将軍になったからです。
実際はどうだったのでしょうか・・・

次年度の国の予算は、公共事業が大幅に削減されます。
景気にあたえる影響は?

後世の歴史家はどう評価をするのでしょうか・・・

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