名将 大谷刑部
角川文庫 1999年5月25日初版発行
この作品は、1996年7月に角川書店より刊行されたものの文庫化
著者 南原幹雄(なんばら みきお)
1938年 東京生まれ、早稲田大学政治経済学部卒業。
「女絵地獄」で小説現代新人賞、「闇と影の百年戦争」で吉川英治文学新人賞を受賞。
「銭五の海」で日本文芸大賞受賞。
著作に「北の黙示録」、「徳川御三卿」、「謀将真田昌幸」などがある。
この本は、先に直江兼続を読んで、関ヶ原の戦いの前後の武将に興味を持っていたところ、
ブックオフでこの本を見つけ、読み始めたものである。
武将の大谷吉継については、かなり昔にNHK大河ドラマの関ヶ原の戦いの中で、輿にのって
顔を白い覆面で隠して戦っている場面を見て、変わった武将がいたものだと思っていたという
のが印象に残っていた。
その後、いろんな本などを読むうちに、ハンセン氏病に侵されてそのような状況になったという
ことを知った。だが、関ヶ原以前の彼の事績や生涯についてはあまり知らなかったので、今回の
読書で大いに勉強になった。
特に同時期に活躍した石田三成とは古くからの付き合いで、三成が秀吉に登用される
きっかけとなった観音寺でのお茶の出し方については、大谷吉継のアドバイスによって
認められることになったということである。その後三成の推挙で大谷も家来に採用されたようである。
また、三成も大谷も近江の出身であり、前に読んだこともある蒲生氏郷も近江出身であった。
昔の近江、今の滋賀県は優秀な人材を輩出していることにも感心した。
彼らが活躍した時代は、秀吉が天下を統一していく過程であり、その後秀吉の死により
その天下が家康によってまとめられていく時代であった。その中にあって信長、秀吉、家康
とともに同時代を生きた多数の武将が、自分の野望と将来をかけて生死をかけていた時代であった。
それぞれに日本各地や朝鮮半島まで出かけて行って、覇権を競っていた。
そしてそのような戦闘に明け暮れていながら、与えられた領国の経営にも取り組んでいた
ということで、その才能には驚かされるところである。
大谷吉継の最後の見せ場は関ケ原の戦いである。
三成との友情、豊臣家への恩顧、そしてあこがれた家康との闘い、当初家康の上杉討伐に
合流する予定で出かけた大谷であったが、途中佐和山城で三成の説得に会い、上記のような
結論に達し、三成に加勢することになった。
秀吉亡き後の動向は、秀吉自身も考えていたように、家康を中心とする勢力との対決となって
いった。
しかし、三成に助力した勢力も、三成の考え通りは動かず、数々の勝利要因を逃して、
関ヶ原に激突することになった。そして、各武将の生き残りを賭けた行動が、家康側に有効に
働いていったようだ。
当初動いた上杉軍は家康が反転西上することになると、後方からの追撃をせず、東北内の
最上軍との戦闘に動いた。関東にいた佐竹義宣は動かずに沈黙を守った。
上田城の真田昌幸、幸村親子は、秀忠軍を上田城で時間をとらせたのは大成功であったが、
決戦の地関ヶ原で西軍は家康の作戦にかかり、関ヶ原に出ての野戦に持ち込まれ、
東軍より不利な状況で配置についたようである。
そのようななかでも、大谷軍の意気は高く、家康軍の前衛部隊と大いに闘っていた。
しかし、西軍に参加した島津軍は動かず、毛利軍も動向を見守り、最後に小早川秀秋軍が
家康の脅しにあって裏切りの行動をとり、それに呼応するように、周辺にいた西軍の脇坂、
朽木、小川、赤座の4武将も東軍に寝返ったため、大谷軍は腹背に攻撃を受け敗退に
追い込まれていった。
関ヶ原の勝敗についてはいろんな解釈があるから、これが勝因・敗因だということは難しいが、
やはり三成の戦略の甘さ、ついてくる武将が少なかった徳の無さ、そして家康の西軍武将への
各種働きかけ(外交戦、謀略)が功を結んだのであろう。
大谷は全体の動きについても見通しがついていたようだが、三成の詰めの甘さが最後の最後で
裏目に出て、裏切りの行動をもたらしてしまったようだ。
それにしても、関ヶ原の各戦闘のなかでは、いろんな武将が働いており、特に三成軍の
島 左近、蒲生備中、舞 兵庫の活躍、小西行長、宇喜多秀家なども、よく頑張ったと思う。
作者南原は先に書いた直江兼続や真田昌幸には「謀将」と頭につけているが、大谷については
「名将 大谷吉継」である。刑部というのは、刑部少輔のことで、秀吉の兵站奉行に任じられて
からの呼び方である。ちなみに石田三成は治部少輔であった。
大谷は武功による出世を夢見ていたが、事務方にも才能があり、奉行として島津征伐や
北条征伐、奥州仕置など秀吉による天下統一に大いに力を発揮したのである。
時期が違えば、有力な武将として並み居る武将たちと覇権を競ったかもしれなかった。
大谷は近江の大谷村に生まれた郷士の息子であった。観音寺の小僧修行から、秀吉の
家来になり、三成とともに武士として出世していった。
中年になりハンセン氏病となり、そのため足も眼も不自由となり、関ヶ原に最後をかけて
散ってしまった。それでも大いなる一生であったと思う。よく頑張ったものだ。
