郷が杜備忘録

旅行や読書と日々の行動の記録。
日常のできごとや思い出の写真が中心。 たまに旅行の記事も投稿します!

「唐牛伝(かろうじでん) 敗者の戦後漂流」を読む

2019-02-24 | 読書

  唐牛伝(かろうじでん) 敗者の戦後漂流
  発行所 株式会社小学館  2016年8月1日  初版第1刷発行

  著者 佐野眞一
  1947年 東京生まれ、
  97年『旅する巨人宮本常一と渋沢敬三』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
  09年『甘粕正彦 乱心の曠野』で講談社ノンフィクション賞を受賞。


  この本は、昨年末に読んだものである。
  昨年、西部邁氏の評伝を読んでいて、西部氏とともに60年安保時に全学連委員長をしていた唐牛健太郎氏
  のことが知りたくなったからである。

  私は戦後生まれであるし、60年安保闘争時代は幼児でもあったので、その当時のことはよくわからなかった。
  大学生になった時もすでに70年代の全共闘運動も終わっていて、いくらか学内にその名残が残っていたころ
  であった。
  私はノンポリであったから学生運動に参加したことも無かったので、その詳しい経緯も知らなかった。
  ただ新聞やテレビにデモとか、成田闘争や、中核派、革マル派などがでてくるので、気になっていたのである。
  その後、東大紛争や連合赤軍事件、あさま山荘事件などに発展して、社会をさわがせたので、今でも記憶に
  残っていた次第である。

  この作品は、ノンフェクション作家、佐野眞一が橋下徹の人物論で物議を醸して休筆してから、3年ぶりの
  本格評伝である。
  著者自身も65年大学入学の安保と全共闘の中間世代ということである。
  そして、2014年は唐牛の没後30年であったということである。

  この本は、60年安保闘争を闘った全学連の闘士たちのその後である。
  この本を読んで初めて知ったのだが、彼らの全学連ブント派は、当時の日本共産党と対立し、敵対していた
  ということである。
  そして、ブント全学連からは政治家は出ていないということである。

  私はまず、唐牛がなぜ全学連運動に関わるようになったかが知りたかった。
  それは彼の生い立ちにあったのではないかと思う。それと、彼を引き上げた人々がいたことである。
  そしていっしょに闘った同志たちがいた。島成郎、青木昌彦、篠原浩一郎、東原吉伸らである。
  彼らも政治や経済の世界に入ることなく、ドラマチックな人生を歩んだ。

  また驚いたのは、安保闘争の後、山口組組長田岡一雄や最後の黒幕、田中清玄との交流があり、吉本隆明
  と共闘し、徳田虎雄とも交流があったということである。
  その間、与論島や北海道・紋別でも生活し、千葉、東京に戻って、1984年に47歳でガンで亡くなった
  ということであった。

  彼らの求めていたものが何であったかはよくわからないが、革命とか主義のためにということとは違うようであった。
  何かその時の世の中や、その後の世界のなかに違和感があって、行動に変わっていったのではないかと思った。
  現代の世の中の動きの中でも、政治や経済の様々なニュースに日々驚かされているが、それらの表面には
  現れない中でまた別の動きと言うか、うごめいているものがあるんではないか、われわれはそのようなものにも
  眼を向けていったほうが いいのではないかと感じさせられた。
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「カフェドリュウバン」でコーヒータイム

2019-02-19 | 日記
今日は仕事の後、東北大学病院に行って来ました。

通院している眼科で検査と薬をもらってきました。

その帰り、時間があったので、医学部正門前にある「カフェドリュウバン」のお店前で

コーヒータイムをとって、おいしいコーヒーをいただいてきました。

ここは、コーヒーの豆を販売しているようですが、持ち帰りでコーヒーが飲めます。

本格的コーヒーが、Sサイズが100円ですので、お得でちょっと一休みするには、最適です。



お店横の駐車場前に、簡単な椅子も置いてありますので、ここでも飲むことができます。
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ハゲタカ(上)(下)  真山 仁著

2019-02-14 | 読書
新装版 ハゲタカ(上)(下)

  講談社文庫  2013年9月13日第1刷発行 2018年7月27日第13刷発行
  この作品は、2004年12月にダイヤモンド社より刊行され、2006年3月に講談社文庫より刊行されました。

  著者 真山 仁(まやま じん)
  1962年 大阪府生まれ、同志社大学法学部政治学科卒業。
  読売新聞記者を経て、フリーランスとして独立。
  2004年「ハゲタカ」でデビュー。


  日本経済はバブル崩壊後の失われた10年を経て、21世紀に入り、すでに20年近くが過ぎようとしている。
  この間、1997年の山一證券、北海道拓殖銀行といった大会社が破綻、長銀の破綻、日債銀の国有化、
  銀行の再編なども行われた。

