しばらくぶりに仙台駅東口近くで昼ごはんを食べました。
東口の前を見たら、ビルの建設をやっていて、変わった宣伝文が書いてありました。
「日本初、純木造7階建てビル」
近くをぐるりとまわってみました。
後側から見ると
「都市(まち)に森をつくる」と書いてあります。
シートが張ってあるので、どのようになっているか、わかりません。
できあがった時の姿が楽しみです。
しばらくぶりに仙台駅東口近くで昼ごはんを食べました。
東口の前を見たら、ビルの建設をやっていて、変わった宣伝文が書いてありました。
「日本初、純木造7階建てビル」
近くをぐるりとまわってみました。
後側から見ると
「都市(まち)に森をつくる」と書いてあります。
シートが張ってあるので、どのようになっているか、わかりません。
できあがった時の姿が楽しみです。
60代後半になり、健康維持に気をつけています。
半日仕事、半日余暇で暮らしています。
先日健康診断を受けると聴力の精密検査も指摘されました。
今までの持病に加えて、からだのあちらこちらに不備が出てきます。
エクササイズバンドリングは、体幹バランストレーニングの補助に購入しました。
趣味ドキ!の番組で元サッカー代表の福西選手が使っていました。
負荷をかけてトレーニングをするものです。
呼気トレの吹き戻しは、呼気持続力のトレーニングです。
誤飲を防ぐために、のどを鍛えるのにいいかと思って購入しました。
息子に頼んでアマゾンで買いました。自分ではネット通販はやってません。
新聞や週刊誌の健康記事は切り取って保存して読んでおきます。
最近は手術や薬の話が気になっています。
いろんな薬も飲んでいるので、その副作用や飲み合わせなどに気を使っているのです。
まだまだ孫の成長も見たいし、本もたくさん読んでいきたいので、健康で長生きできるように頑張ります。
この三連休は地元にいました。
孫のお食い初めがありました。
両家のじじ、ばばもそろってお祝いをしました。
生まれて三ヶ月がすぎ、大きくなりました。
今日からは父の赴任地に行って、家族三人で暮らします。
今度は、じじ、ばばが飛んで行くよー。
最近図書館から本を借りてくることが多くなった。(他にも読む本はいっぱいあるのだが)
先日も宮城の歴史の箇所から「よみがえるふるさとの歴史」シリーズの1、「荒浜湊のにぎわい」を借りてきた。
この本の副題は「東廻り海運と阿武隈川舟運の結節点」という。
ここに言う「荒浜湊」というのは、今の亘理町の阿武隈川河口にあった港である。
副題にもあるように、荒浜は阿武隈川舟運と江戸などに行く海運の中継地として、江戸時代から明治の初めまで
賑わっていたようである。
運ばれていたのは、阿武隈川舟運を使って運ばれた福島盆地周辺の米であった。もちろん江戸方面からくる物もあり、
物が運ばれれば人の交流もあった。
荒浜が注目を浴びるきっかけとなったのは、幕府領の年貢米の「城米輸送」でした。
寛文四年(1664年) 米沢藩主上杉綱勝が急死したことにより、米沢藩領三十万石のうち、陸奥国の信夫郡と伊達郡、
そして出羽国屋代郷の一部、合計十五万石が没収されることになり、これらの地域は幕府領となりました。
新たに幕府領となった地域は内陸に位置しているため、信夫郡、伊達郡を通っている阿武隈川を利用し、舟運を利用して
太平洋の海運につなぐ方法が採られました。
城米はまず阿武隈川の河岸へ集められ、川船で荒浜まで運び、そこで海船に積み替え、海路で江戸方面へ向かいました。
このため、荒浜は城米輸送の基地として重要視されました。
河村瑞賢の変革
河村瑞賢は江戸初期の豪商で、伊勢生まれです。寛文十一年(1671年) 、瑞賢は城米輸送を指揮することになりました。
瑞賢により城米輸送は、それまでの銚子を経由する方法から房総半島沖を回って江戸まで直接海路で運ぶ経路を選択しました。
