先日『涼宮ハルヒの溜息』のレビューを書いたが、リンクを張ったamazonのレビューを後で読んでみて驚いた。というのも、一様に『溜息』への評価は高くなく、むしろ私がダメ出しした『涼宮ハルヒの憂鬱』と『涼宮ハルヒの退屈』の方が良い、という内容だった(この見方がどれほど一般的なのかは知らない)。
この違いは何によって生まれたのかとしばらく考えたら、両者が注目しているものが違うことに気付いた。すなわち、彼らは起こった事件そのものを重要視し、私は事件の裏での動きやその意味付けを重要視していたのだ。だから、古泉やキョンが奔走して事件を未然に抑制し、最終的には「この映画はフィクションです」と言わせ、「現実」としてはそれほど巨大な事件が起こったわけではない『溜息』は、彼らにとってあまり面白くないのであり、「ぬるい」のである。私はむしろ逆で、奔走して「現実」をあるべき姿に保つことを通して逆に普通の危うさを印象付けたこと、ハルヒの願望が現実化することを映画制作という「虚構内の虚構」を通してハルヒの映画における願望=虚構が実際のことになる「虚構の現実化」を提示したこと、そしてそれを「この映画はフィクションです」という言葉で締めているといった舞台裏の動きや世界の構造に注目したから、『溜息』は傑作だと言うのである。
ところで、私にはよくわからないのだけれど、この起こった事件が面白いか否か、すなわち表象に注目するのが「ライトノベル」(以下「ラノベ」)を読む姿勢なのかもしれない。まあ意味づけとか考えだしたら、自然と重くなって「ライト」ではなくなってしまう気はする(たとえそうだとしても、『憂鬱』と『退屈』が面白くないという俺の印象に全く変化はないわけだが)。ちなみに私は、ハルヒを「ラノベ」と見るのは(『暴走』以降は読んでいないので知らないが)ハルヒを一面的に理解する結果になってしまうと考える。というのも、特に第一作の『憂鬱』はそうなのだが、少なくとも「涼宮ハルヒ」は三つの全く違った読み方ができるからだ。つまり、「常識」に基盤を置くキョンの視点を軸に世界を見ればハルヒの願望が引き起こすドタバタ中心の話、すなわち「ラノベ」になるだろう。そして長門たちの側、特に語りの多い古泉の側から見れば、「涼宮ハルヒ」は途端に(世界)哲学の話になる。あるいは、古泉言うところの「神」の視点も可能だ。それを通すなら、「常識」にこだわるキョン、力を暴走させるハルヒ、世界を繋ぎとめつつ、世界への愛着を語る古泉たちを掌の上で踊り続ける人間として達観した眼で見ることもできる。というか、そういった色々な視点で見れるからこそ、ハルヒは傑作と認識されてきたのではないか、と勝手に推測しているのだけど違うのだろうか?(つまり、「ラノベ」としても楽しめるし、深い世界観を持った話としても楽しめるわけだ。まあ私は「ラノベ」としてはだめだと思ったのだけど)。
確かに「常識」にこだわるキョンの視点を通して物語は語られるから事件中心あるいは「ラノベ」という見方になりやすいのかもしれないが、(この作品の場合)読者がキョンの視点に固執する必要はないように思う。少なくとも私は、古泉の台世界観に深みを感じるし、それに安易に反発するキョンは浅はかだと感じる(もちろんそれは、日常性を意識させることで異常性を浮き彫りにする演出なのだが)。そう考えると、ハルヒを「ラノベ」として固定したり、あるいはその事件にだけ注目するのはハルヒの表現意図を十分に吸収できていないという点で勿体ない、というのが私の考えだ(もちろん、ハルヒに多くの可能性があることをまず理解した上で「自分は~という楽しみ方をする」というのならわかるけど)。
「ひぐらし≒ラノベ」という見方も含めて、「ラノベ」というカテゴライズはその作品の可能性を(大いに)狭めてしまう危険性がある。そのことを、ここで強調しておきたい。
この違いは何によって生まれたのかとしばらく考えたら、両者が注目しているものが違うことに気付いた。すなわち、彼らは起こった事件そのものを重要視し、私は事件の裏での動きやその意味付けを重要視していたのだ。だから、古泉やキョンが奔走して事件を未然に抑制し、最終的には「この映画はフィクションです」と言わせ、「現実」としてはそれほど巨大な事件が起こったわけではない『溜息』は、彼らにとってあまり面白くないのであり、「ぬるい」のである。私はむしろ逆で、奔走して「現実」をあるべき姿に保つことを通して逆に普通の危うさを印象付けたこと、ハルヒの願望が現実化することを映画制作という「虚構内の虚構」を通してハルヒの映画における願望=虚構が実際のことになる「虚構の現実化」を提示したこと、そしてそれを「この映画はフィクションです」という言葉で締めているといった舞台裏の動きや世界の構造に注目したから、『溜息』は傑作だと言うのである。
ところで、私にはよくわからないのだけれど、この起こった事件が面白いか否か、すなわち表象に注目するのが「ライトノベル」(以下「ラノベ」)を読む姿勢なのかもしれない。まあ意味づけとか考えだしたら、自然と重くなって「ライト」ではなくなってしまう気はする(たとえそうだとしても、『憂鬱』と『退屈』が面白くないという俺の印象に全く変化はないわけだが)。ちなみに私は、ハルヒを「ラノベ」と見るのは(『暴走』以降は読んでいないので知らないが)ハルヒを一面的に理解する結果になってしまうと考える。というのも、特に第一作の『憂鬱』はそうなのだが、少なくとも「涼宮ハルヒ」は三つの全く違った読み方ができるからだ。つまり、「常識」に基盤を置くキョンの視点を軸に世界を見ればハルヒの願望が引き起こすドタバタ中心の話、すなわち「ラノベ」になるだろう。そして長門たちの側、特に語りの多い古泉の側から見れば、「涼宮ハルヒ」は途端に(世界)哲学の話になる。あるいは、古泉言うところの「神」の視点も可能だ。それを通すなら、「常識」にこだわるキョン、力を暴走させるハルヒ、世界を繋ぎとめつつ、世界への愛着を語る古泉たちを掌の上で踊り続ける人間として達観した眼で見ることもできる。というか、そういった色々な視点で見れるからこそ、ハルヒは傑作と認識されてきたのではないか、と勝手に推測しているのだけど違うのだろうか?(つまり、「ラノベ」としても楽しめるし、深い世界観を持った話としても楽しめるわけだ。まあ私は「ラノベ」としてはだめだと思ったのだけど)。
確かに「常識」にこだわるキョンの視点を通して物語は語られるから事件中心あるいは「ラノベ」という見方になりやすいのかもしれないが、(この作品の場合)読者がキョンの視点に固執する必要はないように思う。少なくとも私は、古泉の台世界観に深みを感じるし、それに安易に反発するキョンは浅はかだと感じる(もちろんそれは、日常性を意識させることで異常性を浮き彫りにする演出なのだが)。そう考えると、ハルヒを「ラノベ」として固定したり、あるいはその事件にだけ注目するのはハルヒの表現意図を十分に吸収できていないという点で勿体ない、というのが私の考えだ(もちろん、ハルヒに多くの可能性があることをまず理解した上で「自分は~という楽しみ方をする」というのならわかるけど)。
「ひぐらし≒ラノベ」という見方も含めて、「ラノベ」というカテゴライズはその作品の可能性を(大いに)狭めてしまう危険性がある。そのことを、ここで強調しておきたい。
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