『野球と其害毒』:印象を似非科学で糊塗する者たちと、権威主義の危険性

2021-08-09 11:33:33 | 歴史系

 

ほーへーなるほど、野球って本当に怖いスポーツですね。それでは皆さん武道にでも励みましょう。さよなら、さよなら、さよなら・・・ってなるかーい!!!

 

この動画をきちんと見ればわかる通り、これは印象論を新渡戸稲造といった「知識人」や「識者」と呼ばれていた人間たちがさももっともらしく述べているだけであり、科学的根拠はない。厄介なのは、こういった「理論」の皮を被った単なる印象批判が、権威主義の元に力を持ってしまうことである(ちなみに、これはスポーツを外側の世界から語る時にのみ起こる出来事ではなく、「練習中に水を飲むべきではない」などのように、スポーツの現場で様々な迷信が幅を利かせてきたことはよく知られている通りだ)。

 

同じようなことは、人間誰しも起こりうる。なぜなら、新しいものや馴染みがないものには基本近寄りがたさを感じるからで、さらに厄介なのは、近づかないことを正当化したいという欲求も同時に発生することが多い(でないと毛嫌いしているだけの偏狭な人間と思われるリスクもあるからね)。すると「結論ありきの印象論をさももっともらしく援用する」という行動にでがちなのだ(これは前に紹介したジョナサン=ハイトの「象」と「乗り手」の喩えなどを思い起こすのも有益だろう)。

 

その意味で言えば、思い込みやそれに基づいた批判というのは、非常に一般的なもので、ゆえにこそ自他関係なく「穏健な懐疑主義」をもって事にあたらねばならない、という反面教師的事例と言えるのではないだろうか。

 

 

 

【権威主義とそれへの批判に関連する小噺】

「天は二物を与えない」と言われるが、これはしばしば正しくない。というのは、人格高潔で有能な人間は普通にいるし、成績優秀で運動神経抜群の人間もレアケースではないからだ(まあ「優秀」の程度にもよりますがね・・・)。

 

じゃあこの格言は完全に間違っているのだろうか?そうではなく、この格言が有益になるには文脈設定が必要で、「優れた能力を持った人間に対し、勝手に理想像を押し付けることへの戒め」と考えるべきではないだろうか。

 

この「勝手に理想像を押し付ける」の例として、私はマルティン=ルターについて書いたことがある。私たちは学校の歴史で彼が宗教改革を行ったと習う。まあその改革の中身をどの程度正確・詳細に習っているかはとのかく、「改革者」として教わるわけだ。すると、中身を理解してなくても「さぞ開明的・革新的な人間なんだろう」と何とはなしに思い込んでしまうわけで、だからこそドイツの貧農が中心に起こした「ドイツ農民戦争」のようなものが生じた時、彼はそれを最後まで支援し続けるのではないか、と何とはなしに妄想してしまうのである(実際はその矛先が農民の待遇改善から封建社会自体の打倒へ向かった時、保守主義者でザクセン選帝侯の庇護も受けていたルターはその弾圧を理論的に正当化し、「裏切り博士」などと呼ばれた)。

 

この他でも枚挙に暇がないが、例えばナポレオンが新技術に対して向けた偏見、ジェファソンの奴隷制に対する態度などは有名なところではないだろうか(まあそもそも、必謬性を抱えた人間を理想視すること自体に危険性が伴う、とも言えるだろう。もちろん、現代の価値観で一方的に断罪することの欺瞞という意識=評価者自身の自己相対化も必要であり、それはホイジンガの『中世の秋』(あるいはコスモロジー)に関連した記事でも述べた通りである)。

 

今述べたような人間の思考様式は、歴史の複雑性や多面性を捨象する行為へとつながる、危険だが抜きがたい性質の一つである(それは情報が氾濫しているこの社会においてこそ、陰謀論や疑似科学が猖獗を極めていることにも表れていると言えるだろう)。

 

ゆえにこそ、「穏健な懐疑主義」を不断に持ち続け、権威主義に呑まれて思考停止しないことが必要不可欠なのだろう、と述べつつこの稿を終えたい。


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