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寛政異学の禁と学制改革 ─老中松平定信から大学頭林述斎へ─

2025-07-03 07:28:33 | 細井平洲・藩政改革

寛政異学の禁と学制改革
─老中松平定信から大学頭林述斎へ─

https://www.jstage.jst.go.jp/article/tja/77/3/77_179/_pdf/-char/ja

この複数の文書は、寛政異学の禁とそれに続く学制改革について概観しています。まず、松平定信が主導した改革の一環として、林家に対し朱子学以外の学問を禁じる異学の禁が発令された経緯を詳述しています。そして、病弱な林家当主の死後、定信によって林述斎が後継者に選ばれ、彼が昌平黌幕府直轄化官版書籍の刊行官撰書物の編纂といった改革を推し進め、衰退していた林家の名声を回復させたことが記されています。全体として、学問と政治が密接に結びついた江戸時代の改革の様子が描かれています。

Q 寛政の改革における教育制度改革は、林家や儒学界にどのような影響を与えましたか?

A 寛政の改革における教育制度改革は、林家と儒学界に大きな影響を与えました。この改革は、老中松平定信が幕臣の意識改革と人材育成を図るために儒教的倫理道徳による教化を重視し、その中核として機能すべきであった大学頭林家の立て直しと教学体制の強化を目指したものでした。
林家への影響

改革前の林家の衰微: 林家は初代羅山以来、幕府の儒者として重きをなしていましたが、四代信充以降は衰退の道を辿り始めました。五代信言は大学頭に20年在任しましたが目立った事績がなく、六代信徴も短期間の在任で影響力を発揮できませんでした。六代信徴の病没で血統が途絶え、旗本富田明親の次男信敬が養嗣子として七代目を継ぎましたが、彼も病弱で早世しました。この頃、林家は当主の不才と早世により衰微が明らかでした。

家政の乱れと当主の評価: 天明・寛政期には林家の家政の乱れを暴露するような噂が流布していました。『よしの冊子』には、五代信言の嫡男信愛の妻である寡婦玖爾が「わがまま放題な悪女」であるという噂や、当時の大学頭であった七代信敬が「優柔不断な人物」であるという世評が記されています。

関松窓の影響力: 四代信充以降、大学頭としての影響力を失い弱体化した林家では、関松窓が実質的な権力を握っていました。松窓は林家四代の当主に仕え、林家の家塾である八代洲塾の学頭を勤め、林家の学統を実質的に継承する人物と目されていました。しかし、老中田沼意次との親密な関係を利用して幕府儒者の地位を得ようとしたため、新当主の信敬や市河寛斎、さらには林家一門の書生たちからも不信感や疑念を抱かれるようになりました。

異学の禁による林家の対応と抵抗: 寛政2年(1790年)5月24日、七代信敬は松平定信から「朱子学以外の異学を教え学ぶことを禁じる」という異学の禁の諭達を受けました。翌日には信敬から門下へその旨が示諭され、翌月には関松窓と平沢旭山が「異学の徒」として林家を破門されました。しかし、信敬自身は林家の塾内で異学を禁じることは林家本来の学問のあり方ではないと考え、門人への最初の示諭を修正する追諭を発しました。さらに翌年の寛政3年(1791年)9月には「御内々申上書」を提出し、狭い朱子学のみを学ぶことでは「識量固陋」となり「御用にも相立不申」、林羅山や林鵞峰の本意や徳川家康の神慮に反すると批判し、柴野栗山ら聖堂取締の専横を非難しました。

林述斎の当主就任と林家の復興: 信敬が寛政4年(1792年)に26歳で病没し、林家の継嗣が不在となりました。定信は学制改革に協力的で、かつ大学頭にふさわしい学才と政治的手腕を兼ね備えた人物として、寛政5年(1793年)に松平乗薀の三男であった林述斎(当時26歳)を林家の養嗣子としました。定信の免職後、学制改革の路線は松平信明らによって継続され、述斎がその具体化を牽引しました。

地位の向上: 寛政9年(1797年)12月、昌平黌が幕府直轄の昌平坂学問所となり、林大学頭の家禄は従来の1523石から3000石へと倍増し、座班も引き上げられました。これにより、林家は公的に幕府教学体制のトップの地位に就き、述斎は衰退していた林家の名声を回復させ、林家の中興を成功させました。『甲子夜話』では、寛政の改革で抜擢された多くの幕臣が時代とともに評価を変える中で、述斎だけが「書抜」(抜きん出た人)として常に人望があったと評価されています。
儒学界への影響

異学の台頭と朱子学正学論の興隆: 安永・天明期には、荻生徂徠の古文辞学が大流行し、儒学界は四分五裂の状況にありました。これに対し、那波魯堂、西山拙斎、尾藤二洲、頼春水などの西国の朱子学者たちが朱子学を「正学」とし、古義学や古文辞学、陽明学などを「異学」として排斥する論調を主張しました。特に拙斎は柴野栗山を通じて定信に異学厳禁の建白を促し、春水も定信に「異学の源委を勉晰」するよう進言していました。

異学の禁の実施: 松平定信は、老中就任直後から倹約や文武忠孝の奨励、人材登用のための布石を打ち、儒学教育を通じた幕臣の風俗矯正や忠孝奨励を図りました。定信は幕臣の意識改革には儒教的倫理道徳による教化が不可欠と考え、寛政2年(1790年)5月24日、林家に対し朱子学以外の異学を教えることを禁じる「異学の禁」を諭達しました。

異学の禁への反発: この異学の禁に対しては、林家一門の雲室が「何を以て正学と申事なるにや」と批判したり、外部の儒者からも多くの批判が寄せられました。尾張藩儒の塚田大峯は「儒学に流派はないはずであり、朱子学に限定せず人々の好みに任せて修行させるべき」と反対しました。柴野栗山と親交のあった赤松滄洲も、異学の禁の「偏僻」を批判し、撤回を求めました。亀田鵬斎、山本北山、塚田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴らは「異学の五鬼」と称されました。

松平定信の真意: 定信自身は朱子学系の学統でしたが、儒学の諸学派には一長一短があり、儒者の行いが正しければどの学派でもよく、藩内には様々な学派が混在している方が良いと述べるなど、私的には諸学派に対して比較的寛容な見解を持っていました。定信にとって異学の禁は、朱子学正学論を実現するためではなく、幕府の教学の中心となるべき昌平黌を改革し、幕臣の風俗を矯正し、有能で清廉な人材を養成するという、政治改革上の課題として捉えられていました。

昌平黌の幕府直轄化と学制改革の推進:

聖堂取締の設置: 異学の禁に先立ち、寛政2年4月には定信が昌平黌を巡察し、5月22日には柴野栗山と岡田寒泉が聖堂取締に任命され、昌平黌の学政を補佐することになりました。これは林家以外の幕府儒者を運営に関与させようとするものでした。

評定所儒者の廃止と祭田の幕府管理化: 寛政2年12月には評定所儒者が廃止され、寛政3年(1791年)3月には聖堂に付与されていた祭田千石や昌平黌の学問料が幕府管理に改められました。これは聖堂および昌平黌の管理運営を林家から幕府直轄へ移行させる第一歩でした。

人材登用と試験制度の整備: 寛政4年(1792年)9月には昌平黌で第1回学問吟味(経義・史学・詩格・作文の四科目)が実施され、幕府による人材登用試験が具体化されました。童科(素読吟味)も実施され、学問吟味は3年に1度実施されることが定格となりました。

教育体制の強化と官撰事業: 寛政9年(1797年)12月、昌平黌は正式に幕府直轄の昌平坂学問所へと組織変更されました。これは寛政の改革における学制改革の一大画期となりました。その後も昌平坂学問所の改築・拡充が進められ、教育体制の補完・充実のために藩儒が「賓」(客員)として招かれ、講釈が行われました。

