郷が杜備忘録

旅行や読書と日々の行動の記録。
日常のできごとや思い出の写真が中心。 たまに旅行の記事も投稿します!

佐藤信淵(のぶひろ)の虚実

2022-09-30 | 読書からの雑知識

江戸後期の羽後に佐藤信淵(1769-1850)という学者がいた。

山川出版社の「日本史」にも江戸後期、「幕藩体制の動揺」の章の「化政文化」のところにでている。

政治・社会思想の発達として、安藤昌益などともに佐藤信淵の説明があり「産業の国営化と貿易による振興策とを主張した」と書かれていた。

このようなことから、私も東北にもこのような発想をする人がいたのだと誇らしく思っていた。

ところが、谷沢氏の書によると、佐藤信淵はいただろうが、その著作・主張は疑わしいという。

著作は「農政本論」、「経済要録」、「宇内混同秘策」などがある。

戦前に森銑三という学者が「佐藤信宏ー疑問の人物」として詳しく考証しているという。

そういうこともあるのかと思い、かつて購入していた関係する本を探したら、高橋富雄氏の「東北の風土と歴史」(1976,山川出版社)に、

「佐藤信淵の著書はとても事実とは思われない」と書いてあり、「他人の著訳書からの剽窃と孫引きがまことに多い。欺瞞と虚構には

十分注意を払わねばならぬ。」と書いていた。

しかし、高橋氏はそれを認めたうえで、「東北の庶民の出の者が歴史的役割を果たすには、このようなマキャベリズム的生き方も、

ひとつの必要悪であったかもしれない」と述べている。

高橋氏は「佐藤信淵の思想は百科全書的思想といってもよい」といい、「彼の思想ほど、未来国家の構想、ヴィジョンづくりに、すべての

学問を総合したものは近世まれであった」として、「封建を一つ先に越した社会と国家への展望を開いている」。「明治の絶対主義国家に

かなり近いところもあるし、それを少し先に進めた国家社会主義、全体主義の国家構想になっているところもある。」と言っている。

ただ、佐藤信淵の構想はアイデアにとどまっており、国家改造法案にまではなっていなかったという。

最近大きな玉ねぎの下で行われたイベントで素晴らしい弔辞を述べた方がいたが、考えてみればその方も羽後の人であったような気がする。

そしてその方の愛読書はマキャベリの「君主論」であったともいう。




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定禅寺通のカフェでランチ

2022-09-28 | 日記

今日は午後歯医者の予約があったので、街中でランチした。

定禅寺通の三越の近くに「ほの香」の姉妹店ができたのを、以前何かで見ていたので、そこに行ってみることにした。
スイーツとカフェが中心で、食事は4種類のカレーとサンドイッチであった。
BLTサンドイッチとハンドドリップコーヒーのケニアを頼んだ。
サンドイッチはボリュームがあり、私のおなかには十分で美味しかった。ケニアは酸味があり、おいしいコーヒーだった。
お店の中は2階もあるのかと思ったら、1階だけで2人掛けテーブル5つなので、私が来たときは3つ開いていたが、その後2組の方が来てすぐいっぱいになった。
テイクアウトもやっているので、外向きのカウンターからの手渡しも忙しかったようだ。






この次は、本日のコーヒーが380円なので、テイクアウトで頼んでもいいなと思った。
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相模のもののふたち2

2022-09-24 | 読書
前々回紹介した永井路子さんの「相模のもののふたち」のなかで、8編の中の残りの4編についてその後読了したので、感想をお知らせします。

残り4編とは、
3、地下に歴史の館は眠る  土肥 土屋 岡崎
4、中世ロマンのふるさと  曽我 二宮
5、宿命の明暗を背負って  大庭 懐島
6、山の武士団の興亡    波多野 河村

前回読んだ三浦半島の三浦、和田は、頼朝の挙兵時に最初から頼朝側についたが、中央部の梶原、海老名、渋谷は始めは去就を明らかにしていなかった。
それは、中央部の今の藤沢近くに平家方の大場景親がいたからかもしれない。

今回読んでみると、伊豆と相模の境のところにいた、土肥実平が大きな働きをしていたことがわかった。
頼朝挙兵にあたって、相模の三浦一族と土肥実平が大きな功績があった。土肥は相模の南西部に勢力を張っていた中村宗平の次男で、戦いのあった石橋山の近くの今の湯河原あたりを拠点にしていた。
石橋山で敗れた頼朝は付近を逃げ回り大杉の洞窟に隠れていたところを梶原景時の機転で救われているが、それ以上に地元の土肥の働きと真鶴半島に用意した船による脱出で命を救われている。
土肥実平はその後も頼朝近くで仕え、平家追討では軍奉行や軍監を務めている。
なお、土肥は所領を土肥郷、早川荘、小早川荘も与えられ、その後裔は安芸国の沼田荘、竹原荘にもおよび、そこから後代の小早川氏につながっていくという。