その経路は、荒浜→平潟→那珂湊→銚子→小湊→江戸でした。これが東廻り海路で、翌寛文十二年、瑞賢は出羽国酒田から江戸までの
西廻り航路を使った城米輸送を成功させています。
幕府代官所による城米輸送
瑞賢指揮による城米輸送は1年限りで、翌年からは幕府代官所が行うことになり、以降福島盆地周辺を支配する代官、国領半兵衛が
担当することになりました。航路上の要所には「城米浦役人」という役職が設けられ、それには地元の在地有力者が任命されること
になりました。荒浜の場合、武者惣右衛門が任命され、以後代々武者家が城米浦役人を務めました。
物流拠点としての荒浜
「人」の交流
事故対応と漂流体験
おわりに
明治初期の活況
幕藩体制が終わって城米輸送や藩米輸送は無くなりましたが、民間商品輸送が活発に行われるようになりました。
瀬戸内海産の塩、魚粕や鶏糞など肥料が多く取引されていました。
鉄道開通による変化
しかし、明治20年には仙台まで鉄道が開通、これにより沿線地域に大きな変化が起こりました。
福島盆地周辺では鉄道による輸送が行われるようになりました。これにより阿武隈川舟運は打撃をうけ、衰退していきます。
荒浜に集積する物量も減少し、その影響力は衰退してゆきます。
以上は、冊子からの抜粋です。途中一部省略しました。
いずれにしろ、阿武隈川を介して福島盆地と宮城県の海岸部は交流がありました。
福島生まれで、福島盆地にもなじみの土地勘があるものとして、阿武隈舟運は興味が尽きないものがあります。
これからも地元の歴史学びを続けていきたいと思います。
最後に、私が以前に撮った阿武隈川河口の写真がありましたので載せておきます。(2010年撮影で、震災前のものです)
こちら側は岩沼市、向こうが亘理町です。左側波の見えるのが太平洋、右側が阿武隈川で、
右上のほうが荒浜があったところです。
これは貞山掘りです。今はこんな風景はなくなりました、
阿武隈川と貞山掘りの間の関門です。いまは壊れてありません。作り直したかもしれません。
これも貞山掘りです。
いずれも今は風景が変わっているはずです。
朝鮮貧民窟調査旅行と卒業
1892年(明治25年) 、島貫は朝鮮の貧民窟調査に行くことになった。
調査旅行は7月から8月にかけて35日間、読売新聞の主筆中井錦城と一緒であった。
特にプロテスタントの朝鮮伝道の急務なることを痛感して帰国した。
帰国すると「福音新報」に「往て朝鮮に伝道せよ」と題して寄稿した。
その後、日本基督教大会に朝鮮伝道を提案したが、朝鮮伝道案は廃案になった。
しかし、彼は東洋伝道に先立って、まず貧民の救済問題を解決しなければならないと感じるようになった。
後年、これが日本力行会を創立する動機の一つになったという。
調査旅行から帰ると彼は直ちに東京に出て貧民救済の事業を開始しようとした。
しかし、押川氏やホーイ氏の諫めに従って、卒業まで英語神学部に学ぶことになった。
その後も貧民の状態に関心があり、各地で調査をするとともにキリスト教夏期学校に委員として参加するたびに、
貧民の救済方法の研究を怠らなかった。そしてこの夏期学校で多くの知己を得た。その交際は、日本力行会を創立にあたり
多大の便利を得ることになったという。
島貫は卒業にあたって、神学研究の成果として「組織神学」一冊を著して、押川校長に献げた。
また卒業式当日に読む卒業論文は、島貫の長年の念願、主張を内容とした「東洋伝道と救済問題」であった。
その要旨は「人間は肉のみのものでないように霊のみのものではない。故に霊の救済が必要なら肉の救済も度外視できるものではあるまい。」
「日本を本当の意味において救うには貧しい日本人のパン問題を看過することができない。」
「霊肉両面の救済が真の伝道である。故に私は生涯キリスト教を伝うるに、かくの如き方法で宣教するつもりである。」
これによって、卒業後の彼が伝道者としてその進むべき方向を確立したものであった。
島貫28歳、明治27年(1894年) 春のことであった。