文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

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大学で教職に就いてから、われわれが受けた教育とは全く別の価値観で動いている「学問」があることを知った。

2018年05月04日 18時28分43秒 | 日記

以下は前章の続きである。

学者の思い込みに人工知能で反撃 

この調査で得られた結果は、私の経験則に合致する部分が多い。

筆者は大学時代に理学部で生物化学を学び、大学院では工学系研究科で人工知能に関する研究に取り組んだが、その頃から学問論や科学論について強い関心を持っていた。

それで科学哲学の本を多数読み、関連する研究室の勉強会にも参加したのだが、そこで遭遇したある発言に驚いたことを今でも鮮明に覚えている。 

「これは○○先生が言っているから正しい。」 

権威主義に落胆した瞬間である。

この種の発言は理系の研究室では考えられない。

しかし、この出来事は序章に過ぎなかった。 

大学で教職に就いてから、われわれが受けた教育とは全く別の価値観で動いている「学問」があることを知った。

自然科学においては、できるだけ主観を排して実験結果を解釈するように厳しく訓練される。

当然ながら、政治的配慮で実験結果をいじったり、その解釈を歪めたりすることなど、もってのほかである。

だからこそ、学問は政治から独立していなければならない。

ところが、文系学問の中には、理系の私から見ると、学問をしているのか政治をしているのか見分けがつかないような「学問」が横行していることに気づいた。 

同じ学問を名乗りながら、全く違う規範に基づく活動が行われている。

この混乱を収拾するには、学問の定義から始めなければならない。

そこで2005年に執筆したのが『学問とは何か』(大学教育出版)である。

同著では、人文科学、社会科学、自然科学など、「科学」と名のつく学問は「予測する力を持つ体系的知識」という要件を満たす必要があるとした。

実験結果を都合よく操作するような学問は、当然ながら予測力は持ちえない。 

最近では、小保方女史の研究不正問題をきっかけに、研究倫理が厳しく問われるようになったが、先日、研究倫理の教育推進に関するシンポジウムでまた驚愕のシーンに遭遇した。

医学系出身で長年国立大学の学長を務めた人物が、研究不正が起きる背景として壇上でこう述べたのである。 

「集団思考に陥ると不正が起きる。自民党と一緒である。」 

こういう場で政治的発言をすることの不適切さに気付かない人が、研究倫理教育の中心にいるのかと思うと、暗澹たる気持ちにならざるをえない。 

もちろん、自民党が他党に比べ集団思考に陥っている客観的な証拠があって言っているなら話は別である。

しかし、少なくとも私の研究ではその反対の事実を示す結果を見出している。 

10年前より、筆者らの研究グループでは、文系学問に科学の手法を持ち込むべく、情報工学を用いた文書分析の研究を行っている。

一般には、ビッグ・データ、データ・マイニング、テキスト・マイニングなどと呼ばれる分野である。

その研究の多くはビジネスへの応用を想定しているが、筆者は国会会議録など主に政治に関する文書の分析に取り組んでいる。

その一環として行ったのが、国会での発言がどの党の議員によるものなのかを言い当てる人工知能の作成である「2」。

この稿続く。


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