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郷が杜備忘録

旅行や読書と日々の行動の記録。
日常のできごとや思い出の写真が中心。 たまに旅行の記事も投稿します!

「島貫兵太夫伝」を読む(その8)

2023-02-10 | 読書・「島貫兵太夫伝」

 (3)日本人移民史

 明治維新後最初の移民は、1861年、グアム島に42名、ハワイ島に153名を農業移民として送り出したのが最初である。

  この最初のハワイ移民は「元年者」と呼ばれ、なかに浮浪無頼の者も多くいて問題があったという。

  その移民が正常化したのが1885年の第1回官約移民と1886年の日布(ハワイ)渡航条約締結以後のことという。

  カナダ移民は、1877年の長崎県出身の永野萬蔵がカナダ移民第1号で、その後1899年には、31,354人、1906年には、36,124人

  になったという。

 

  ブラジル移民については1908年から。最初のブラジル移民者は皇国移民社の781人であった。

  こうした移民は国策による官約移民が大半で、その後民間の移民会社、あるいは団体が発生した。

  民間移民会社のうち独特のものが「日本力行会渡米部」であった。当初苦学生の霊肉救済の一助として設けられたが、

  後には一般の渡米希望者をも収容するようになった。

 (4)日本力行会の社会事業史上の位置

  日本力行会の創立は、1897年(明治30年)1月元旦

  日本力行会の名称が正式に制定されたのは、1900年(明治33年)9月

 今日の我が国の社会福祉事業は、

 「社会福祉事業法」(昭和26年制定)を基本とするいわゆる社会福祉6法の制定により、公的性格の強いものとなった。

 ※社会福祉6法とは、①児童福祉法、②身体障害者福祉法、③生活保護法、④精神薄弱者福祉法、⑤老人福祉法、⑥母子福祉法

    名称は、1986年の著作刊行時点のもの。(その後名称の変わったものがある)

 戦後以前の明治から昭和前期までの社会事業は、多分に私的慈恵的で、慈善事業的、博愛事業的であった。

 特に幕末・明治期のそれは、この傾向を強くし、事業が宗教家によって担われた点に特色がある。

 キリスト教の民間社会事業を見ると、はじめは宣教師が先駆的役割を担っている。

 米人宣教師ヘボン、同じくベリーを先駆として、明治20年代以降、社会事業は日本人自身の手に担われていく。

 石井十次、山室軍平、石井 亮、原 胤昭、片山 潜、留岡幸助、賀川豊彦などがおり、以上は、施療、孤児、精薄児、

 出獄者、貧民等の救済事業であった。

 貧書生の救済事業が、田村直臣の「自営館」と島貫兵太夫の「日本力行会」であった。

 田村の自営館は、1888年、目黒白金三光町に家を借り受けて寄宿舎となし、3人の苦学生を自炊させながら明治学院に

 通わせたのが始まり。その後パトルソン・ホームと命名、アメリカ・ニュージャージー州パトルソン市の児童外国電動局の

 献金に寄って運営されていたからである。

 島貫の「日本力行会」は自営館の影響を受けたではあろうが、島貫のそれは単なる模倣ではなかった。

  1.日本力行会は、会長と会員が一体となって独立独行している。

    外国伝道会社等の援助を一切受けていない。力行会はのちには会費制とし、克己献金運動を行って施設を拡充し、自らの力で

    会を維持したところに特色がある。それは単なる救貧のための慈善事業ではなかった。

  2.日本力行会は、会員の合衆国移民に力を尽くした。

  しかし、移民事業は力行会本来の目的ではなしに、青年たちの苦学力行の目的達成のための手段にすぎなかったのである。

  移民所業は苦学生以外のものにまで拡張されるが、彼は渡航希望者を力行会に入会させ、霊肉共に健全な者としての十分な教育を

  施してのち、渡米させたのである。 

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「島貫兵太夫伝」を読む(その7)

