朝鮮貧民窟調査旅行と卒業
1892年(明治25年) 、島貫は朝鮮の貧民窟調査に行くことになった。
調査旅行は7月から8月にかけて35日間、読売新聞の主筆中井錦城と一緒であった。
特にプロテスタントの朝鮮伝道の急務なることを痛感して帰国した。
帰国すると「福音新報」に「往て朝鮮に伝道せよ」と題して寄稿した。
その後、日本基督教大会に朝鮮伝道を提案したが、朝鮮伝道案は廃案になった。
しかし、彼は東洋伝道に先立って、まず貧民の救済問題を解決しなければならないと感じるようになった。
後年、これが日本力行会を創立する動機の一つになったという。
調査旅行から帰ると彼は直ちに東京に出て貧民救済の事業を開始しようとした。
しかし、押川氏やホーイ氏の諫めに従って、卒業まで英語神学部に学ぶことになった。
その後も貧民の状態に関心があり、各地で調査をするとともにキリスト教夏期学校に委員として参加するたびに、
貧民の救済方法の研究を怠らなかった。そしてこの夏期学校で多くの知己を得た。その交際は、日本力行会を創立にあたり
多大の便利を得ることになったという。
島貫は卒業にあたって、神学研究の成果として「組織神学」一冊を著して、押川校長に献げた。
また卒業式当日に読む卒業論文は、島貫の長年の念願、主張を内容とした「東洋伝道と救済問題」であった。
その要旨は「人間は肉のみのものでないように霊のみのものではない。故に霊の救済が必要なら肉の救済も度外視できるものではあるまい。」
「日本を本当の意味において救うには貧しい日本人のパン問題を看過することができない。」
「霊肉両面の救済が真の伝道である。故に私は生涯キリスト教を伝うるに、かくの如き方法で宣教するつもりである。」
これによって、卒業後の彼が伝道者としてその進むべき方向を確立したものであった。
島貫28歳、明治27年(1894年) 春のことであった。