毛利軍は、西軍総大将として、何もしないまま終わってしまいました。
Wikipediaによると、西軍の動員兵力の多い順は次のとおりです。
1 宇喜田秀家 17,000
2 小早川秀秋 15,000
3 毛利秀元 15,000
4 長宗我部盛親 6,600
5 石田三成 6,000
6 大谷吉継 4,100
7 小西行長 4,000
8 吉川広家 3,000
宇喜田家は前述のとおり、お家騒動で、有力な家臣が家康につきました。それでも西軍では最もよく闘ったといえます。
小早川隊、吉川隊は寝返ります。
毛利隊は、吉川広家の反逆により、足止めを食らいます。
それでは、長宗我部はどうしたのでしょう。もともと、盛親は東軍につこうと考えていました。しかし、近江国水口で長束正家に行く手を阻まれ、西軍についたのです。
その布陣は、東南のはずれ。初めから動く気がないような場所を選んでいます。
西軍で機能していたのは、実質、宇喜田・石田・大谷・小西の四隊だけだったのです。
⑳ 大谷吉継の誤算
大谷吉継こそが、関が原のキーマンの一人でしょう。
大谷吉継は、ハンセン病を患っていましたが、知力・武力共に高く、豊臣秀吉をして、「100万の軍勢の采配を振るわせてみたい」と言わしめたほどの才能溢れる武将でした。
三成の親友でありながら、家康にも近く、両者の仲を取り持とうとしました。
これが成功していれば、日本の歴史は大きく変わっていたところでした。
しかし三成の決意を聞き、最終的には三成を支持します。
関が原での戦いぶりも勇猛でした。
小早川の裏切りを予知し、少ない軍勢で奮戦しましたが、小早川の裏切りに備えていた西軍の小川・脇坂・赤座・朽木隊が寝返り、大谷隊に襲い掛かってきたのです。
さすがの吉継も、これは誤算でした。
その大谷隊の壊滅により、家康本隊が動き、東軍は西軍に総攻撃をかけ、勝敗は決したのです。
決戦始まって、わずか6時間あまりの出来事でした。
同様に、東北・北陸や九州・四国など、全国各地で天下わけ目の戦いが繰り広げられましたのです。
Wikipediaによると、西軍の動員兵力の多い順は次のとおりです。
1 宇喜田秀家 17,000
2 小早川秀秋 15,000
3 毛利秀元 15,000
4 長宗我部盛親 6,600
5 石田三成 6,000
6 大谷吉継 4,100
7 小西行長 4,000
8 吉川広家 3,000
宇喜田家は前述のとおり、お家騒動で、有力な家臣が家康につきました。それでも西軍では最もよく闘ったといえます。
小早川隊、吉川隊は寝返ります。
毛利隊は、吉川広家の反逆により、足止めを食らいます。
それでは、長宗我部はどうしたのでしょう。もともと、盛親は東軍につこうと考えていました。しかし、近江国水口で長束正家に行く手を阻まれ、西軍についたのです。
その布陣は、東南のはずれ。初めから動く気がないような場所を選んでいます。
西軍で機能していたのは、実質、宇喜田・石田・大谷・小西の四隊だけだったのです。
⑳ 大谷吉継の誤算
大谷吉継こそが、関が原のキーマンの一人でしょう。
大谷吉継は、ハンセン病を患っていましたが、知力・武力共に高く、豊臣秀吉をして、「100万の軍勢の采配を振るわせてみたい」と言わしめたほどの才能溢れる武将でした。
三成の親友でありながら、家康にも近く、両者の仲を取り持とうとしました。
これが成功していれば、日本の歴史は大きく変わっていたところでした。
しかし三成の決意を聞き、最終的には三成を支持します。
関が原での戦いぶりも勇猛でした。
小早川の裏切りを予知し、少ない軍勢で奮戦しましたが、小早川の裏切りに備えていた西軍の小川・脇坂・赤座・朽木隊が寝返り、大谷隊に襲い掛かってきたのです。
さすがの吉継も、これは誤算でした。
その大谷隊の壊滅により、家康本隊が動き、東軍は西軍に総攻撃をかけ、勝敗は決したのです。
決戦始まって、わずか6時間あまりの出来事でした。
同様に、東北・北陸や九州・四国など、全国各地で天下わけ目の戦いが繰り広げられましたのです。