2022-11-21 | 読書・「島貫兵太夫伝」

日本力行会の創立

(1) 苦学部の創設

      明治30年(1897)、彼の年来の希望は、全東洋、全日本の霊肉救済にあった。

  しかし、救貧問題の範囲は甚だ広大であるので、その一部で彼自身の境遇にも近く、その内情にも

    よく通じている、苦学生救済事業を開始しようと「苦学部」を設置した。

  彼は苦学生救助会を「東京労働会」と名付け開始した。その後、仙台から苦情があったので「東京

 精励会」と改称した。

  教会収入のみでは維持が困難となり、賛助会員を募ることとした。そして「慈善新報」を発行して 

    賛助会員に会務報告をした。

(2) 渡米部の創設

   計画が思うように運ばない中、新しい救済方法を考えようと、アメリカの苦学生の実態を調べるこ

 ととなった。これが島貫第1回の渡米である。明治30年11月から明治31年5月23日まで、約

 半年間の視察旅行であった。

   そこで学んだことは、

   ① 行きの船中で見た日本人のハワイ移民客の風紀の乱れで、この経験をもとに「日本力行会渡

    米会員規程」をつくることになる。

   ② 各大学の苦学生の状態、各種慈善事業の実情を視察した結果、

    ・日本の苦学生を苦学せしむるには米国に行かしむるに限ること。

    ・霊肉救済は20世紀以後の大勢やむを得ぬキリスト教の伝道法である。

    ・すべての事業は事務的に運ばねばならぬ。

   帰国後、「東京精励会」を「東京造士会」と改称、苦学生の渡米に取り組み始めた。

   新聞雑誌に苦学生の渡米の有利なことを発表したり、造士会で講演したり、神田教会で

   渡米質問会を設けたりした。パンフレット「実地渡米」も発行している。

   このようにして彼のもとに集まってきた青年たちの中から、一人、二人、三人と渡米者が

   でてきて、彼らから渡米後の状況が報告されてくる。こうした報告が親戚知友にもたらさ

   れると、渡米者の兄弟や友人が造士会を訪ねてくるようになる。

   その後一般の渡米希望者まで訪ねてくるようになった。普通の学生や紳士方の訪問を受け、

   知ってる限りのことを話してやる。宣伝もしないのに会員が増加し、事務も多忙となった。

   そこで「渡米部」を設けて、「苦学部」と区別して仕事を始めた。

 

 明治33年(1900年)9月、事務所を小石川原町に移した。

 東京造士会を「日本力行会」と改称した。

 機関誌「力行」(月刊、「力行世界」の前身)を発行した。

 「日本力行会憲法」5条を定めた。

 1名称、2目的、3事業、4規則、5会員である。   

 

 

 

 

 

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「島貫兵太夫伝」を読む(その6)

