消費環境と嗜好の変化、あるいは音楽産業の未来について:流行、サンプリング、AI

2023-04-23 16:42:34 | 音楽関係

前の記事で杉山清貴&オメガトライブとthe band apart(バンアパ)を聞き始めたという話をしたが、それは単に趣味・嗜好の領域が広がるだけにとどまらない・・・ということを書いてみたい。

 

例えば前述のバンアパについて、その時代(1990年代後半~)の流行に抗って独特のコード進行を模索したことなどを紹介してくれた人から聞いたが、ではその「流行」とはどんなものだろうか?この疑問は、杉山清貴のSUMMER SUSPICIONのアルバムバージョンが「時代の流行を感じさせる」と書いたことにもつながる。

 

このような自分や時代の嗜好を理論化する視点はいかにも理屈っぽいと思われるかもしれないが、まあ「個人的なことは社会的なことである」という有名な言葉もあることだし、前の記事で述べた毒書会で扱っているマンハイムの『イデオロギーとユートピア』もそういう視点で書かれた本なので、ちょっとこれを掘り下げてみるのもおもしろかろう、という話(前掲書では、知識社会学という視点で、個人的資質に基づくと認識されている思想の社会的背景の分析、あるいは逆に、普遍性を持つと喧伝する思想の時代に制約された個別具体性を明らかにすることが目的とされている)。

 

例えばクラシック音楽に関して言うと、市民革命で聴衆の層が広がったことが「わかりやすい」展開を要求し、それがハイドンやベートーヴェンのスタイルに影響を与えた話は前に書いたが、その他にもショパンやヨハン・シュトラウスがナショナリズムという時代背景を負っていることなどもよく知られている通りだ(これは新古典主義→ロマン主義→自然主義→印象派→表現主義のような流行の変化とその背景にも言える)。要するに時代・社会に規定されるだけでなく、また時代・社会に影響を与えもするのである。

 

で、何でこんな話をしているかと言うと、このような背景理解がサンプリングとAIの問題とも絡んでくると思うからだ(ちなみにAIのディープラーニングなどが注目される前から、音楽のパターンはあらかた出尽くしていて、もはやサンプリングの段階になっているとは言われ始めていた)。これは前に書いたフーリエ変換なども含む(人間や芸術の)数値化という話に繋がるのだが、バンアパを紹介してくれた人から聞いたところによると、アメリカなどでは受け手の反応に合わせてすでに楽曲のコード進行は相当単純化される傾向にあるらしい(逆に日本は複雑なコード進行が今だに残っている方で特殊なんだそうな。まあこれは裏を取れていないのであくまで伝聞情報として載せておきますわ)。

 

その背景としては、サブスク制による音楽の大量消費に加え、You Tubeなどのコンテンツによる時間の奪い合いにより、人は一つ一つを鑑賞する時間をなかなか取れなくなった結果、ちょっとでも「これは違うな」と思う要素があるととっととその曲を捨てる傾向が出てきているらしい(以前サッカーの人気低迷の理由としても言及したが、ここにはtiktokの流行などで人間の集中力持続時間が以前より短くなっていることなども影響していそうだ)。それが言わばノイズを排除した(定型化された)コード進行の要求となり、供給側は当然それに応えて単純化したものを提供するというわけだ。

 

なお、この話からは、前に書いた「ファスト映画」(映画を早送りで観る人たち)「ファスト教養」を想起することもできるだろう。つまり、成熟社会化した(後期近代となった)国々における人間の行動パターンは、思想的なものというより、消費環境に最適化した行動を積み重ねた結果、概ねそうなるようにできている、と評価できるのではないだろうか(ついでに言うと、ここには可処分所得の問題も関係してくる。例えば映画館で見ることの価値を喧伝する人たちがいるが、そもそも1000円を超える出費を一回の映画視聴に払える時点でそれなりには生活に余裕のある人であって、そうでなければサブスク制の動画視聴プラットフォームに登録する方が金銭面では明らかに合理的である。これは解説動画VS書籍などにも同じことが言えるが、どうも「教養」含め映画館やら書籍の重要性を喧伝する言説って、所得とか文化資本の問題を取り上げているものが見られないのは気のせいだろうか。まあそれやっちゃうとブルジョアジーのポジショントークであることが明るみに出るから、あえて触れないのかもしれんね)。

 

事情はともかく、その単純化した人間の嗜好に合わせて(最適化して)コンテンツを作っていけば、当然その傾向はさらに拡大・促進され、それが一層定型化されたものを求める傾向へとフィードバックされ、供給側はますますそれを提供する(提供せざるをえない)状況となるわけだ。

 

このようなサイクルを元にすれば、「AIがパターン認識で作成したものを人間が違和感なく消費する環境」がそう遠くない未来に訪れると予測するのは全く荒唐無稽ではないだろう(これは何度か書いているAI作成画像にも同じことが言える)。私はよく「AIの進化」と並行して「人間の劣化」が進んでいることが重要だと何度となく述べているが、それは以上のようなサイクルであり、特に「人間の劣化」という要素を踏まえずに「AIに芸術は理解できるのか」などと嘯いてみたところで、人間性に何某かの深遠な意味を見出したい少数者の自己満足の域を出ないと思われる。

 

もちろん、そう単純にはいかないと思われる要素もある(そもそも曲と歌ではAI作成で満足するか否かのハードルがだいぶ変わるとも思われるし)。まずそもそも、今述べた話は大勢のことであり、「人間が造ったものの方がよい」とか、「AIが造ったものは決して認めない」といった人は一定数残るものと思われる。そもそも嗜好の多様性という事情もあるし、どれだけ養殖モノの質が上がろうが、天然モノにこだわる人が一定数いるのと同じことだ(しかし、多くの人間は部屋に飾っている絵画を誰が書いたのか、そもそも人間が書いたのかなど一々気にしないものである)。また、金ヅルを手放したくないという音楽産業側の問題もあるだろうから、AI作曲が広がろうと、人の手による曲の良さなどを喧伝しながら、一定の地位を維持しようと努めるのではないかと予想される。

 

以上の点も加味するなら、AI作成画像で同じで、まず全体としては企業が使うBGM的なものはコストや需要の面からもAI作成に置き換わっていく。そして個人的に鑑賞するものとしても、AI作成を好む・それで問題ないという人がそれなりの数いて、人間が製作したのでないと嫌だという人間が一定程度残る、というのがまあ現実的な予測だろうか。こうして人間の手による音楽は、市民革命以前のクラシック音楽がそうであったように、一部の人間の嗜みのようなものへと回帰していくのではないかと思うのである。

 

以上。


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