官版・官撰書物の出版: 大学頭林述斎の監修のもと、昌平坂学問所は書物の出版・編集機能を持ち、寛政11年(1799年)からは「官版」の刊行を開始しました。これらは朱子学関係書や政治倫理の古典が多く、教科書としてだけでなく広く世間に流布させる目的もありました。また、述斎は中国で散逸した漢籍を日本で現存するものを刊行する「佚存叢書」の出版も主導しました。さらに、昌平坂学問所では**『孝義録』『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁』『史料』『武家名目抄』、および複数の地誌**など、定信が企図した官撰書物の編纂事業が進められました。これにより、幕府の教学機関としての権威が強化され、知識基盤が確立されました。
このように、寛政の改革における教育制度改革は、衰退していた林家を幕府教学の中核機関として再編・強化し、林述斎をその牽引役とすることで林家自身の復興も果たしました。また、儒学界においては朱子学正学論が高まる中で異学の禁が発令され、朱子学を正学とする幕府の教学方針が明確化されました。これは単なる学派の統制に留まらず、幕臣の教化と人材登用を目的とした、幕府全体の改革の一環として位置づけられていました。

Q 林述斎自身は、立場上朱子学を大切にしていますが、実は徂徠学や陽明学にも長けており、弟子にも朱子学を強制していないのは本当ですか?

A 寛政の改革における林述斎(林家八代当主、大学頭)の教育制度改革への関与と彼の学問的背景についてですね。彼の立場と個人的な見解には、興味深い側面があります。
林述斎は、公式には幕府の教学の中心を担う大学頭として朱子学を重んじる立場にありましたが、彼の学問的背景や個人的な見解は、特定の学派に限定されるものではありませんでした。

多様な学問的背景

述斎は少年時代に、荻生徂徠の古文辞学系の儒学者である大塩鼇渚や服部仲山に儒学を学びました。

その後、林家の門人で朱子学者であった渋井太室に師事し、さらに折衷学系の儒学者である細井平洲からも儒学を学びました。

このように、彼は徂徠学、朱子学、折衷学という当時の主要な学派の学者たちに師事しており、様々な学説に精通していたことがうかがえます。

学問的寛容性を示す姿勢

述斎自身は、林家の学風について「林家にはその家なりの学風があるが、弟子の中には他門の学風を好み、かえって家学を疎んじる者がいても、これを咎めることはしない」と述べています。

これは、彼が大学頭として朱子学を正学と位置づけざるを得ない立場にありながらも、学派間の多様性や個人の学問的志向に対して、比較的寛容な考えを持っていたことを示唆しています。

佐藤一斎も述斎の人柄を「大度、恢豁にして能く物を容る」(度量が大きく、物事を寛容に受け入れることができる)と評しており、彼の多様な学問を受け入れる姿勢と通じるものがあります。

改革推進の動機と役割

寛政の改革における異学の禁とそれに続く学制改革は、老中松平定信が幕臣の意識改革と人材育成を図るための政治的課題の一環でした。定信自身も個人的には諸学派に比較的寛容な見解を持っていました。

述斎は、病没により血統が途絶えかけていた衰微状態の林家を再興させ、幕府教学の中核機関としての地位を回復させるため、定信の学制改革路線を継承し、その具体化を牽引しました。

彼は、幕府直轄となった昌平坂学問所(旧昌平黌)の改革を主導し、組織再編、教育課程の強化、厳格な試験制度の確立、さらには教科書となる官版の出版や**『孝義録』や『徳川実紀』などの官撰書物**の編纂事業を監督しました。これらを通じて、学問所は幕府の教学機関としての権威を確立し、知識基盤を強化しました。

彼の政治的手腕や実務能力、そして学問的才能は、これらの改革を成功させる上で不可欠でした。
このように、林述斎は、多様な学派を学んだ経験と寛容な学問観を持ちながら、幕府の政策として朱子学を正学とする学制改革を主導し、衰退していた林家の地位を回復させ、幕府教学体制の再編強化に大きく貢献した人物であったと言えます。


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