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解釈の恣意性とレビュー

2006-07-23 01:25:02 | 抽象的話題
「解釈という名の願望」という表現を受けて、解釈そのもの、例えばレビューの恣意性を考えた人がいるかもしれない。もちろん、レビューというものが恣意的な内容になる傾向があることは確かだ。しかし、それを受けて「何でも言いうる」といったレベルまで突き詰めてしまうと、大いに危険である。


言うまでもないことだが、絶対に動かしえない前提というものがある(あえてわかりやすい例を出せば、性別などがそれにあたる)。こういった明らかな部分から動かせない部分を構築し、どこまで深く潜り込めるか、何が言いうるのかを明らかにしていくことが解釈における最も重要な作業であると私は考えている。私が「作者が何を表現しようとしているのか」という基準を毎度のようにくり返すのは、こういった考え方に基づいて土台を作り上げようとしているためなのである。


レビューの場合、それに加えて「評価」という要素が加わる。この時有効な判断基準が「主張したいことをどのように表現しているか」というものである。作品が人に見せるものである以上、同じ内容ならば、より多くの人が理解できる方が優れているのは当然だ。それゆえ、ただ主張やテーマ・表現の意図を把握するばかりではなく、それがどのような形で提示されているのかという点が非常に重要になってくるわけだ。


以上の如く作品の土台をしっかりと把握しようとするのは、例えば二次創作に向けて想像を膨らませながらゲームするのを否定する見方に感じられるかもしれない。しかし実際にはそんなつもりは毛頭無いのであって、それどころか私も作中で全くわからない部分を想像することがたまにある。あくまで重要なのは、最初に土台を固めようという作業を怠らないことなのだ。というのも、想像を膨らませるのはその後でいくらでもできるからである。


このようにして二段階に分けて作品を見ていくことが、内容の正確な分析・評価のみならず、作品をよりいっそう味わうことに繋がっていくのではないだろうか。
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