ジョセフ・ヒース&アンドルー・ポター『反逆の神話』:カウンターカルチャーの精神性とそれが前景化する病理

2022-06-07 11:57:57 | 本関係

 

 

「権力は腐敗するものである」

「よって権力は悪である」

「ゆえに反権力は善である」

 

こういう三段論法にしたらいかにも短絡的な認識だとわかるが、実のところカウンターカルチャーをはじめとする「反逆」の根底には、こういったエートスが底流にあり、文化領域のみならともかく、それを政治領域にまで広げるのは害悪であるし、結局それはメインストリームの補完物に過ぎないのだ、と喝破したのが今回紹介する『反逆の神話』である(なお、「権力」は「システム」や「ルール」、あるいは「メインストリーム」とも言いかえることが可能だ。先の三段論法で言うなら、「大勢に受け入れられるためにはマーケティングが必要である」→「ゆえに大勢に受け入れられているメインストリームのコンテンツは腐敗している(純粋なものではない)」→「よってメインストリームでないものこそが純粋で価値がある」といった思考様式になろうか。しかしこの認識はあまりに錯誤に満ちている。例えばVtuberで言うなら、登録者数や再生回数がその価値基準の全てとするのはあまりに一面的だが、だからと言ってマイナーなものこそが素晴らしいというのは根拠薄弱な「逆張り」にすぎない)。以下、本書の内容を簡単に紹介したい。

 

信号機を始めとする道路標識の存在、より正確には交通ルールの設定は馬鹿げているだろうか?答えは否だ。もし仮に信号がどの色の時に渡るべきであるかが任意だとしたら、運転手も歩行者もいつ予想外のアクシデントに巻き込まれるかわからず気が気ではないため、不測の事態を避けるために様々な注意を払わなければならず、移動速度は遅くならざるをえない。なるほど自生的なルールの創出を待つという発想はありえるが、一体どうしてそれが次にも適応できるとわかるのだろうか?そして仮にそれが一定範囲で継続的に適応できるのだとしたら、それはまた新たなルールとして忌避される対象となるのではないか?

 

要するに、社会という異質な他者が生きる複雑な空間には共生のための作法が合理的理由から必要とされるわけだが、カウンターカルチャー的発想は解放(freedom)を是とするあまり、ルールやシステムそのものを悪であるかのように見なし、それらを失くすか、あるいは極限までゼロに近づけようとすることを目標とし、結果として社会(共生の場)を混乱させることに貢献してしまっている。なるほど自身の毎朝のルーティンといった個人的領域をアドホックに変えるといったことであるなら、好きにすればよろしい(ミルの「他人に危害を加えない限りは自由に振舞ってよい」という趣旨の言葉を思い出すのも有益だろう)。しかし、そのようなレベルと複雑な社会システムやコミュニティの運営を同一視するならば、そのナイーブさは自由を拡大するどころか、むしろ混乱を生み出すだけになるだろう(もしそうでないと言うのであれば、ケーススタディを用いた事例検証を通じ、学術的にその主張の正当性を訴えてみてはどうだろうか)。

 

もちろん、政府もシステムもルールも、無謬なものなど存在しない。ゆえにそれらが合理的であるか否かを継続的に吟味することは必要だし、異議申し立てをするような事態は当然ありえる。しかしそのことと、とにかく個人を縛るものを全て無くすのが善であるような発想は似て非なるもので、単なる逸脱の正当化と、正当な異議申し立ての違いについては慎重に吟味・区別せねばらない。

 

ここで批判的に言及されているカウンターカルチャーの精神性が発露したものとして、ヒッピーやらオーガニック製品の購入やらをケーススタディ的に取り上げており、それらは他者との差異化を求める自己主張と消費行動の1パターンとして資本主義というシステムの内部に存在しているに過ぎない、という意味で反逆の「神話」というわけだ(なお、これまでの説明を聞いて「カウンターカルチャー」で名指されるものやその由来は一体何なのか?と思われた方はぜひ手に取って読んでいただきたい)。

 

言及される事例は主にアメリカだが、日本もこういった発想とはもちろん無縁とは言えず、最近の例では、無差別テロに深く関わった日本赤軍のリーダー重信房子の取り上げられ方などは、「反権力=正義」という認識の一形態として、参考になるものと言えるだろう。あるいはカウンターカルチャーという点では、いわゆる「嫌儲主義」などを類例として挙げることもできそうだ(前述した「メインストリームのコンテンツ」に対する忌避感とも通底するものがあるように思える)。

 

なお、念のために言っておくと、こういった話から「システムやルールを墨守しなければならない」という主張だと考えたり、あるいはそういう結論を導き出すのなら、それは完全に誤りである(著者たちはそれを明言しなくとも十分に伝わると感じているのか、特段ここを強調してはいない。しかし、日本の読者に向けては正直この点も不可欠であると思う。繰り返し言及している「穏健な懐疑主義」の重要性を想起したい)。著者たちが主張しているのは、システムやルールといった共生の仕組みが持つ合理性と利益をよく理解し、かつ全能の政府もシステムもルールも存在しないのだから、漸進主義的に改良していかなければならない、という話だ(これは自分が以前書いた記事で言えば、「人間理性を過信しないがゆえに漸進主義(永遠の微調整)を志向する」というスタンスに類似する)。よって、システムやルールの妥当性をよく考えもせずただ過剰適応することや、「ルールが気に食わないなら出ていけ」とばかり主張するような思考停止した(宮台真司風に言えば)「法の奴隷」・「損得マシーン」になることを是としているわけでは全くないので悪しからず。

 