2021-05-25 | 読書・「島貫兵太夫伝」

しばらく読んでいなかったが、再度読みはじめた。

(1)上京と牧会

1894年、島貫は東北学院を卒業すると、救貧事業に着手しようとした。

しかし、日本基督教大会の準備や夏期学校の準備、北海道の巡回伝道などで多忙を極めていた。

とうとう札幌で倒れ死も覚悟したが、宮城に帰り養生すると体力も回復してきた。

健康が回復すると、さっそく仙台における貧民窟伝道に着手することにした。

しかし、彼は中央に出て救貧事業とともに直接伝道をしたいと思い、11月東京に向かった。

彼は貧民窟伝道に専念したかったのである。それは宣教師たちの理解を越えるものであり、

教壇派宣教師団との考え方の違いであった。

11月下宿を引き払い、徒歩で12日間の旅行を決行した。目指すは下谷区万年町である。

当時、四谷の鮫ケ橋、芝の新網、下谷万年町と山伏町が3大貧窟と言われていた。

島貫はこのような貧民街について、「キリステアンたるもの正に実際にこれらの救済に着手すべきなり。

吾人は唯聖書を弄して実際は其聖書と遠ざかり居るものを悪むや甚だし。」と書いている。

東京には着いたが、東も西もわからず靖国神社の境内に行くと、そこで東北学院長の押川正義先生に出会った。

押川は自分のところに来て、大日本海外教育会の仕事を手伝わないかと言われ、承諾して、そこで仕事をすることになった。

この仕事は朝鮮人教育を目的としたものであった。東洋救済は彼の宿願であり、朝鮮問題に深い関心を持っていた島貫は例のバイタリティで、

名士の賛同を求めて東京市中を駆け巡ることになる。

(2)結婚と苦学生救済事業の準備

明治28年(1895年)、島貫は日本橋元大工町教会の牧師に就任している。

この教会は合衆国リフォームド・ミッションの日本における最初の教会として、

明治17年5月に創立された由緒ある教会で、当時木曾五郎が牧会にあたっていた。

木曾が老齢で病弱であったので、同派宣教師団が島貫のこの教会への牧師就任を要望したのである。

老人の多いこの教会を青年の多い教会にしようと、島貫は月給12円をすべて雑誌の発行にあてる

ことにした。

そして創刊したのが、「救世」である。明治28年(1895年)3月3日創刊。

冒頭に発行の目的を「伝道のために発行する。伝道事業の進歩発達をはからんがために発行する。

余輩は唯伝道を論ずるをもって任となす。」と記している。

そして、海外教育会の問題、東洋伝道開始の一策、伝道者の勉強、東洋神学会の設立、朝鮮伝道、

教会の自給問題、日本キリスト教徒の大学校設立、安息日学校の緊急問題、教会音楽問題等々、

これらを縦横に論述した。

圧巻は第5号の「救世軍を論ず」である。

「中庸を得たる救世軍の組織を以て、貧民問題を正解し得るものと信ぜざるを得ない」

「空論に走らない実践的一大事業である」「救世軍こそ日本に必要な軍隊である」と述べ、

わが国に救世軍を必要としている証拠として、東京市内の貧民窟に関する統計を挙げている。

そして、「わが国の将来を思うとき、一日も早く救世軍の来日を熱望せざるを得ない」と結んでいる。

兵太夫は明治29年(1896年)7月25日にシカ(志賀子)と結婚している。

兵太夫30歳、志賀子20歳の時である。

志賀子は、兵太夫が宿痾で他界するまでの17年間、良き伴侶として夫の牧会と力行会の事業に献身することとなる。

明治29年は島貫にとって多忙な年となった。教会が元大工町から神田美土代町に新築移転することになった。

苦学生を放棄しておいてはならない。苦学生の霊肉を救済していかなければならない。

まず第一に、当面の急務たる救貧事業の一部である苦学生の霊肉救済から始めるのが自分の使命であると彼は自覚した。

そのために、神田教会を中心に、まず苦学生の救助に尽力しようと決意したのであった。

【年表を見ながら、読書者のコメント】

島貫の生きた時代は、明治の初めから現時点は日清戦争までのあたりである。

島貫は慶応2年(1866)に生まれているので、明治になる直前でした。

その間、10歳までの間に明治新政府の成立の時期がありました。

 1868年 五箇条の誓文・・・この時はキリスト教を禁止していた

 1869年 版籍奉還

 1871年 廃藩置県

 1872年 学制公布

 1873年 徴兵令公布

 1876年 秩禄処分

同時に殖産興業政策の展開がありました。

 1871年 郵便制度の開始

 1872年 鉄道開通、富岡製糸場開業、国立銀行条例制定

 1873年 内務省設置

 1874年 屯田兵制度制定

 1877年 第1回内国勧業博覧会開催

そして、同時期に自由民権運動も展開されています。

 1874年 民選議院設立建白書の提出

 1881年

 ~1882年 政党の結成(自由党、立憲改進党結成)  

 1882年

 ~1886年 福島事件、加波山事件、秩父事件等

 1889年 大日本帝国憲法発布

こうしてみると、明治の初めの10年間によくこの国の仕組みを作り変えたと思います。

もちろんその間には、士族の反乱や西南戦争もありました。

これらの出来事は国の中枢での出来事ですが、この間に一般の庶民は混乱の中でもしっかり生きていたのだと思います。

この本を読んでいくとともに、明治期の歴史も見ていきたいと思いました。 

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「島貫兵太夫伝」を読む(その5)

2020-11-13 | 読書・「島貫兵太夫伝」

朝鮮貧民窟調査旅行と卒業

1892年(明治25年) 、島貫は朝鮮の貧民窟調査に行くことになった。

調査旅行は7月から8月にかけて35日間、読売新聞の主筆中井錦城と一緒であった。

特にプロテスタントの朝鮮伝道の急務なることを痛感して帰国した。

帰国すると「福音新報」に「往て朝鮮に伝道せよ」と題して寄稿した。

その後、日本基督教大会に朝鮮伝道を提案したが、朝鮮伝道案は廃案になった。

しかし、彼は東洋伝道に先立って、まず貧民の救済問題を解決しなければならないと感じるようになった。

後年、これが日本力行会を創立する動機の一つになったという。

 

