先日の九州旅行写真には続きがあって、熊本駅に着いた後、鹿児島本線で大牟田へ出て、そこから西鉄天神大牟田線で
福岡県の柳川市に寄った。柳川は水郷の町という知識だけはあり、一度行ってみたかったのである。
駅前の観光案内所で街中案内のパンフレットをもらい、川下りの乗り場へ向かった。
川下りの船に乗り込み、堀の中の水路を船頭さんの案内を聞きながら進んでいった。
その後、船の終点で降り、「御花」(おはな)というところを見学した。
ここは、柳川藩の別邸があったところで、当時この辺りは「御花畑」といわれていたことから「御花」と呼ぶようになったという。
明治時代には立花伯爵家の邸宅となり、池庭「松濤園」を整え、「松濤園」は国指定名勝となっている。
この「御花」のなかに御花史料館というのがあり、そこではじめて「立花宗茂」という武将を知った。
そこにおいてあった特別展「立花宗茂」のチラシによると、立花宗茂は豊臣秀吉による九州平定の先陣として活躍し、
筑後柳川の大名に取り立てられたという。関ケ原の合戦ではその恩義から西軍に加担し、柳川の領地を失い浪牢の身となった。
しかし、その器量を惜しむ徳川家に重用され、改易から20年後、旧領に奇跡の復活を遂げたという。
そこで、トップ写真の雑誌が「立花宗茂」を特集していたので購入した次第である。
その記事の「総論」によると、立花宗茂は「乱世を真っ直ぐに生き、『武人の鑑』と謳われた快男児」だという。
また、豊臣秀吉は「その忠義、鎮西一。その武勇、また鎮西一」と激賞したという。
宗茂の略歴を示すと、
1567年、豊後国国東郡筧にて誕生。実父、高橋紹運。
1581年、立花道雪の養嗣子となる。
1586年、島津軍により、岩屋城陥落。高橋紹運、自刃。
宗茂は立花城を死守。島津軍を追撃し、痛撃を与える。
1587年、独立大名として柳川に封じられる。
1593年、文禄の役、碧蹄館の戦いで、勝機を作る。
1598年、慶長の役、第二次蔚山城の戦いで加藤清正を救援。
1600年、関ケ原の役で、西軍に属す。大津城を攻撃。
西軍敗退で柳川に帰還。加藤清正の説得で開城。家臣とともに、肥後国高瀬に移る。
1604年、5千石で幕臣に取り立てられる。
1606年、奥州棚倉1万石で大名に復帰。
1614年、大坂冬の陣に出陣。
1615年、大坂夏の陣に出陣して活躍。奥州棚倉4万5千石に加増。
1620年、徳川秀忠から柳川への再封を申し渡される。
1621年、柳川城に入る。
1638年、72歳の時、島原の乱鎮圧のため出陣。
1642年、76歳、江戸にて死去。
各地を旅行すると、今まで知らなかったことを知る楽しみがある。
そしてまた調べる。雑学ではあるが、いろんなことを知れるのが私の楽しみである。