  これらのニュースの時にはそういう仕事には関係していなかったが、日本はどうなるのだろうと不安であった。
  その間にも政治は、政権交代やスキャンダル暴きに時間をとり、世界の体制に乗り遅れたもたもたを
  繰り返していたように思う。

  そして平成の終わりとなる30年が過ぎて、いままでの付けが回ってきたように政治にも経済にも様々な
  問題がまた起こってきている。

  それは、官僚の劣化であり、ゴーン氏にみられるような会社の私物化、いじめや、児童虐待など、
  毎日ニュースを見てもテレビをつけるのも嫌になってしまう事件が多すぎる。


  今回読んだ「ハゲタカ」は、もうすでに発行されてから15年が過ぎているが、バブル崩壊後の銀行の
  不良債権処分と外国の「ハゲタカファンド」の攻防を小説仕立てで、わかりやすく読むことができた。
  もちろん実在の企業や人物は出てこないが、それらしい名前で現れ、そういうこともあるのかなあと
  思わせるような作りになっていた。
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「20世紀日本」を創った10人、駄目にした10人

2019-02-13 | 日記
「20世紀日本」を創った10人、駄目にした10人
 鼎談:半藤一利VS保阪正康VS松本健一

プレジデント2001年1.15号より、抜き書き

松本:大久保利通・・・官僚制度を軸とした近代国家の原型をつくった。
半藤:天皇を中心とした官僚国家をつくったので、官僚主導の国家が出来上がった。
松本:見方によっては、官僚独裁の大本をつくったので、昭和の大蔵省支配にまでつながっている。
保阪:大久保は人間を非常に冷たく見つめる。その冷たさが後に暗殺される遠因になったのでは。
    しかし、新しい国家をつくるには、こういう人物が必要だった。
    大久保は政権の中枢に座っていたが、生活は質素で、政治家として非常に清廉潔白でした。
 
半島:児玉源太郎・・・最大の国難、日露戦争時にの最大の功労者
    児玉は長州出身で、参謀次長まで出世し、満州軍総参謀長の職に名乗り出て、戦線に立ち、戦争を
    国際的に勝利の形で終わらせることを最大目標として、戦争終結の方法を開戦前から考えていた。

保阪:内村鑑三・・・札幌農学校からアメリカへ留学し、帰国後、一高講師時代に教育勅語への礼拝を拒否して免職になり
    一時、「万朝報」で社会主義者の幸徳秋水らと非戦論を唱えるが、その後は、無教会主義による日本的キリスト教の
    伝道に生涯を捧げた。

半藤:夏目漱石・・・日露戦争に勝って、日本は五大強国入りをしたが、その驕りが日本人をいかに悪くしたか、最初に警鐘を鳴らした。
    その退廃は、第一に出世主義、第二に金権主義、第三に享楽主義、第四に虚無主義、と言われ、近代の日本人の姿とその行方を
    見据え、文明批評を行った点は歴史的に評価されるべき。

松本:原 敬・・・大正に入って、軍閥政治をひっくり返す政党政治への道筋をつけた存在。
    南部藩の家老職の家の出身で、海軍兵学校に落ちて法律学校に進み、自由民権運動の波に洗われる。
    その後、政友会の総裁となり、大正7年には日本初の純然たる政党内閣を組織し、平民宰相という称号を得た。

半藤:石橋湛山・・・明治以来の日本の対外的な膨張主義に対し、一貫して「小日本主義」を唱えて抵抗した。
    日本のような資源の乏しい国は、世界中の国と仲良くしながら、貿易を中心に繁栄を目指すべきだと。
    この「小日本主義」は、戦後の日本そのもの、そして成功した。
    当時大新聞社や言論誌が次第に時流に流されていく中で、湛山は東洋経済新報社で踏ん張って、近代日本の国家戦略を
    問い続けた。ジャーナリストの在り方の原点を示した人物として再認識すべき。

保阪:吉田 茂・・・吉田は戦後6年半の占領期のうち、延べ4年近く首相の座にあった。
    吉田は、近代日本の歴史の中で、昭和6年(1931)の満州事変から20年(1945)の敗戦までの軍事主導主義は、

明治草創期の先達たちがつくった国家像に対する変調であると位置づけた。そして、満州事変以前と占領期をつないでいく
       
         という「再生日本」を意図した。
    
    吉田は日本再生と同時に占領軍とも戦わなければならなかった。そのため吉田の作った戦後日本の骨格は、いくつもの矛盾を抱えた。
    その矛盾を次の世代に処理してもらおうと考えていたが、矛盾がずっと続いてきた。