調査旅行から帰ると彼は直ちに東京に出て貧民救済の事業を開始しようとした。

しかし、押川氏やホーイ氏の諫めに従って、卒業まで英語神学部に学ぶことになった。

その後も貧民の状態に関心があり、各地で調査をするとともにキリスト教夏期学校に委員として参加するたびに、

貧民の救済方法の研究を怠らなかった。そしてこの夏期学校で多くの知己を得た。その交際は、日本力行会を創立にあたり

多大の便利を得ることになったという。

 

島貫は卒業にあたって、神学研究の成果として「組織神学」一冊を著して、押川校長に献げた。

また卒業式当日に読む卒業論文は、島貫の長年の念願、主張を内容とした「東洋伝道と救済問題」であった。

その要旨は「人間は肉のみのものでないように霊のみのものではない。故に霊の救済が必要なら肉の救済も度外視できるものではあるまい。」

「日本を本当の意味において救うには貧しい日本人のパン問題を看過することができない。」

「霊肉両面の救済が真の伝道である。故に私は生涯キリスト教を伝うるに、かくの如き方法で宣教するつもりである。」

これによって、卒業後の彼が伝道者としてその進むべき方向を確立したものであった。

島貫28歳、明治27年(1894年) 春のことであった。

 

 

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「島貫兵太夫伝」を読む(その4)

2020-10-11 | 読書・「島貫兵太夫伝」

明治25年(1892年)は島貫にとって、画期的な年であった。

それは東北救世軍の結成と宮城・福島・山形三県の伝道旅行であった。

この年の3月の春期休暇を利用して行った。

彼は苦学生の世話を始めた頃より貧民伝道を志し、仙台市中の貧民窟を訪ね歩くと、実に多く悲惨なものであった。

彼はこうした人々のために働くことが彼の天職のように思えてきた。

そのためには、自分の体を大いに苦しめて、サルベーション・アーミーのようにやらなければ駄目だと知り、

救世軍に倣って「東北救世軍」を組織し、伝道旅行を試みることにした。

行程は、仙台(3/31昼)→岩沼→相馬中村→保原→福島→米沢→上の山→山形→(天童)→作並温泉→仙台(4/10朝)

通算11日間、この間徒歩で移動したのである。そして合間には、教会や路傍で伝道を行ったという。

この「東北救世軍伝道旅行」は毎日キリスト教主義の各新聞に送り掲載したという。そのため、その噂が東北全体のみならず

全国の各教会にも知れ渡ったという。

この伝道旅行に結集したのは、萩原金太郎、城生安治、木村清松、須藤鷲郎、酒井勝軍、三浦一郎、島貫兵太夫の7人であった。

最年長は島貫の26歳、最年少は木村の18歳であった。

 

この伝道旅行の後島貫はロンドンのブース大将のところに、ロンドンに往きたい旨手紙を書いたところ、その返事が

副校長ホーイの手に入り、別派に関係してはいけないと叱られた。

これは、教壇から説教を中心に福音を伝えようとする合衆国リフォームド教会のミッショナリーと、

霊肉救済を意図する島貫の社会主義的信仰との相違から来たものと思われる。

こうした経緯からロンドン行きはあきらめざるを得なかったが、貧民伝道はやめるわけにはいかないと

引き続き貧民伝道に挺身した。

その活動は、貧民窟の貧者と寝食を共にし、安息日学校を開き、神の聖言を伝えたり学問を教えたりした。

また衣食を給したり、職業を与えたりもしたという。なかには、子供を集めて洟をかんでやったり、髪をくしけずって

やったり、顔を洗ってやることもあり、時には風呂屋にかけ合って風呂に入れてやったりもしたという。

島貫はその間に父を失い、相続人となって年貢米を相続し、それも貧民救済につぎ込んだという。

 

 

 

 

 

 

 

 

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