goo blog サービス終了のお知らせ 

ゆめにっき:かわいらしさ、不気味さ、ディスコミュニケーション

2014-11-28 18:34:03 | ゲームよろず

さて、前回前々回と「ゆめにっき」の非公式スピンオフ作品である「ゆめにっきハザード」を紹介してきた。またそこでは、原作における包丁というエフェクトが主人公の攻撃性を象徴していること、そしてその特性=キャラが拡張された結果がこのような作品の成立に大きく関わったであろうことを書いた。

 

ところで、このような攻撃性が目を引く理由には、主人公が可愛らしい少女であること、そして目的が今一つよくわからないことが多分に関係しているであろう。敵を倒していくことが目的のゲームであれば武器を持っていることを攻撃性の象徴とは見なさないだろうし(それはただの必然・前提にすぎない)、またそれなりにいい体格をしたキャラがバット的なもの(cf.ひぐらしのなく頃に)を持っていたところで、そこにキャラの特性が集約されることまではないだろう。

 

このように、主人公の可愛らしさゆえにそれと相反する包丁というガジェットが強い印象を与えるわけだが、これについて私は次のように述べたことがある。すなわち、そもそもゆめにっきがこれほど人気を博したのは、可愛らしさと不気味さが共存しているからではないか、と。そしてそれがゆえに「そのようにして親密さ(intimacy)が醸成されるからこそ、物語の背景が不明な上、ストーリー性さえあるかないか微妙で「感情移入」のフックが極めて少ないにもかかわらず、(私も含め)エンディングで確かな喪失感を覚え、強くこの作品を印象に残している人たちが少なくないのではないか」と結論づけたのであった。

 

要するに、私はこの時可愛らしさと不気味さが相反する特徴であるという前提で話を進めたわけだが(言い換えれば、不気味さにより生じる不快感を無害化ないし緩和するため、一種の「防衛機制」としてそれを「かわいい」ものとして意識的・無意識的に読み替えたのではないかと推論していた)、最近非常に興味深い記事に出会った。それが斎藤環の『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』である。著者は『戦闘少女の精神分析』などで有名で、現代日本における二次元の作品に関する描き方、あるいはその受容のされ方を精神分析の観点を絡めながら見ていくという視点を特徴としている。さて彼は、(「ゆめにっき」には全く言及していないが)97Pから99Pにかけて非常に興味深い指摘をしているので、やや長くなるが引用してみたい。なお、以下で述べられていることについては様々な例をもって検証していきたいが、とりあえず今は三つだけ言っておきたい。すなわち「子供は天使じゃない」の記事に絡めて、「なぜ私たちはそのように考えてしまうのか?」ということ。特異なキャラの打ち出しがあったにしても、なぜ幼稚園生の手書き(笑)のような「ふなっしー」があれほど人気を博したのか、ということ(まあふなっしーの場合、表情の不変性はともかく、リアクションは豊富に取るので例示されているキャラと同列に論じてよいのかという疑問もあるが。なお、ゆるキャラに関する疑問は「共存、未規定性、アカウンタビリティ」でも書いている)。そして最後に、空虚なるものは空虚なるものでしかない(ゆえに豊かな表現をさせる)環境と、空虚なるがゆえにむしろ様々に読み込んでいく(「空気」を読むように?)環境という背景の違いが、ディズニー的なるものとサンリオ的なるものの違いを生み出しているのかという疑問が湧いてくる、ということ。

 

 

「かわいい」無表情
 ともあれ彼ら(筆者注:サンリオのキャラ)は「動物」であるがゆえに、もっとも根本のところで僕たちとのコミュニケーションに失敗する。実はこの点こそが、サンリオキャラの「可愛さ」の理由なのである。「可愛さ」の感覚とは、実はディスコミュニケーションの手触りなのだから。表情豊かなディズニーのキャラに比べて、日本のキャラは圧倒的に無表情だ。最近のキャラですぐ連想されるのは、「リラックマ」とか「バナ夫」、あるいは「カピバラさん」などだが、いずれもほとんど無表情で、何を考えているのかよくわからない。「バナ夫」などは、見方によっては不気味ですらある。僕たちが言うところの「レピッシュ(児戯的)」な印象がある。これは主として破瓜型の統合失調症の症状を形容する場合に用いる言葉だ。徹底して共感性を欠いた児戯性の感覚。そこには当然、「不気味なもの」がはらまれてくる。
 この「不気味」と「児戯性」との間で、あやういバランスのもとに成立しているのが「可愛い」の感覚ではないか。そうでなければ、「キモ可愛い」といった感覚はありえないだろう。
 やはり四方田犬彦が指摘する通り、この感覚を構成する要素は複雑なのだろう。たとえば「かわいい」の対義語は「美しい」であり、「醜さ」とはむしろ隣り合う語であると四方田は言う(四方田犬彦『「かわいい」論』ちくま新書)。
 僕の考えをつけ加えるなら、「かわいい」には「小さいこと」「幼いこと」「グロテスク」「残酷」「従順」「生意気」「愚かしさ」「賢しら」「人工性」「エロス」「タナトス」といった、相矛盾するする多彩な要素が含まれている。
 これらの矛盾ゆえかどうか、空白を「空気」を呼んで埋めるか、不在か。可愛いものは、僕たちとの共感やコミュニケーションには失敗していることが多い。赤ん坊の可愛さには、多少は生理的な基盤があるとしても、しかし最大の要因は「赤ん坊がしゃべれない」という点にこそあるのではないだろうか。
 換喩的であるがゆえにサンリオキャラは、「欠如」を持たない。充実しているがゆえに、コミュニケーションが成立しがたいということ。それはもはや、「人格の象徴」などではなく、「人格によく似た形象」という充実した実体として認識されることになる。
 このように、日本的なキャラクターは、きわめて特異な記号として成立している。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ゆめにっきハザード:狙撃者... | トップ | 魔女の家:禍福は糾える縄の如し »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

ゲームよろず」カテゴリの最新記事