1.
「教養を得てアンダークラスになるか、ファスト教養を得て中産階級になるかを選べ」と言われたら、あなたはどちらを選択するだろうか?
「教養を得てアンダークラスになるか、ファスト教養を得て中産階級になるかを選べ」と言われたら、あなたはどちらを選択するだろうか?
2.
自分以外の人間について、どの程度の割合が前者を選ぶと思うだろうか?
自分以外の人間について、どの程度の割合が前者を選ぶと思うだろうか?
このような問いの立て方には極端すぎるといささか鼻白むかもしれないが、自己責任論が全面化する世界で「ファスト教養」が求められる背景を理解するには適切だろう。ここには「共同体≒セーフティーネットの崩壊」と「経済衰退=将来不安」といった要素も関連するが、今一つ承服したがい人は、初の飛び級にて千葉大で物理学を専攻し研究者となった人が生活苦からトラック運転手になった人の記事、あるいは『近世仏教論』など優れた研究を残しながらも、大学専任の研究職にはなれず生活苦などの中で命を絶った西村玲の事例を鑑みればよい(ちなみに西村が発表した「近世排耶論の歴史的展開」の動画は以前引用させていただいたこともある)。
もちろん、これらの事例をもって「教養」は全て無駄である、と主張するのはあまりに極端であろう。とはいえ、ぞこで見られる切実さを理解せずに「教養」の豊かさだの実りある人生だの嘯いても、およそ「パンがなければ~」的な貴族階級の戯れ言の域を出ない、少なくともそう捉えられてしまう必然性がある、ということを認識しなければならない。
ゆえに、「ファスト教養」が全面化する状況に歯止めをかけようと思うなら、「教養」なるものの豊かさを述べること自体はいいとしても、その豊かさにコミットする「余裕」の醸成が必然不可欠である。その余裕とは、例えば時間的な余裕もそうだし、試行錯誤してもよいという精神的余裕も含まれる。
余裕があるからこそ、「失敗しても再チャレンジすればよい」というスタンスでいられるし、それが「教養」という必ずしも仕事での成功に直結するわけではないものに触れてみようか(誤解を恐れずに言えば、「無駄」や「遊び」を楽しむ)、という動機づけにもつながってくるのである(ちなみに言えば、余裕のないところで豊かな文化は育まれない。というのも、そこで人々は日常を維持するのに汲々となり、その辛さを紛らわすためのサプリメント≒精神的麻薬を求めるだけだからだ。この話は、『動画を早送りで視聴する人たち』の話に絡めていずれ書くことになるだろう。なお、このような厳しい現実を前にすれば、カール・マンハイムの『イデオロギーとユートピア』で語られるような現実を更改すべしという思想の発生(今で言えば、ピケティ『21世紀の資本』やグレーバー『ブルシット・ジョブ』、斎藤幸平『人新世の「資本論」』など)につながると思われるかもしれないが、少なくとも「ファスト教養」はそれと真逆の志向性を持っていること[システムへの批判的視座は持つが、それを公共のレベルで生かす動機づけがない]も稿を改めて述べたいところだ)。
これこそ、私が「ファスト教養」に対置するなら「教養」ではなく、むしろ「スローライフ」であると述べた理由でもある。しかしおそらく、この説明にも疑問を持つ人が多いだろう。というのは、アンダークラスに陥ることを恐れる人々に「スローライフ」なるものを進めたところで、「教養」と同じくやはり無効ではないか・・・と考えられるからだ。
まさしくその通り。
ここにおいて、私が縷々述べてきた、「短絡的な自己責任論とセーフティーネットの崩壊(正確にはその利用の抑止)が血の婚礼を挙げた時、社会はむしろ停滞と転落の地獄絵図となる」という話に改めて言及したい(日本に関して「貧しくなったら江戸時代に戻ればいいではないか」という類の発想が根本的に通用しない理由にもつながる)。
ここにおいて、私が縷々述べてきた、「短絡的な自己責任論とセーフティーネットの崩壊(正確にはその利用の抑止)が血の婚礼を挙げた時、社会はむしろ停滞と転落の地獄絵図となる」という話に改めて言及したい(日本に関して「貧しくなったら江戸時代に戻ればいいではないか」という類の発想が根本的に通用しない理由にもつながる)。
これは言い換えれば、セーフティーネットの整備を単なる「同情」や「優しさ」の問題ではなく、「失敗の許容と挑戦のインセンティブを生み出すことで、イノベーションの源泉ともなりうる」という社会的有用性の観点からも見直し、改めて包摂機能を手当てする必要がある、ということである(ここにおいて、自由競争至上主義のように見られがちなアダム=スミスが、「神の見えざる手」の話と同時に『道徳感情論』で過剰な競争を抑止する人間の情動的な機能について言及していたことを思い出すのは有益だろう。その上で言えば、グローバル化や文化的多様性などで分断が加速している今日において、スミスの頃のような仕方で人間同士の「同情」や「共感」が成り立つと考えるのは、ナイーブを通り越して馬鹿げてすらいる、という指摘もしておく[ちなみに十字軍や大航海時代における虐殺などの事例を持ち出すまでもなく、昔はそれが常に成立したかのような物言いも端的に間違っている])。
ともあれ、以上の内容が理解されれば、「ファスト教養」に「教養」を対置し、その重要性を説きさえすれば状況が変わる、といったような発想がいかにおめでたいかはよく理解されるだろう(なお、この件は前に書いた「古文や漢文の勉強ってそんなに優先順位高いのか?」で述べたことにも深く関わるが、該当記事では問題設定の仕方が明晰でなく、議論を紛糾させてしまったのでいずれ整理した形で書き直したいと思っている)。
なお、以上の記述をもって私が「ファスト教養」の側を擁護している側だと思われるかもしれないが、それは完全な誤りである。「ファスト教養」に関する記事のまさに冒頭で述べたように、私は「ファスト教養」やそれを良しとする態度を個人的には全く受け入れる気はない。
さらに言えば、「ファスト教養」を求める背景となる「余裕」のなさは、(特に自己責任論が盛んな)日本がゲームチェンジャーには決してなれないし、また経済衰退とともにどんどん逼塞していくという私の未来像を、より強く確信する一要素ともなっているほどだ(なお、「ファスト教養」を求める姿勢が現代日本における合理的戦略・適応の一種であることは改めて強調しておきたい。それがますます未来を閉塞させかねないことが重要かつ問題を難しくしているわけだが、この辺りはスーザン・ジョージが『なぜ世界の半分が飢えるのか』で描き出したような、途上国が合理的適応の結果グローバル経済に呑み込まれて貧困が固定化されたような事態を思い出してもよいだろう)。
しかし重要なことは、繰り返すが「ファスト教養」が求められるようになっているのには歴史的・経済的・社会的背景が様々あり、そこに問題を見いだして歯止めをかけようと真剣に思うなら、「教養」の重要性を語るごときでは全く足りない、という話なのである。
「ファスト教養」に危機感を覚えての提言が、単なる文化人のポジショントークや「老害」の妄言にならないようにするために、このことを改めて強調しておきたい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます