「虚無主義(ニヒリズム)を越えて 評伝西部邁」(サンデー毎日掲載)を読む
高澤秀次 著
高澤秀次(たかざわ しゅうじ)氏は文芸評論家。1952年 北海道生まれ。
主著に「戦後思想の巨人たち」「評伝 中上健次」など
西部邁ゆかりの言論誌「発言者」「表現者」の編集委員を務めた。
この評論は、サンデー毎日の11/18号から12/16日号まで「予告された死の真相(1)から(5)として5回掲載されたもの
である。
以下の文章は、その評論からの抜き書きである。
日本を代表する保守派の論客・西部 邁(すすむ)は、本年1月多摩川で入水自殺した。その波紋は事件として警察に捜査された。
西部氏は40代のころから死の想念に囚われていたようであり、その「自裁」の思想は1994年に書かれた「死生論」にも書か
れていたという。
西部氏に「死の影」が急接近してきたのは妻・満智子と、8年にわたる看病の末、死別した2014年からではなかったかと言う。
西部にとって、先立たれた妻は、敗戦直後の北海道の風土的記憶を共有する「故郷の代用品」でもあったのだ。
「自分のそれまでの生(ライフ)」に意味を与えてくれた唯一の者と語ってはばからない存在であった。
西部は10年前に「妻と僕―寓話と化する我らの死」を上梓している。
西部はこの時点で、「死の影」に包囲されていた。妻の死を覚悟しつつも、自らの死(自裁)について詳細に語っているのである。
「人間の生は、他者に役立つような自己を公の場に現わすということでなければ、すでに死んでいるのです。」「だから、僕には
『自死の思想』を手放す気は少しもありません。」
これは、大衆社会への埋没を拒否する、「選良(エリート)」の特権意識に裏打ちされた、「自死の思想」である。
西部は自身の性格を「子供の時分から死のことばかり考えながら生に躍起になる性格の人間」(『ファシスタたらんとした者』)と
自己分析している。
幼年期の放火事件から、北海道時代の万引き、学生時代の左翼過激派組織へのコミット、素人賭博、薬物体験、78歳での
自裁に至る「非行」など、そこに働いているのは、無意識の「自己破壊衝動」ではなかったか。フロイトの精神分析学に照らせば
「死の欲動」なのだ。
西部の「生に躍起になる性格」は、この「死の欲動」に支えられていたと見て、間違いあるまい。
それが外部に向けられた時、さまざまな「非行」の形をとって現れ、逆に内部に向けられた時、累積した歴史的「伝統」に繋がり、
「平衡感覚」を保った、西部邁に固有の保守思想、すなわち「精神の政治学」が構築されるのである。
西部の少年時代、大日本帝国の少国民たる尋常小学校時代は、あっけなく3カ月で終了、「アメリカにすり寄る」戦後教育の
申し子となった。敗戦に過剰反応した少年の、「うつ」の徴候は、低学年からの「吃音(どもり)」となって現れた。
西部邁の思想家としてのスタンスを決定したものとして、アメリカニズムへの反発は、より重要な要素かもしれない。
アメリカニズムは、悪しき自由・民主主義の指標であり、急進的な「近代主義」の別名であった。
アメリカ留学後、滞在予定を変更、イギリスに渡って本格的な保守の思想の仕込みにかかった。そして帰国後、保守という
反時代的意匠をまとうことになった。
西部が己を責め苛むようになったのは、西部の数々の著書への世間的評価の低さ、ないしは無反応ということも関係していた。
西部は、自身のホームグラウンドが活字媒体であることを最後まで疑わなかっただろう。
思想家としての西部の真骨頂は、ケインズ、オルテガから、福沢諭吉、中江兆民にわたる古今東西の知の巨人たちを対象とした、
「思想評伝」というジャンルの開拓にあった。
だが、西部の評論が論壇で物議を醸すといった事態は、起こりえなかった。雑誌「発言者」や「表現者」といった自前のメディア
からも主著が生まれることはなかった。西部塾からも有為の新人が現れることも無かった。
「言論は虚しい」を晩年の西部は口にするようになる。
80年代以降のポスト・モダン思想の流行に最も批判的だったのは、代表的保守派論客となった西部邁その人である。
前近代と近代、そして後近代の思想的バランスシートを、西部ほど厳密に考え抜いた人はいない。
彼の激越なポスト・モダン批判は、野放図な知の過激主義への警告を主眼としていた。その限りで。彼は「善く生きよ」の思想家
だったのである。
「ただ生きるな、善く生きよ」はソクラテスの言葉だ。後に西部は「人間は単に生きるだけではなく『善く生きること』に関心を持つ
奇妙な動物である」〈『人間論』)と言い直している。
改めて、「善く生きる」とは、死に至る壮絶な生き方を引き受ける、西部のある覚悟と深く切り結んでいた。そして西部流の
「生き方としての死に方」は、無頼派的ではなく、あくまで単独者の「無頼」=「非行」の実践であったと思いたい。
以上が、高澤氏の評論のなかの主な内容であった。
この評論(「予告された死の真相」)を読み通して、西部の死に至る経緯には、誕生時からの生い立ちと時代の流れ(戦争中
から戦後へ)、左翼学生運動への参加、その結果としての敗北、社会への不適応、大学教授への転換とそこでの更なる敗北
というものが関係していたような気がした。
そして最愛のというより、よき理解者であった妻の死が、引き金を引いたように思われた。
西部氏の「他者に役立つような自己を公の場に現わすということでなければ、すでに死んでいる。」と言うのもわかる気がするが、
それは、知識人の傲慢のような気もする。
現代の高齢化社会は、生きれるだけ長生きすることが求められているのであり、死を自分では選べないのではないか。
西部氏の行動は個人の考えによる行動であったと思うが、これからの高齢者の増大への問いかけであったのかもしれない。
西部氏の思想は、私にはまだよくわからないが、これからも彼の著作を読み続けていきたい。
高澤秀次 著
高澤秀次(たかざわ しゅうじ)氏は文芸評論家。1952年 北海道生まれ。
主著に「戦後思想の巨人たち」「評伝 中上健次」など
西部邁ゆかりの言論誌「発言者」「表現者」の編集委員を務めた。
この評論は、サンデー毎日の11/18号から12/16日号まで「予告された死の真相(1)から(5)として5回掲載されたもの
である。
以下の文章は、その評論からの抜き書きである。
日本を代表する保守派の論客・西部 邁(すすむ)は、本年1月多摩川で入水自殺した。その波紋は事件として警察に捜査された。
西部氏は40代のころから死の想念に囚われていたようであり、その「自裁」の思想は1994年に書かれた「死生論」にも書か
れていたという。
西部氏に「死の影」が急接近してきたのは妻・満智子と、8年にわたる看病の末、死別した2014年からではなかったかと言う。
西部にとって、先立たれた妻は、敗戦直後の北海道の風土的記憶を共有する「故郷の代用品」でもあったのだ。
「自分のそれまでの生(ライフ)」に意味を与えてくれた唯一の者と語ってはばからない存在であった。
西部は10年前に「妻と僕―寓話と化する我らの死」を上梓している。
西部はこの時点で、「死の影」に包囲されていた。妻の死を覚悟しつつも、自らの死(自裁)について詳細に語っているのである。
「人間の生は、他者に役立つような自己を公の場に現わすということでなければ、すでに死んでいるのです。」「だから、僕には
『自死の思想』を手放す気は少しもありません。」
これは、大衆社会への埋没を拒否する、「選良(エリート)」の特権意識に裏打ちされた、「自死の思想」である。
西部は自身の性格を「子供の時分から死のことばかり考えながら生に躍起になる性格の人間」(『ファシスタたらんとした者』)と
自己分析している。
幼年期の放火事件から、北海道時代の万引き、学生時代の左翼過激派組織へのコミット、素人賭博、薬物体験、78歳での
自裁に至る「非行」など、そこに働いているのは、無意識の「自己破壊衝動」ではなかったか。フロイトの精神分析学に照らせば
「死の欲動」なのだ。
西部の「生に躍起になる性格」は、この「死の欲動」に支えられていたと見て、間違いあるまい。
それが外部に向けられた時、さまざまな「非行」の形をとって現れ、逆に内部に向けられた時、累積した歴史的「伝統」に繋がり、
「平衡感覚」を保った、西部邁に固有の保守思想、すなわち「精神の政治学」が構築されるのである。
西部の少年時代、大日本帝国の少国民たる尋常小学校時代は、あっけなく3カ月で終了、「アメリカにすり寄る」戦後教育の
申し子となった。敗戦に過剰反応した少年の、「うつ」の徴候は、低学年からの「吃音(どもり)」となって現れた。
西部邁の思想家としてのスタンスを決定したものとして、アメリカニズムへの反発は、より重要な要素かもしれない。
アメリカニズムは、悪しき自由・民主主義の指標であり、急進的な「近代主義」の別名であった。
アメリカ留学後、滞在予定を変更、イギリスに渡って本格的な保守の思想の仕込みにかかった。そして帰国後、保守という
反時代的意匠をまとうことになった。
西部が己を責め苛むようになったのは、西部の数々の著書への世間的評価の低さ、ないしは無反応ということも関係していた。
西部は、自身のホームグラウンドが活字媒体であることを最後まで疑わなかっただろう。
思想家としての西部の真骨頂は、ケインズ、オルテガから、福沢諭吉、中江兆民にわたる古今東西の知の巨人たちを対象とした、
「思想評伝」というジャンルの開拓にあった。
だが、西部の評論が論壇で物議を醸すといった事態は、起こりえなかった。雑誌「発言者」や「表現者」といった自前のメディア
からも主著が生まれることはなかった。西部塾からも有為の新人が現れることも無かった。
「言論は虚しい」を晩年の西部は口にするようになる。
80年代以降のポスト・モダン思想の流行に最も批判的だったのは、代表的保守派論客となった西部邁その人である。
前近代と近代、そして後近代の思想的バランスシートを、西部ほど厳密に考え抜いた人はいない。
彼の激越なポスト・モダン批判は、野放図な知の過激主義への警告を主眼としていた。その限りで。彼は「善く生きよ」の思想家
だったのである。
「ただ生きるな、善く生きよ」はソクラテスの言葉だ。後に西部は「人間は単に生きるだけではなく『善く生きること』に関心を持つ
奇妙な動物である」〈『人間論』)と言い直している。
改めて、「善く生きる」とは、死に至る壮絶な生き方を引き受ける、西部のある覚悟と深く切り結んでいた。そして西部流の
「生き方としての死に方」は、無頼派的ではなく、あくまで単独者の「無頼」=「非行」の実践であったと思いたい。
以上が、高澤氏の評論のなかの主な内容であった。
この評論(「予告された死の真相」)を読み通して、西部の死に至る経緯には、誕生時からの生い立ちと時代の流れ(戦争中
から戦後へ)、左翼学生運動への参加、その結果としての敗北、社会への不適応、大学教授への転換とそこでの更なる敗北
というものが関係していたような気がした。
そして最愛のというより、よき理解者であった妻の死が、引き金を引いたように思われた。
西部氏の「他者に役立つような自己を公の場に現わすということでなければ、すでに死んでいる。」と言うのもわかる気がするが、
それは、知識人の傲慢のような気もする。
現代の高齢化社会は、生きれるだけ長生きすることが求められているのであり、死を自分では選べないのではないか。
西部氏の行動は個人の考えによる行動であったと思うが、これからの高齢者の増大への問いかけであったのかもしれない。
西部氏の思想は、私にはまだよくわからないが、これからも彼の著作を読み続けていきたい。