角川文庫 1999年5月25日初版発行
この作品は、1996年7月に角川書店より刊行されたものの文庫化
著者 南原幹雄(なんばら みきお)
1938年 東京生まれ、早稲田大学政治経済学部卒業。
「女絵地獄」で小説現代新人賞、「闇と影の百年戦争」で吉川英治文学新人賞を受賞。
「銭五の海」で日本文芸大賞受賞。
著作に「北の黙示録」、「徳川御三卿」、「謀将真田昌幸」などがある。
この本は、先に直江兼続を読んで、関ヶ原の戦いの前後の武将に興味を持っていたところ、
ブックオフでこの本を見つけ、読み始めたものである。
武将の大谷吉継については、かなり昔にNHK大河ドラマの関ヶ原の戦いの中で、輿にのって
顔を白い覆面で隠して戦っている場面を見て、変わった武将がいたものだと思っていたという
のが印象に残っていた。
その後、いろんな本などを読むうちに、ハンセン氏病に侵されてそのような状況になったという
ことを知った。だが、関ヶ原以前の彼の事績や生涯についてはあまり知らなかったので、今回の
読書で大いに勉強になった。
特に同時期に活躍した石田三成とは古くからの付き合いで、三成が秀吉に登用される
きっかけとなった観音寺でのお茶の出し方については、大谷吉継のアドバイスによって
認められることになったということである。その後三成の推挙で大谷も家来に採用されたようである。
また、三成も大谷も近江の出身であり、前に読んだこともある蒲生氏郷も近江出身であった。
昔の近江、今の滋賀県は優秀な人材を輩出していることにも感心した。
彼らが活躍した時代は、秀吉が天下を統一していく過程であり、その後秀吉の死により
その天下が家康によってまとめられていく時代であった。その中にあって信長、秀吉、家康
とともに同時代を生きた多数の武将が、自分の野望と将来をかけて生死をかけていた時代であった。
それぞれに日本各地や朝鮮半島まで出かけて行って、覇権を競っていた。
そしてそのような戦闘に明け暮れていながら、与えられた領国の経営にも取り組んでいた
ということで、その才能には驚かされるところである。
大谷吉継の最後の見せ場は関ケ原の戦いである。
三成との友情、豊臣家への恩顧、そしてあこがれた家康との闘い、当初家康の上杉討伐に
合流する予定で出かけた大谷であったが、途中佐和山城で三成の説得に会い、上記のような
結論に達し、三成に加勢することになった。
秀吉亡き後の動向は、秀吉自身も考えていたように、家康を中心とする勢力との対決となって
いった。
しかし、三成に助力した勢力も、三成の考え通りは動かず、数々の勝利要因を逃して、
関ヶ原に激突することになった。そして、各武将の生き残りを賭けた行動が、家康側に有効に
働いていったようだ。
当初動いた上杉軍は家康が反転西上することになると、後方からの追撃をせず、東北内の
最上軍との戦闘に動いた。関東にいた佐竹義宣は動かずに沈黙を守った。
上田城の真田昌幸、幸村親子は、秀忠軍を上田城で時間をとらせたのは大成功であったが、
決戦の地関ヶ原で西軍は家康の作戦にかかり、関ヶ原に出ての野戦に持ち込まれ、
東軍より不利な状況で配置についたようである。
そのようななかでも、大谷軍の意気は高く、家康軍の前衛部隊と大いに闘っていた。
しかし、西軍に参加した島津軍は動かず、毛利軍も動向を見守り、最後に小早川秀秋軍が
家康の脅しにあって裏切りの行動をとり、それに呼応するように、周辺にいた西軍の脇坂、
朽木、小川、赤座の4武将も東軍に寝返ったため、大谷軍は腹背に攻撃を受け敗退に
追い込まれていった。
関ヶ原の勝敗についてはいろんな解釈があるから、これが勝因・敗因だということは難しいが、
やはり三成の戦略の甘さ、ついてくる武将が少なかった徳の無さ、そして家康の西軍武将への
各種働きかけ(外交戦、謀略)が功を結んだのであろう。
大谷は全体の動きについても見通しがついていたようだが、三成の詰めの甘さが最後の最後で
裏目に出て、裏切りの行動をもたらしてしまったようだ。
それにしても、関ヶ原の各戦闘のなかでは、いろんな武将が働いており、特に三成軍の
島 左近、蒲生備中、舞 兵庫の活躍、小西行長、宇喜多秀家なども、よく頑張ったと思う。
作者南原は先に書いた直江兼続や真田昌幸には「謀将」と頭につけているが、大谷については
「名将 大谷吉継」である。刑部というのは、刑部少輔のことで、秀吉の兵站奉行に任じられて
からの呼び方である。ちなみに石田三成は治部少輔であった。
大谷は武功による出世を夢見ていたが、事務方にも才能があり、奉行として島津征伐や
北条征伐、奥州仕置など秀吉による天下統一に大いに力を発揮したのである。
時期が違えば、有力な武将として並み居る武将たちと覇権を競ったかもしれなかった。
大谷は近江の大谷村に生まれた郷士の息子であった。観音寺の小僧修行から、秀吉の
家来になり、三成とともに武士として出世していった。
中年になりハンセン氏病となり、そのため足も眼も不自由となり、関ヶ原に最後をかけて
散ってしまった。それでも大いなる一生であったと思う。よく頑張ったものだ。