ところで、なぜ伊豆との境にいた土肥実平が頼朝側についたか、相模中央にいた中村景平は中村氏本家、土屋宗遠は中村氏の三男、その近くにいた岡崎義美は中村宗平の娘を妻としており、三浦義明の兄弟でもあった。
中村氏は相模川東部の大庭氏と境を接し、相模川西側では北部の波多野氏とその一族の河村氏、松田氏とも土地争いをしていたという。波多野氏は源氏とはそりが合わず、反頼朝側についたようである。
中村氏周辺の状況と岡崎義美が三浦氏につながっていたということもあり、中村氏、土屋氏、土肥氏は頼朝側に加わったようである。

また、曽我物語で有名な曽我氏は伊豆の伊東氏に近い存在であった。
なお、相模中央部の大場景親は反頼朝、伊豆の伊東祐親も頼朝に娘をとられたこともあり反頼朝であったので、頼朝挙兵時に東側の大庭勢が西に駆け付け、伊豆から頼朝を追った伊東勢とが追いかけ、石橋山の合戦になったという。

しかし、頼朝が房総半島にわたり東国武士団を結集して鎌倉に戻ってくると、大場景親、伊東祐親もとらえられ処分されることになった。

ところで、この大庭景親は大庭氏の次男で、兄は景義といった。頼朝挙兵時、兄景義は頼朝側に加わっている。兄景義は代々源氏に仕えていたから源氏につくと言ったら、次男景親は平家に恩があるので平家側につくといい、恩を大事にしたという。また、景親は都で平家の繁栄を見ており、流人の頼朝に平家を倒せようとは思っていなかったようだ。

そしてもうひとつわかったことは、この大庭氏は鎌倉権五郎景正の子孫であったということである。景義、景親は権五郎景正の孫の子供たちのようである。
実は宮城県の蔵王町に「鎌倉温泉」というのがあり、そこが権五郎景正ゆかりの温泉と言われていたのである。










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孫たちから敬老の日のプレゼントが届いた!

2022-09-21 | 日記
大阪の孫3人から敬老の日のプレゼントが届いた。
和歌山産のひらたねなし柿を冷凍にしたお菓子であった。
フルーティーな菓子で、甘味があり美味しくいただきました。

我が町の敬老のつどいの対象は80歳からで、まだまだとどきませんが、孫たちから見れば十分年寄りです。
この夏はコロナ再拡大で会えませんでしたので、早く孫たちに会うのを楽しみにしています。


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相模のもののふたち(永井路子著)

2022-09-19 | 読書
永井路子さんの本を読んだ。
「鎌倉殿の13人」は時々見ている。
このところ謀略や殺し合いが多くなり、見ているのがつらくなるのが多い。
しかし北条政子役の小池栄子や義時役の小栗旬はいい演技をしていると思い、好感をもって見ている。

今回の鎌倉時代誕生期の話は良い出来だと思う。
この時期に頼朝が幕府を開かなければ、その後の家康の徳川幕府もなかったと思う。頼朝は公家、貴族、寺社が持っていた土地管理の権力を武士に与えたのである。この時期の東国の武士は開発領主であったという。土地を開拓しながら、その土地の管理をし収穫物を京都に送っていたのである。

今回読んだ本は、頼朝立ち上がりに関係した相模の武士団である。ドラマでもたくさんの武士が登場している。その領地が鎌倉を囲む相模の大地に広がっていた。

内容は8編にわたるが、なかでも
1、輝ける海のつわもの 三浦 佐原
2、勇者の栄光と挫折  和田
7、悪名と栄光の蔭に  梶原 飯田 長尾
8、武蔵の血を享けて  渋谷 海老名 愛甲
を興味深く読んだ。

この本は1986年の発行であるが、書かれたのは1978年のようである。
永井氏は「炎環」や「北条政子」「つわものの賦」などを書いているが、中世の相模の舞台を紀行風に描いたのが本書である。

私の現役時代、一時神奈川県界隈で仕事をしていた。場所は横浜と厚木(海老名市)であった。横浜の時は、南の海岸沿いのほうや戸塚などにもいった。厚木の時は、海老名市を中心に、寒川、茅ケ崎、藤沢方面、西の伊勢原、秦野方面まで出かけていた。
懐かしい土地を思い出しながら、その土地にあった歴史を再度思い起こした。








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