脱出ゲームにおいては、脱出を果たすことが成功・ハッピーエンド・カタルシスであるはずだ。RPGにおいて、敵を倒して強くなること、そしてラスボスを倒すことがそうであるのと同じように。だとするなら、「魔女の家」は間違いなく特異な作品と言えるだろう。
とはいえ、この作品が優れているのは、単にラストが悲劇・アンチカタルシスであるからではない(それであれば、古くは「アガメムノン」や「オイディプス」など、いくらでも例を挙げることができる)。様々な謎や罠を解いて脱出を果たすことで得られるカタルシスが、物語としては悲劇であるという相矛盾する構造を成立させている点こそ秀逸なのである。
このように言うと、あるいはホラー映画の鑑賞などを類似の行為として取り上げる人がいるかもしれない。それは確かに一理あるけれども、この作品では、映画や小説などと違って、ゲームという形式=自分が操作している点が重要だ。というのは、それによって主人公とプレイヤーの間には共犯関係が否が応でも成立してしまっており、それゆえにやるせなさも(ただ一方的に受け取るより)ずっと強いものになっているからである。
さらに特筆すべきは、システムを巧みに利用している点である。真相に関わる部分のため詳述は避けるが、端的に言えばドラクエで主人公が「はい・いいえ」の二択しかなくても(それ以外発語をしなくても)ある種の「お約束」として別段不思議には思わない、というのと同じことだ。主人公主観であることを最大限に活用した「沙耶の唄」や「さよならを教えて」、世界観をゲームシステムへと見事に反映した「YU-NO」といった傑作と並び、システムの特徴に自覚的であるがゆえの極めて優れた演出であると言えるだろう(屋上屋を重ねるようだが、違和感を持つ瞬間をきちんと設けていて単に後出しじゃんけんのような展開になっていないのもすばらしい[真っ暗な部屋で・・・と言えばプレイ済みの人はわかるはずだ]。またこのような演出に関しては、押井守が監督した「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」[複製されるキャラ]や筒井康隆の『ロートレック荘殺人事件』など、様々なメディアでみられる。)。
以上のように、何か国語にも翻訳されているのもむべなるかな、と言うべき優れた作品と評価できる。
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