さて、そういった本書の視点は大変参考になるのだが、難点としては具体例の話が多すぎる(長すぎる)という点だろう。正直、カウンターカルチャー的発想の問題点はよくわかったから、個々の事例とその問題点を取り上げモグラ叩きのように潰していくよりも、穴そのものの構造(環境要因や背景、その対処法)の話にいい加減移行してくれよと何度となく言いたくなった(例えば、結論である「ファシズムのトラウマ」を説明するのに240ページに及ぶ第二部が必要であったとは全く思われない)。気の長い御仁はともかく、私のような人間であれば、第一部を読み終わったら「結論」に飛ぶことをお勧めする。というのも、プラトンが対話形式を用いることで議論を明晰に展開しようとしたのよろしく、読者の反論・反発に対する著者のレスポンスを読んだ方が、彼らのスタンスや論点が(可能性と限界含め)わかりやすいからだ。というわけで、「一部→結論→後記→解説→二部」で読んでみてはいかがだろうか。

 

その他にも、様々な論点に繋げうる箇所はある。例えば、「後記」では読者の様々な疑念や反論にあれこれ答えているが、それを見ていれば感情的反発が少なくなかった様子が見て取れる。そしてそのことは、ジョナサン・ハイトが乗り手(理性)ではなく像(感情)に訴える必要があると述べたことを思い出させる(そこに対する著者たちのアプローチはあまり上手いようには見えない)。最後には著者がこじ付けの反論に匙を投げるような書き方をしている部分もあるが、そのような誤読というか論理破綻した読み方しかできないのは、それが論理的必然性に基づくものではなく、感情的反発を正当化するためのものだと考えるなら驚くには値しないだろう(ちなみにこういった感情的反発による熟議の不可能性というものを突き詰めていくと、新反動主義や加速主義などに行き着く)。

 

また、著者たちはカウンターカルチャーにしばしば見られる、政治から距離を取ることを善とするような姿勢について、過去のロマン主義に言及した箇所がある。ここにおいて、カール・シュミットを紹介した時に触れた『現代議会主義の精神史的地位』・『政治的ロマン主義』でのロマン主義と政治的参加を忌避する態度への批判を連想することも有意義だろう。それは単に政治的デタッチメントの歴史性(cf.ストア派)を考える契機となるのはもちろんのこと、「政治的混乱による熟議への不信&政治的デタッチメントへの批判→強力な独裁政権への期待→ナチス政権誕生」というワイマール期から第三帝国成立までの(シュミットも辿った)一連の流れを見るとき、著者たちが「結論」の見出しにした「ファシズムのトラウマ」なる理解を考察・検証する上でも興味深いものだからだ(いささか単純化した言い方だが、ファシズムのトラウマが生じた結果、シュミットが批判した政治的デタッチメントが肯定されるような状況が出来上がった、とでも表現すべきか。ただこれも二次大戦後ずっとそうであり続けたわけではなく、冷戦の開始や赤狩りといった保守化と、ケネディ暗殺やヴェトナム戦争の欺瞞といった政治不信、そして成熟社会化といった状況の中で醸成されたきたものである)。

 

あるいは、「資本主義での中での消費行動が洗脳というよりはむしろ合理的適応の側面が大きい」と述べ、それを軍拡競争で喩えているのはなかなかに皮肉が効いていて興味深い。そしてそのような「ゲームから降りることの困難さ」を理解するなら、斎藤幸平的な脱資本主義的発想、すなわち「脱成長」といった志向が出てくるのもある種の必然だとわかってくるが、もちろん必然=正しいということではなく、それがどの程度妥当性を持つか批判的に検証せねばこの本で一体何を学んだのか?という話だ。そもそも、脱成長の「成長」とは一体何を指しているのだろうか?そして「成長」を止めることが、いかなる意味において是とされるのだろうか?例えば肉食については、生命を奪うということへの倫理的問題のみならず、家畜の飼育に膨大な資源が必要とされる=環境への負担が大きいという指摘がある。とすれば、肉食を減らすのが環境のダメージ軽減という点で善であるかのように思えるが、ならば研究開発を進めて人口肉を生み出せばよいのではないか?そしてそれが食肉として流通するのならば、むしろ野菜を食べて命を奪うよりも善なのではないか?といった具合である(もしかするとベジタリアンの方が身体にいいからという理由で人口肉より野菜を優先する人もいるかもしれないが、だとしたらそれは自分の健康のために命を奪わない食生活より命を奪う方を選ぶという点でエコというよりエゴではないのか?なお、当たり前だが農業も環境に対して大きな影響を及ぼすことは、塩害なども例に出すまでもないだろう)。私がここで言いたいのは、「菜食主義の方が環境にやさしい」という評価は「状況次第」であって不変の真理ではなく、環境に配慮すべきなら人口肉の開発促進という「成長」もまた善とされるべきだろう、ということである。この点で、例えば「1970年代の生活水準に戻すべき」のような類の主張は、その時代が公害まっさかりだったことも含めて、フリーズドライしてしまえばカタストロフは防げるとでも言うような思考停止に陥っているように見えるのである。

 

以上様々書いたように、本書はただのカウンターカルチャーという「反逆」の神話を暴き出しただけでなく(繰り返すが政府やシステムへの批判的視座は重要)、他の様々な論点を考えるきっかけを提供してくれる(今回省いたが、例えば私的領域と公共的領域でのルール設定を同一視する危険性からは、リチャード・ローティの唱えたリベラルアイロニズムが実践的にどのような重要性を持つかを教えてくれる。あるいはまた、疑似科学や代替医療の件については、メインストリームへの反発という点も含めて、呉座勇一の『戦国武将、虚像と実像』で触れた歴史小説とその問題点を想起することにもつながるだろう)。そういう意味では間違いなく刺激的な良書の一つであると述べつつ、この書評を終えたい。


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