保阪:斎藤隆夫・・・民政党の代議士。2・26事件の時議会で、粛軍演説を行って軍部を激高させ、日中戦争に対し「聖戦批判」をして
    除名され、常に反軍演説を展開した。

松本:大久保利通から始まって吉田茂までの近代日本の流れ、つまり、近代ヨーロッパ的な文明の理念をある部分批判しつつも追求しよう

        とした路線は基本的には間違っていなかった。しかし、昭和の一時期がそれを駄目にしてしまった。

    
    「駄目にした人」のリストアップは、
    東条英機、伏見宮博恭、加藤寛治、末次信正、昭和に入ってからの東郷平八郎、永野修身、嶋田繁太郎、松岡洋右、
    平泉 澄、瀬島龍三、

松本:「近代日本を創った人」とは、国家意思を背負って国民を救おうという意識に立っている人で、
       
        「駄目にした人」は、結局、私のことしか考えていない。 だから、地位や責任逃れに汲々とする。

半藤:これからは「現代日本を創った人」「駄目にした人」を考えるとき、以上のような視点も一つの切り口となるのではないか。



(私の感想)

※松本氏の指摘は、現代日本政治を考えるときにも大事だと思う。じいちゃんの悲願を達成したいとか、任期中に自分の功績を

      残したいとか、お世話になった人の子供やお友達を大臣にしてあげたいとか、

 そのような考えの方は政治をやってほしくない。
    

  



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「全1冊 小説 蒲生氏郷」(童門冬二著)を読む

2019-02-03 | 読書
「全1冊 小説 蒲生氏郷」を読む


  集英社文庫  2000年12月20日  第1刷発行
  この作品は、もとは1996年2月、学陽書房より刊行された「近江商人魂ー蒲生氏郷と西野仁右衛門ー」として刊行されたもの。
  蒲生氏郷は実在の人物だが、西野仁右衛門は近江商人をモデルに作者が独自に創造した人物。

  著者 童門冬二(どうもん ふゆじ)
  1927年10月 東京生まれ、
  1944年、海軍土浦航空隊に入隊するが翌年終戦。
  戦後は東京都庁に勤務、知事秘書、政策室長などを歴任。
  退庁後は、歴史小説やエッセイなどを執筆。


  日本の歴史の中で、戦国時代はたくさんの武将が現れ、領地を守るとともに、戦争に明け暮れた。
  その中から、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らが現れ、天下を手にしていった。
  彼ら3人の周りにもたくさんの武将が栄枯盛衰を積み重ねていったが、それらについてはたくさんの小説のなかでも取り扱われた。
  その中で、信長に認められ、秀吉とも天下を争ったとしてもそん色なかったと思われるのが、蒲生氏郷であった。
  しかし彼は、若くして病気で亡くなり(40歳)、その野望は遂げられなかった。
  しかし彼は、街づくりや産業おこしに手腕を発揮し、後の世にその影響を残した。
  その名残は、伊勢の松坂や東北の会津若松に残り、そして近江商人の活躍につながっていた。

  なお、この本は元の本にもあるように、蒲生氏郷とともに近江商人を扱っており、西野仁右衛門を通して近江商人の発生と
  その商売への取り組み方、そして妻や息子を通しての商売の発展の仕方にも注目して、描いている。


  蒲生氏郷 略年譜
  1556年 日野中野城(滋賀県蒲生郡中野町)に生まれる。
  1568年 織田信長が観音寺城を攻め、氏郷は人質となり、岐阜城に送られる。
  1569年 岐阜で元服、信長の娘冬姫を娶り、日野に帰る。
  1582年 6月本能寺の変により、安土城の留守居をしていた氏郷は、信長の家族を日の中野城に受け入れ籠城。
  1584年 伊勢松ヶ島城と12万石を賜る。
  1585年 洗礼を受けキリシタンとなる。
  1588年  四五百森に新城完成。松坂と改める。
 
  1590年 小田原北条攻めに出陣。8月会津42万石を与えられる。9月会津黒川城に入る。
        大崎・葛西で一揆が起こる。伊達政宗と協力して、一揆平定に当たることを命じられる。
        伊達政宗に謀反の疑いありと秀吉に訴える。

  1591年 2月秀吉の前で政宗と対決、政宗の旧領は没収される。 
        7月、九戸政実が反乱を起こす。9月反乱を鎮圧、政宗の旧領を加増され、73万4千石となる。
  1592年 会津に帰国、地名を黒川から若松に改める。新城の築城に取り掛かり、城下町の町割りを定める。    秀吉の朝鮮出兵にともない、名護屋に出陣、病を発する。

  1594年 領土の検地をおこなう。領土を92万石に訂正。
  1595年 40歳で、病のため京都伏見の屋敷で死去。
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